文化部長×体育部長――1
ヒロイン何それおいしいの?
薔薇帝の薔薇庭――そんな言葉遊びのような名を冠したイングリッシュ・ローズ・ガーデンで、1人の生徒がアフタヌーン・ティーを楽しんでいる。どこか帝王然とした風体で1人気ままに優雅なティー・タイムを楽しむその人を、学園の生徒たちは|《薔薇帝》《ばらてい》と呼ぶ。薔薇帝の薔薇庭は、薔薇帝が自らの憩いの場として作った、いわば不可侵の庭なのである。
薔薇帝は授業以外の時間は日がな一日この薔薇庭でのんびり過ごす。薔薇帝は面倒事を好まない。よってあまり人付き合いも好まない。ただし、自らの内側に入れた人間に対しては、とことん甘い。薔薇帝が薔薇帝と呼ばれる所以は、その帝王然とした振る舞いと身内以外には冷徹極まりない性格に拠るものである。
がさり、と他の庭と薔薇庭を画している植込みが音を立てる。薔薇帝は気分によって使い分けているティー・カップ―ちなみに今日はウェッジウッドのアレクサンドラ、色はシャンパンゴールドである―を優雅な手つきでソーサーに置き、テーブルの反対側に用意しておいた対のティー・カップへ香り豊かなトワイニングのアールグレイを注ぐ。琥珀色のそれが、ティー・カップを満たした頃、薔薇帝は虚空へ向けて言葉を放つ。
「いつまでそこで呆けているつもりだ。君とわたしは知らぬ仲ではあるまいに」
「君の前では天下の藤皇学園執行部体育部長も形無しだな。……アレクサンドラか、相変わらずいい趣味をしている」
「それがわたしの唯一の趣味だからな。もはや道楽と言っても過言ではない。風流を解さない我が婚約者殿には常々小言を頂いているが、それくらいで止められるのであればわたしはこの場で薔薇帝などと呼ばれてはいないさ」
「はは、違いない」
薔薇庭の侵入者は、薔薇帝に導かれるまま向かいに座る。そして1口、2口と香り豊かなアールグレイを楽しむと、きり、と居住まいを正し薔薇帝を見据えた。
「理広、話がある」
「君から相談を持ち掛けられるのはわかっていた。祐徳、わたしが力になれるかどうかはわからないが、君がよければ話してくれたまえ」
「ありがとう、理広。恩に着る」
そうして祐徳と呼ばれた青年は、薔薇帝に向けて話を始めた。
++++++++++
陣中祐徳と早瀬織部は互いが生まれた時からの幼馴染である。父親同士もまた幼馴染であり、彼らは脈々と家族ぐるみの付き合いを続けてきた両家において、例外なく親交を深めていた。
陣中も早瀬も、薔薇帝の生家に比べれば取るに足らない家柄であるが、それなりに歴史に名を残す家だ。当然彼らは藤皇学園に幼稚舎から通い出した。
学園生活は、未来への布石である――陣中にそう教えたのは、奇しくも同じクラスに所属していた、未来の薔薇帝こと相良宮理広である。薔薇帝の薫陶を受けた陣中は、生来の人当たりの良さをもって人脈を形成する。陣中は社交的であり、品行方正であったが冗談もよく通じた。それ故に彼は級長として、初等部の6年間クラスの中心であり続けた。
常に周りに人が絶えない陣中と異なり、早瀬はとにかく1人でいることを好んだ。陣中以外が周りにいることをよしとせず、陣中が彼の視界から出て行こうものなら無理やりにでもついていこうとする。そんな早瀬を口さがない連中は口々に罵ったが、陣中は早瀬を捨て置こうとはしなかったし、薔薇帝も折を見ては早瀬を気にかけていた。陣中は知る由もないが、薔薇帝は美しく危なげな早瀬と、彼が時折見せる陣中への異常な執着を危険視していたのである。
そして、薔薇帝の予感は的中する。
『彼女ができたんだ』
早瀬が陣中にそう告げたのは、確か中等部に入ってすぐの事だったと思う。陣中は早瀬が自身をかなり好いてくれているという自覚があり、自身もまた早瀬を好ましく思っていたが、幼馴染にできた初めての恋人を喜ばしく思わなかったわけではない。報告を聞いた陣中は我が事のように喜び、早瀬とその恋人を祝福した。それを早瀬も目を細めながら受け入れてくれていた。そうして、生まれてからこの方、片時も離れたことのなかった2人に、初めて別離が訪れる。
陣中から見て、早瀬とその恋人はとても仲睦まじいようであった。早瀬の恋人は中1にしては躾の行き届いたよい令嬢であり、恋人の友人でしかなかった陣中にもよくしてくれた。だから陣中も早瀬の友人として、彼女に対して最大限の礼儀を尽くしていたのだ。
『織部、その子は…』
『ああ、祐徳には言ってなかったっけ。この子、おれの彼女』
『え、』
陣中は早瀬の初めての恋人を嫌いではなかったし、むしろ好ましく思っていた。けれども、早瀬は彼女と3ヵ月も経たないうちに縁を切っていた。そして新しい恋人を見つけている。恋に恋する年頃とはいえ、陣中にとってそれは異常なことのように思われた。その瞬間、陣中は初めて早瀬の異質さを認識した。
それをきっかけに、陣中と早瀬の間に亀裂が入る、なんてことはなかった。2人は相変わらず仲の良い友人同士であったし、陣中は次から次へ出来る早瀬の恋人を紳士然とした振る舞いで祝福した。何人もの女生徒が早瀬の恋人となり、陣中と親交を深め、そして早瀬と陣中の前から去って行く。早瀬のそれはもはや病気にも近く、何故そこまでして女生徒と交際したがるのかについて陣中はそれとなく尋ねてみたものの、弁の立つ早瀬に何度となくはぐらかされて尋ねることを止めてしまった。
早瀬は女生徒と交際しながらも、相変わらず陣中の傍に居た。バレー部に所属していた陣中の部活が終わるまで絶対に帰ろうとしなかったし、彼が陣中以外を優先することはなかった。何においても陣中は早瀬の優先順位堂々の1位を占めており、それは時に、彼とその恋人の別離のきっかけにさえなった。陣中は女性に恨まれるのは勘弁してほしいと、早瀬に改善を願ったがそれは敢え無く突っぱねられる。
『世界に終わりが訪れても、おれは祐徳を優先しないなんてことはできない』
その言葉を聞いた瞬間、陣中はなんてことだ、と頭を抱えた。ここに至って彼は本当の意味での早瀬の異常さを認識することになる。早瀬が陣中に向ける感情は、最早同性の幼馴染に対して向けるものではない。執着、或は執念。普通に生活していたらまず向けられることのない感情を、友人と思っていた人物から向けられている。その事実に恐怖した陣中は、早瀬と距離を置くことを決意する。
初めのうちはよかった。早瀬も疑問を覚えつつも陣中の好きなようにさせてくれていたのだ。今までの距離感が問題であったのだ、これから適切な距離感で接していれば、早瀬の目も覚めることだろう。この期に及んで陣中の見通しはそんな甘いものであった。しかし、早瀬を避け初めて2週間が経とうとしたある日、陣中は自身の選択が拙いものであったことを悟る。
『ねえ、祐徳。どうしておれを避けているの』
寮の自室で、ベッドに腰掛けた陣中が身動きできないように壁に手をついた早瀬は、冷たい目で陣中を見下ろしていた。陣中はこの時ほど寮の自室が2人部屋で、かつ早瀬と同室であったことを悔やんだ日はない。
『何を言っているんだ、織部。俺がいつ君を避けたというんだ』
『そうだね、普通だったらあれくらい避けているとは言わないかもしれない』
『だから避けてなどいないと、』
『だけど!』
ダンッ!と音を立てて早瀬の拳が壁に打ち付けられる。彼の激情を目の当たりにして、陣中は今更ながら背中に冷たいものが伝うのを感じる。早瀬の目は激情を湛えたまま、陣中を見下ろしている。その瞳に激情だけでないものを見つけ、陣中は体をこわばらせた。早瀬の右手が壁から離れ、陣中の腹へと置かれる。早瀬の手は、彼の目に宿る炎と同じくらい、熱い。
『おれはきみに対してよこしまな感情を抱いているんだ。なぁ、祐徳、聞いてくれよ。おれはきみのその腹に触れてみたかった。そう、その波打つ腹だ。きみにのし掛かって、蕩けそうなきみの、その腹を伝う汗を舐めとりたい。そうしてそのまま下へ行き、黒々とした茂みやそれに隠されたきみ自身をおれに味わわせてくれよ。……そして、永遠におれのものになってくれ』
『は……?』
『祐徳。……おれを、赦してくれ』
『え、ちょ、おりべ…っ!』
止めろ、と言う間もなかった。バレー部で鍛えたはずの陣中の身体は、それまでろくに運動をしてこなかったはずの早瀬に縫いとめられてしまって動かない。早瀬は意外とバカ力だったのか。現実逃避をするようにそんなことを思う陣中であったが、危険は刻一刻と見に迫っている。先程の早瀬の言葉を真実として受け止めるのであれば、陣中の貞操はこの場で早瀬によって奪われてしまうらしい。それだけは避けたい。避けたいのだが、どうあっても身体は動かない。
『織部!やめろ、やめないか!』
『嫌だ、祐徳の頼みでもそれだけは聞けない』
『クソ織部ェッ、このまま俺の同意なく最後まで致してみろっ。俺は絶対にお前を見てやらんし、お前のことなど虫けら以下として扱い、絶対にお前のものになどなってやらんからなッ!』
果たして陣中の必死の叫びが届いたのか、それとも早瀬が気まぐれを起こしたのか定かではない。しかし結果として陣中の貞操が奪われることはなかった。ただし、貞操を奪われなかっただけで、早瀬が述べたような少し、否、些か変態じみたことは実行された。
どうして己は幼馴染と思っていた男にこのような辱めを受けねばならないのか。事が済んだ後、ベッドに横たわった陣中の心には、確かに早瀬に対する深い憎悪とそれを上回る戸惑いが棲んでいた。今まで真っ当に生きてきて、性の発散方法も運動に頼るだけで自らを慰めたこともない淡白な陣中にとって、早瀬から齎されたそれは、人生初の性体験であった。
陣中も男であるから、それなりに初体験に対して夢を抱いていた。可愛い女の子や綺麗な女性と素敵な恋愛をして、そのうちに体を重ねるのだと、どこかで思っていた。まさかその相手が気心の知れていたはずの、同性の幼馴染とそうなるなんて夢にも思わなかったのである。
だから陣中は心を鬼にして早瀬を罵ろうと思っていた。確かにそう思っていたのだ。けれどできなかった。早瀬の目が、意に染まぬ行為を為された自身よりも、深く傷ついていたから。
陣中は知っている。早瀬がどれだけ自身を好いていて、そしてどれだけ繊細なのかも。きっと彼はずっと昔から悩んでいたのだ。陣中に対して、恐らく友愛以上のものを抱きながらも、それの伝え方がわからず、こうしたやり方になってしまったことに対して傷付いている。あまりの幼馴染の不器用さに、陣中は生来の包容力を発揮して一瞬絆されかけた。しかし早瀬は生まれつきの策士である。陣中の優しさに付け込んでこの一件や、これから彼が為すだろう所業についてチャラにしてもらうつもりならば、陣中にも考えがある。
『……早瀬、』
陣中の声に、目の前で項垂れていた早瀬の瞳が絶望で染まる。それで、陣中の鬱憤も少しだけ晴れる。身体を起こし、未だ円やかな輪郭の早瀬の頬へ、何度も突き指をしたせいで少し節くれだった指を滑らせ、口の端を持ち上げる。
『ひ、ろのり、』
『早瀬、俺は君に、俺に触れるなとは言わない。君を遠ざけるつもりもない』
『祐徳、』
『しかし。俺の同意なく俺の身体を暴こうとしたり、俺に理不尽なことを強要したりしてみろ。俺はその場で舌を噛み切ってやるからな』
一方的に宣言し、陣中はベッドから降りる。自室から出ていく直前、早瀬の懇願じみた声が聞こえた気がしたが、聞こえなかったふりをしてドアを閉めた。そしてそのままある場所へと向かう。向かった先は、陣中が最も信頼している人物の部屋であった。