その手を放す時
泣いても仕方ない。
次の日私は自分を奮い立たせ、病院へ向かった。
「おはようございます……」
シンとした病室に入ると、微かにいい匂いが鼻をついた。
「貴弘さん……?」
声をかければ既に起きていた様で、ジッと私を見つめ、 「ああ、君か……」
感情の無い言葉でそう言った。
私はグッと手に力を入れ、着替えの入っているロッカーを開け、中から洗濯物を取り出し、新しい着替えを入れた。
「今日はお天気も良いからカーテン開けますね?」
「頼む……」
「朝ごはんはこれからですよね? 食欲ありますか?」
「……いや、あんまり」
「体力つきませんよ?」
「……」
会話は続かず気まずい雰囲気になってしまう。
私は窓辺の花を見つめ 「綺麗な花ですね」
笑顔でそう言った。
「ああ。 雪村君が持って来てくれたんだ。 中々綺麗で気に入っている。 やはりセンスがいい」
私は唇を噛み締めた。
そう言えば私の買った花が無い……。きっと捨てられたのだろう……。
忘れられた妻なのだから、仕方ない。それに裏切った妻でもあるのだから……。
朝食の時間になり、私は貴弘さんの前に食事をはこんだ。
「余り食べたくないな……」
「少しでも食べなきゃ」
「分かったよ……」
ゆっくりと貴弘さんがスプーンでスープを飲み始めた。
私はその間に売店へ行き自分の飲み物を買いに病室を出た。
「あら?貴女……」
目の前に立つ女性に驚きビクンとなる。
「雪村さん……」
「貴女また来たの?貴弘さんのお世話は私がすると言ったじゃない?」
「でも医師の説明もありますし……」
負ける訳にはいかない。
妻としての立場を使った。
「……卑怯者」
「何と言われても結構です。 しかし、夫の世話は私がします。 お引き取り下さい」
「……貴女に言われる筋合いは無いわ」
そう吐き捨て彼女は病室へ入って行った。
私も後を続くと、食事を終えた貴弘さんがにこやかに雪村さんを迎えた。
「会社はどうしたんだ?」
「有給を取りました。 お世話をする為です」
「申し訳無い。 何もそこまで…」
「遠慮なさらないで下さい。 私に出来る事をするまでです」
チラっと私の顔を見てにこりと笑う。
不貞妻は不要という事か……。
「貴弘さん、私帰ります……」
洗濯物の袋を持ち、逃げる様に病室を出た。
これ以上ここに居られない。
病院を出てタクシーを捕まえ、貴弘さんの家へ向かった。
洗濯物を洗濯機の中に入れ回し、その間に部屋の掃除をした。
やっぱり私が世話をするべきではないのだろう。
そう思うけれど、どうしてもあの人にこの家に入って欲しくない。
欲張りで、我儘なのはわかっている。
湊君の人生も、貴弘さんの人生もメチャクチャにしておいて……。
身勝手な自分はやはり二人の元にいるべきではないのだろう。
洗濯物を室内に干し、簡単に部屋を片付けて私は家を後にした。
『もしもし、湊君?ごめんね。 忙しい?』
『大丈夫だけど、どうした?何かあった?』
『ごめんなさい……。 私の身勝手で貴方を振り回して……。 良く考えたの。 貴方の手を放します。 夫の手も放します……。 ごめん……なさい……。 本当にごめんなさい……。 身勝手で、無神経でごめんなさい……』
『もう会わないって事?暫く時間くれって言って俺も考えたけど、やっぱり一緒に居たいと思ったよ。 でもお前の気持ちは変わってしまったって事か……。 旦那さんの手も放すのか?旦那さんに忘れられて気づいたんじゃないか?何が大事かって事』
『私にはあの人の側にいる資格なんて無いよ。 もちろん湊君の側に居る資格も無い……』
『これでお終いって事か?』
『ごめんなさい……』
『俺の手を放しても、旦那さんの手は放すなよ。 何が大事かって分かったら、絶対後悔だけはするな』
『……』
『俺、お前に会えて良かった。 再会できて良かった。 手を繋げて良かった……。 だから、後悔する様な事はしない』
『湊君……』
『子供達も居る。 しっかりしろよ』
『うん……。 本当にごめんなさい……。 私も貴方と会えて良かった。 手を繋げて良かった……』
『元気でやれよ?俺は納得なんてすぐにはできない。 けど、お前には笑顔で居て欲しいから。 元気でやれ』
優しい湊君はそう言って電話を切った。
貴方と出会えて良かった。手を繋げて良かった。
それは偽りない想い。
でも繋いだままではいられない。
実家に帰り、子供達に貴弘さんの事を伝えた。
記憶が無いと伝えるのは、凄く残酷な事だけど。
私はある決心をしたから。
小さな子供達にはかわいそうだけど……。
「パパ忘れちゃったの?」
「ねぇ、ママ何で?」
一つ一つ丁寧に説明をして、それでも納得できない子供達を宥めた。
泣き出す子供達を抱き締め 「明日パパに会いに行こう」
そう言って励ました。