夫を想う人
夫の入院生活のアレコレは、妻である私の仕事。
なるべく刺激しない様に注意しながら看病を続けた。
「毎日こなくてもいいのに……。 ここは完全看護だし、だいぶ動ける様になったから洗濯も自分でできる。 君は申し訳ないけど、足りない物を持ってくるだけでいいんだよ?」
ある日の夫の言葉。
入院して二週間が経つ頃、私に向かってそう言った。
確かに完全看護だし、はっきり言って私のやる事は余りない。
頭で理解しても、突き放された様な言い方にチクリと胸が傷んだ。
「でも、看護士さん達も忙しい様だし、それにまだ傷もあるし……」
気が付いたらそう言い返していた。
「……なら有難く世話を頼もうかな?」
にこりと笑った夫の顔、久しぶりだ。
夫は私を自分の妻だと理解していない。周りが色々説明しても却って混乱する。
私の事は会社の社員くらいにしか思ってないのだろう。
夫の記憶は社会人になって、ようやく仕事に慣れてきた辺りで止まったまま。
『君はうちの社員なの? ごめんね、全く覚えてないんだ』
目の前で発した台詞。仕方ないと割り切るしかないけれど、現実はやはり厳しい。
子供達の事を考えたら、尚更なのだろう。
「私は大丈夫です……」
蚊のなく様な声でそう答えた。
何故だろう。離婚まで決めた相手なのに夫の一つ一つの言葉をが胸に突き刺さる。
潜在意識の中で、私を拒絶しているのだろうか。
自分勝手な悲しみを堪えても、涙は止まらない。
自宅に戻り、必要な物を揃えながら私は泣いた。
ショックを受けている。確かに忘れられた事にショックを受けているんだ。
さっと必要な物をカバンに詰め、私は足早に病院へ戻った。
道中湊君に電話をし、当分会えない事を告げ了承を得た。
病室の前まで来た時、ドアの向こうから数人の声が聴こえ、思わずその場に留まった。
会社の人がお見舞いに来ているのだろう。
振り返り道すがら購入した花を剪定する為に共同洗面所へ向かおうとした時……。
「もー! 貴弘さんてば何で私に看病頼まないんですか? 会社の帰りとか休みの時とかできるのに」
明らかに女性の声。しかも名字で呼んでいない。
仲の良い同僚なのか、それにしても声だけで若いと感じた。
胸に宿るモヤモヤを抱えた まま、私はドアの前から移動した。
花の茎を剪定していた時、背後に誰か立った。
「貴弘さんの奥様ですか? いや、 ”元”と付けた方が宜しいのかしら? 結婚が破綻になるのだから」
鏡越しに映ったその顔は、二十代なのだろうか、小綺麗な女の人で、不気味な笑みを浮かべていた。
「確かに結婚は破綻してますが、また妻ですのであの人のお世話は私がやります。 緊急の場合家族しか立ち会えませんし……」
この場をとっとと離れよう。
さっと花とカバンを持って足早に病室へ向った。
女の人は何か言いたげにこちらを睨んでいたが気にしない。
病室へ入ると三〜四人の男性が夫と話していて、
私に気付くとみんなピシッと立ち挨拶した。
「毎日お疲れ様です。 奥さん」
「まだ退院できないみたいですね……。何か必要な事があったら遠慮なく言って下さい」
夫より若く見える男の人達は会社の人だろう。スーツを着て挨拶も完璧だ。
「有難うございます。お気持ちだけで充分です」
そう挨拶した時、先ほどの女の人が入って来た。
淡い黄色のワンピースがとても似合う女性。
私を見事スルーし、貴弘さんのベッドまで近付き、何やら話をし始めた。
私は花びんを手に病室を出、再び洗面所へ行き花びんに水を入れながら、二人で何を話しているのかと気になった。
夫の想い人か、夫を慕う人か……。同じ会社に勤めている人なのだろう。とても親しげな雰囲気だったな……。
何かやはり悔しい。多分、きっと……。
湊君を選んだ筈なのに、私って最低だ。
花びんを手に病室へ戻ると、女の人だけが残っていた。夫に寄り添う様な形で椅子に座り何やらまだ話している。
窓際に花を生けた花びんを置き、カバンから洗濯した服等ロッカーにしまい、じっと二人を見つめた。
「あら? 奥さんまだいらしたの? 貴弘さんのお世話は私がやると言ったのに」
振り向きざまにそう告げた。
「お名前も存じ上げない方にそう言われましでめ……」
「ご安心下さい。私は貴弘さんと同じ会社の者で、雪村小夜 と申します。ご主人にはとても良くして頂いています」
「そうですか……。しかし他人の貴女に任せられません」
「そうですか? でももうじき他人になるのでしょう? だったら同じじゃないですか? 貴弘さんも私がいいと仰っていたし……」
そう言う彼女の目は笑っていなかった。
「申し訳ないけどお断りします。 子供達にも会わせたいですし……」
その台詞がいけなかったのか分からないけど、突然椅子から立ち上がり、私に向かって来た。
「貴女子供達を会わせる気? 貴弘さんが混乱するじゃない。 それに他人は既に貴女の方だと思うけど?
知ってる? 貴弘さんが早く離婚したがってるって。
とにかく! 貴女は帰って! 家の鍵を置いてね!」
いきなりそう言われ、呆然としていた私 「雪村君の言うとおりだ。 君は帰ってくれ」
貴弘さんの声が病室に木霊した。
「あーあ。 何やってるんだろ私……」
病院からの帰り道、貴弘さんの顔を浮かべ呟いた。
一体いつからあの人と仲良くなったのかな?
やっぱり私のせいなんだろうな」
息を吐き出した時、電話が鳴った。
「はい……」
『湊だけど今大丈夫? 急な話だけど、今晩夕飯行かない? 子供達連れて。 たまには気晴らししないと。
予定平気?』
突然湊君からお誘いがきた。
本来なら嬉しい事なのに、私の口から出た言葉は否定的な物で、それでも明るく、『また今度』と言ってくれた事に感謝した。
今日はダメージが大き過ぎる。我儘だけど食事等行く気分にはどうしてもなれなくて、丁度来たバスに急いで乗り込んだ。
車窓から見える景色は真っ暗で、気持ちもザワザワしていて……。
吐き出された言葉を思い出しつつ、ゆっくり目を閉じた。
気持ちの何処かに、まだ夫を思う自分が居て、それに気が付いた自分が情けなく、ズルい自分が許せなく、身勝手過ぎて呆れてしまう。
妻として夫を看病するのは当たり前だけど、破綻寸前の私達は何処から見ても不自然なのかも知れない。
あの人に反論する資格等私にはない……。
いつの間にか未練たらしくなる自分は、酷くみにくいのだろう。
許されない過ちを起こしてしまったのだから……。
ぼんやりしながらそんな事を考え、バスを降りた。
「明日からどうしよう……」
結局家の鍵は渡さなかった。夫は鍵を持っていない。入院の際病院から私物を預かったから。
それに必要な物は大体揃ってるし、あの人が買うだろう。
それでも、胸に巣食う暗い気持ちを払拭できず、どうしたものかと気持ちの整理を始めた。
「ママ〜!お帰りなさーい!」
「ママお帰りぃー!」
今現在実家にお世話になってる私達。外遊びをしていた子供達のお出迎えを受け、家の中へと入った。
「ママ〜。 パパにいつ会える?』
無邪気な笑顔で下の子がそう尋ね、返事に困ってしまう……。
「うーん、もう少し待っててくれるかな? ごめんね」
曖昧な返事をし、支度をしに部屋へ入った。
薄暗い部屋はシンとして、少し寒い。もう直ぐ秋がやってくるのか……。
電気を付け、部屋着に着替えその場に座り込んだ。
私は何をしたいのだろう……。何度も同じ台詞が口からでても、解決にはならない。
病院にも行けない……。確かに妻だから、医師の説明の時は呼ばれるだろうけど、普段は行ける訳ない。
仲よさげなあの二人の顔を見たくもないし。
「失って初めて気づいたのかな……」
許されないのは分かっている。だけど夫の側にいたい。馬鹿な奴だって分かっている。
けど悔しい……。
私は湊君に電話をかけた。
「湊君……。ごめんなさい。私やっぱりあの人の側に居たい。叶わなくても……。本当にごめんなさい。貴方の人生もメチャクチャにしてしまって、 こんな事許されないけど」
精一杯自分の気持ちを述べた。
『……急過ぎて頭がついていけないけど、 旦那さんがいいんだろ? 俺の手を離さないって約束したのもお前。一緒に居たいと言ったのもお前。俺もお前を手放したくないと言った。その手を放さないとも。だけど……。悪い。暫く時間くれ」
震える声でそう言い、湊君は電話を切った。
本当にごめんなさい……。その言葉しか思い付かない……。
何て奴だと罵られても。その手を放してしまっても、私にはこうする事しかできない。
その夜は沢山泣いた。理由など分からない程沢山泣いた。




