記憶喪失
鬱々とした日々が暫く続いたある日……。私のスマホが夫からの着信を知らした。
『あなた? どうしたの?』
普段通りに出てみれば、聞き覚えのない声が電話越しに聴こえた。
『あ、奥様でいらっしゃいらますか? あの、突然すいません。 僕ご主人と同じ会社で働いているもので、都築と申します。 奥さん、落ち着いて聴いて下さい。 今朝ご主人と僕は会社から営業先へ車で向かいました。 僕の運転です。 その帰り道、一台の車が正面から突っ込んできて……。 僕は軽症ですみましたが、ご主人は意識が戻らなく今も病院のベッドで……。 怪我自体大した事はないとの事でしたが、意識が戻るかは……。 申し訳ないのですが今からこちらへ来て頂けますか? 医師の説明もありますし、諸々の手続きも……』
そこまで聴いて私は呆然とした。あの人が事故に?意識が戻らない?
『奥さん? 大丈夫ですか?』
『分かりました……。 どちらの病院ですか? 入院の準備をして、直ぐ伺います』
気丈に振る舞い病院の場所を聴いた。
久しぶりの家に帰ると意外にも整理整頓されて驚く。几帳面な人だったっけ。
二階の寝室に向かい、クロゼットから必要な物を取り出し鞄に詰め込んだ。何を持って行って良いのか分からないが、パジャマと下着など数枚持って行く事にしよう。
準備を整えすぐさま教えられた病院へとタクシーで向かった。
病院へ着き、名前を言い病室へ行くと、そこには椅子に腰掛けた男性の後ろ姿があった。頭には包帯が巻かれている。
「あの……? 会社の方ですか?」
私の声に振り向き立ち上がるといきなり頭を下げられた。
「申し訳ありません! 僕がきちんとしていれば避けられたのに……」
「……前から来たのでしょ? 貴方のせいではありませよ……」
「しかし……」
「それよりお怪我は? 大丈夫ですか?」
ゆっくりベッドの方へ近づきながら尋ねた。
「はい。 僕は……。 しかし」
「ーー主人はまだ?」
ベッドで眠る夫を見やる。頭には包帯。腕にも包帯がされていて、眠っていた。
「これから医師の説明を受けます。 貴方も怪我をされているから、帰って頂いても……」
「ありがとうございます。 本当に申し訳ありませんでした!」
何度も謝り、都築さんは病室を後にした。
私は病室のロッカーに着替えなどを詰め込み、ナースステーションへ行き、医師の説明の手はずを整えてもらった。
病室の椅子に座り改めて夫の顔を見つめた。
前よりも少し痩せた?
ピクリとも動かない夫の手をそっと握る。
ーー冷たい。
暫くして医師が病室へと入って来た。中年の男性医師は夫の容態を説明し、頭を打っているから意識がないだけで、そのうち戻る事と、腕にヒビがはいっているから完治するまで時間がかかる事を説明した。
入院の手続き、互いの親への連絡を済まし再び病室へ戻る。
「あなた……? 早く目を覚まして……」
身勝手な女だと分かっている。この人を苦しめた事も。
だけど今は。本当に心配でたまらなかった。
数日後。夫の意識が戻ったと病院から電話がかかってきた。
丁度新しい着替えを取りにと、洗濯をしに家に戻っていた時だった。
子供達には知らせていない。心配をかけるからだ。
私は母に連絡をし、足早に病院へ向かった。
病室へ入ると、ベッドから身体を起こし看護師さんと話をしている夫の姿が目に入る。
少しまだ辛そうだが、とにかく意識が戻ってよかった。
「もう大丈夫なの?」
安堵の表情を浮かべながら夫に近づくと……。
「君は誰?」
思いもよらない言葉が返ってきた。
「一時的な記憶喪失でしょう。 何かをきっかけに戻ると思います」
やって来た医師の説明を、他人事の様に聴く夫。
私も動揺してしまい、上手く言葉の意味を解釈できない。
‘‘記憶喪失’’
漫画やドラマの様な言葉だ。まさか自分の夫が。
いや。もう私達は夫婦とは呼べない。
けれどどうしてだろう。私はこの人が私を忘れてしまった事にショックを受けた。
『君は誰?』
その後やって来た自分の親は覚えている。けれど結婚した事。私という存在を知らないと言ったのだ。
就職した事は覚えている。その後はどうしてか覚えていない。
「あなた……」
私にこの人の世話をするのはお門違いだ。しかし夫の両親は遠方にいるし、身体をも健康ではない。
いくら別居していてもまだ離婚はしていない。
下された判断は、私が看る事だった。
病院からの帰り道、子供達がパパに会いたいとせがんだ事を思い出し切なくなった。
子供達に会わせる訳にはいかない。自分を忘るた父親の姿を見たら……。
ため息が夕焼けの空に消えていく。
「あ、湊君に連絡しなきゃ」
スマホを取り出し湊君へと連絡した。
『旦那さん、そんな事になったんだ……。 無理するなよ?』
『うん、ありがとう』
夫の様子を伝えたら、そんな言葉が返ってきた。
湊君は優しい。いつでも気遣ってくれる。
暫く会えないけれど、大丈夫……。
けれどそんな優しさも夫の私を見る目を思い出したら憂鬱な気持ちにかき消されてしまう。
他人を見る様な夫のあの目。遠慮がちな態度。寄せ付けない境界線。
妻だから。致し方なく甘んじているが、決して心を開く訳でもないのは、やはり記憶のどこかで私を拒絶し、心を壊した私を軽蔑しているのだろう。
今更だけど、そんな夫の身の回りの世話をするのは苦しくて切なくて。哀しくて……。
心を許さない態度に傷つくなんて図々しい。理解しているのに、やっぱり私はズルイんだ。
「貴弘さん……。 着替えここに置いておきますね。 私、洗濯しに一回帰ります」
「あなたら」ではなく名前で呼ぶなんて久しぶりだ。でもあなた。なんて呼べる訳にはいかない。
名前でも憚れるが、夫婦だという事で妥協してもらった。
「ああ、どうもありがとう」
他人行儀のセリフはもう慣れた。けれど心にとげが刺さっている気がするのは何故?
夫の顔を見れない。余所余所しい会話。私は何を望んでいるのだろうか……。湊君のてを離せないと思ったくせに。嫌な女だ。
家に着き洗濯物を干しながらふと思う。当たり前の日常を手放したのは私なのに。気付けば湊君へ自分から電話をしなくなっていた。