大便器殺人事件その3
「なにぃ!ガイシャの死亡推定時刻は15時ごろだぁ!?」
宮中先輩に言われた通りに関係者を呼ぶために保健室の扉を開けた時、猪原さんの雷のような怒声が耳を突き抜けた。
その怒声が僕へ向けてあったなら、失禁もあり得ただろう。
幸運にも猪原さんのその声は電話相手に向けられており、僕が扉を開けた事すら気づいていない様子だ。
「ああ!わかったよ!詳しいことはこれからそっちで聞く!」
猪原さんはそう言って電話を切ると、ゆっくりと僕の方へ振り向く。
刃物のように鋭い瞳が突き刺さり、僕は言葉を発する事すら難しい。
「あぁ?宮中さんはいねぇんだな」
ゆっくりと僕へ近付き、周りを確認する。
姿ない天敵に不信感を覚えたのか、僕に疑惑の一瞥を寄越してから「何か様か?」
「あ、あのですね。宮中先輩が皆さんをお呼びしてまして……」
「犯人が……わかったのか?」
驚愕する猪原さんの声に、保健室全体の空気が棘のように張り詰める。
僕は胃の痛みを覚えながら、首肯する。
「さ、流石にあり得ないだろ。死亡推定時刻もわかってねぇはずだ。容疑者だって割れてないんだぜ?」
猪原さんのしかめ面から困惑の色が強まる。
「僕は全然わからないんですけど、宮中先輩は推理をすると」
「ッチ!しゃーねぇ、行くか。ただ、無鉄砲に容疑者を増やされても、刺激されても仕方がないし、行くのは俺だけだ」
「いいな?」と付け加えながら、僕の顔を覗き込んでくる猪原さん。その表情に気圧され、僕は本能的に頷いた。
僕は猪原さんの前を歩き、宮中先輩のいる三年二組へと向かう。
黒板から遠い方、保健室から近い位置の扉から教室へ入ると、宮中先輩は教師用のパイプ椅子に座り、僕らを見るやいなやため息を漏らした。
「猪原さん、最低でもぉ鈴木先生を呼んできてください。彼はぁキーパーソンーーこの犯罪を解くために欠かせない人なんですよぉ」
「それはできない!鈴木は去年、被害者の担任だった教師だ。そんな容疑者を刺激されたら、堪ったもんじゃない」
「なら断言しますぅ。鈴木先生ぇ、犯人ではありませんしぃ、あり得ません」
「何でそんな事断言できるんだ!」
ついに猪原さんの怒りに火が付いた。その様子は溜まった苛立ちが爆発した様にも見える。
しかし一方の宮中先輩は冷静というか穏やかというか、対象的で、「まぁまぁ」とたしなめる余裕すら見せる。
「この殺人は極めて冷静でぇ、知的な犯人が起こした殺人事件ですぅ。全ての行動に意味がありぃ、なるべくしてなった殺人事件なんですぅ。鈴木先生が犯人ならこの時期での犯行はぁ、不自然ですねぇ」
「じゃ、何で鈴木が必要なんだ!」
「簡単な話ですよぉ。今居る関係者の中でぇ一番被害者を知っている人物だからですぅ。生前の被害者を知らなければ、この殺人事件の一連の流れを説明したところでぇ、納得はできないですよぉ?」
「ぅっ!」
ぐうの音も出なくなったのか、猪原さんは息を飲んで数秒黙り込む。
「わかったよ。わかりました!今から連れてくるから、ちゃんと説明してください!」
そう言って猪原さんは教室を飛び出した。慌ただしく廊下をかける足音が鳴り響き、そしてすぐ足音は教室へ近付いてきた。
「ほら、これで良いんですね!説明してください」
「わ、私はやっていない!」
猪原さんに腕を引っ張られ教室へ連れてこられた鈴木先生は、開口一番に容疑を否認した。
鈴木先生が僕の叫び声に気付いた先生だったのか。
初めて見た時の冷静さは伺えない。それも仕方がないか、実績ある人間に疑われていると思っているんだから。
「ええ、わかっていますよぉ。安心してください」
宮中先輩は微笑みを浮かべて答えた。そして、飛び跳ねる様に椅子から降り、黒板の前、教卓へと向かう。
「ではこの殺人事件の解説を始めますぅ。しかしその前にぃ、被害者について。犯人像について。の二点から説明しますねぇ」
そう言って、宮中先輩は黒板に『武田悠人〈事実〉』と書いた。
「今現在、被害者の武田悠人さんについて、正確に事実と言い切れる事はぁ、案外少ないんですよぉ。
第一に彼は三年三組の生徒ぉ。男性ぃ。漫画研究部に在籍しているぅ。身長は174センチぃ。必要であり事実である彼の生前の情報はこれだけですぅ。鈴木先生、間違いはありますかぁ?」
鈴木先生は数十秒考えた末「全て正しい」と答えた。
宮中先輩はそれに頷いて答え、告げた被害者の情報を黒板に書いていく。
「続いてはぁ未確定の情報ですねぇ。鈴木先生ぇ、彼の特徴をお願いしますぅ」
「武田君は……活発な生徒でクラスの中心的立場で、外向性に富んだ生徒だった。性格は明るくて、人に好かれる人柄だった」
鈴木先生は言葉を選んでいたのか、少し考えた様子で答えた。
「では次の質問ですぅ。彼はぁ、異性から好意を持たれていましたかぁ?簡単に言えばぁ、モテてましたか?」
その問いに鈴木先生の目が、一瞬だったが見開いた。
宮中先輩は黒板の方を向き、『〈不確定〉活発。人気者。リーダー性有り』と書いていて、その表情の変化を見ていなかった。
「人気はあったと思う」
「先生も大変ですねぇ。同情しますよぉ?」
宮中先輩はクルリと振り向く。
「そう、武田君は女子の間でも評判の良い方でしたぁ。顔も良いですしぃ、肉食系と女子高生からモテやすいタイプでしたねぇ」
宮中先輩は一見優しそうな、意地の悪い笑顔を浮かべた。
そして半身で僕たちを見ながら「彼は事実としてぇモテていましたぁ。ついでに言えば、彼には彼女がいましたぁ」と言い、黒板の『〈事実〉』の項目に言ったことを
書いていく。
「おい、じゃあ犯人って……」
「いえいえ、犯人はその彼女ではありませんよぉ、おそらくぅ。彼女は大学一年生になりましたぁ。つまり、彼の一つ上ですぅ」
猪原さんの考えを一蹴し、宮中先輩は解説を続ける。
「生前の武田君についてはぁ、このくらいにしておきましょう。次は死後についてですねぇ」
いよいよ本題だ。目の前で行われている名探偵の生謎解きに、今更だが緊張してくる。
「まずはぁこの資料にある事実を纏めましょう。死因は溺死ぃ。食道、胃の付着物からぁ、便器の水で溺れたぁ。抵抗した形跡がありぃ、右手の人差し指の爪がぁ半分ほど剥がれてますねぇ」
宮中先輩はそれらの事実を黒板に書き連ねながら「猪原さん、何かぁ追加する事実はありましたかぁ?」と訊ねる。
「死亡推定時刻が割れた。時刻15時で前後二時間と推測される。深夜でも早朝でもない」
どこか嬉しそうな表情で、猪原さんは告げた。しかし、宮中先輩の反応は彼を喜ばせる様なものでなかった。
「それはぁそうですよぉ」と宮中先輩は呟き、事実の欄に書き加える。
「他に事実としてわかっていることはぁ、彼の首元に犯人のものと思われる手形ーー断言しますとぉ、この手形は犯人のものですぅ。手形のサイズからしてぇ、犯人は小柄な男性。もしくは平均かそれ以上の女性ですねぇ」
宮中先輩は黒板に『犯人〈仮定〉』という欄を増やし、そこへ『小柄な男性or平均以上の女性』と書いた。
「またぁ、この手形の指先の位置の痣がぁ一層強くなっていますねぇ。この事から動機は怨恨の可能性が高いですねぇ。もしかしたら男女間のトラブルでしょうかぁ?」
まるでどうでもいいと言わんばかりに投げやりに問い掛け、宮中先輩は再びこちらへ向き直す。
「次は犯行に関しての備考ですねぇ。これはわかっていると思いますがぁ、不審者はおらず、現状では決定的な容疑者ーー重要参考人がいないんですねぇ。また現場と思われる男子トイレの個室、ここに特別違和感はなさそうですか?」
その問いの相手は猪原さんだ。
「特に変わった点はないと思いますね。普通の個室トイレだ」
「白岡君はぁ何か気付いた事ある?」
予想もしていなかった振りに僕は考える。綺麗に掃除されていて、変わった傷や跡もなかった。個室が若干広いと思ったが、だから何だと言う事だ。
「僕も、何も感じませんでした」
宮中先輩は僕の答えに二三度頷いた。
「ではお待たせしましたぁ。これから犯行の手順を説明します。……あぁ、最後にーー」
宮中先輩は何か思い出したのか、小さく手を叩いて言葉を区切った。
「ーー残念ながらぁ犯人の特定が済んでいません。そのためぇ、厳密な犯行手順の推理はぁ推測の域を出ていません。簡単に言えばぁ、雑破な説明となりますぅ。また犯人特定のヒントのような事は言えますのでぇ、参考にしてください」
宮中先輩はそんな前口上を言い終えると、再度一拍鳴らした。
「それでは最後までお聞きくださいっ!」