公募ガイド「虎の穴」第17回『リンゴ』
第17回課題
タイムスリップ(時空を超えてどこかに行く話)
『リンゴ』 あべせつ
林檎を齧ると、そこに深淵があった。中を覗いてみると果てしない闇が続いている。
じっと覗いていると、その奥の方にキラッと光る何かが見えた。
俺はその何かを取ろうとして指を突っ込んでみた。指先から一瞬にして腕が、肩が、頭が深淵に飲み込まれ、ついに俺の体はそのまま林檎の中に吸い込まれて行った。
リンゴの中は宇宙空間にも子宮の中にも似ていた。暑くもなく寒くもなく、星も羊水もは無いが、深い闇の中、俺は落ちもせず上がりもせず宙に浮いている感じだけがしていた。
為すすべもなく深淵を漂っていると、まるでいきなりドアが開いたように向こう側から光が射し込んで来た。
あそこに出口がある。俺は光に向かって深淵の中を平泳ぎのように泳いで行った。
宇宙空間で泳ぐとこんな風になるのであろうか、思い通りに前に進まない。少し苛立ちを感じながら、必死に泳いだ。
ようやくたどり着くと光は空間に空いた穴から射し込んでいた。その穴からくぐり出るとそこは森の中で、俺の足元に女が倒れていた。
艶やかな長い黒い髪には赤いリボンが飾られ、白い肌はなめらかで、赤い唇のうら若き上品な美人であるが、中世時代のようなやけに古めかしいデザインのドレスを着て、外国人のようであった。どうやらリンゴを食べていた時に、俺が中から飛び出したので、驚いて喉を詰まらせたらしい。そばには一口かじられたリンゴが落ちていた。
俺は脈がないかと女の胸に耳を当ててみたが、鼓動は聞こえない。人工呼吸を施そうとした時、遠くからバタバタと大勢の人が駆けつけてくる足音が聞こえてきた。
俺は助けを呼ぼうと、そちらを向いて立ち上がると、血相を変えた7人の小さな老人が口々に『魔女だ、あいつの仕業だ』と叫びながら突進してきた。
俺は自分が殺人犯にされてはたまらぬと思い、落ちていたリンゴのかじり穴に指を突っ込んで、また元の深淵の中へと戻った。
何が何だかよくわからない。どうすれば帰れるのかもわからない。為すべきもなく漂っていると再び光が射し込んで来るのが見えた。二度めは慣れたもので、思うように前進する。穴から出ると今度もどこか深い森の中のようである。
俺はまたあの女の死体のある場所に戻ったのかと慌てたが、前の森とは様子が異なり、もっと大気が濃く生命力に満ち溢れた野生の匂いが辺りに充満していた。ふと気がつくと今度は目の前に素っ裸の女がいた。
先程の女とは違い、生きてはいるが腰を抜かして尻餅をついていた。こちらをあんぐりと口を開けて見ている。足元にはやはり一口かじられたリンゴが転がっていた。女は相当怯えているようだったので俺は優しく話しかけてみた。女は俺を神だと思っていたらしい。
話を聞けば食べてはいけないと言われていた木の実を、蛇にそそのかされてから、どうしても好奇心が押さえられずかじりつくと、その途端に俺が飛び出してきたので、神が現れ神罰を下されるのだと思っていたという。
俺は女を安心させると、なぜ素っ裸なのかを聞いてみた。女は質問の意味がわからないようであった。俺は素っ裸でいることは自然の中では怪我などをして危険であるし、第一恥ずかしいことであると説明をした。
すると女は意味がわかったのか、そこに生えていたイチジクの葉を身に付け体を隠した。
しばらくすると、やはり素っ裸の男が現れた。女は男にもリンゴを食べさせると男にも知性が宿ったのか、やはりイチジクの葉で身を隠した。
その途端、にわかに空がかき曇り稲妻が走り、神が現れた。裸の男女は神の怒りに触れ、この森を追い払われた。そしてこの俺もまたリンゴの中に戻された。
それから幾時が過ぎたのだろう。俺は今もまだこの深淵を漂っている。
次に出られるのは、貴方がリンゴをかじった時かもしれない。