汚染された森
聖王国歴725年、とある森――
男は悲鳴を上げながら森の中を走っていた。枝が顔を打ち、足元の根に何度もつまずきかける。それでも止まれなかった。背後の暗がりから、何かが追ってくる。息は乱れ、喉は焼け、肺は痛む。男は震える肩越しに一瞬だけ振り返った。闇の奥で、黒く濁ったものが揺れた。次の瞬間、風を裂くような音が走り、男の断末魔が森に響いた。首が飛び、身体だけが数歩前へ進んでから崩れ落ちる。倒れた遺体の周りに黒い粒子が滲み出るように漂い、静かに森の奥へ消えていった。
数日後、ひとりの青年が森の入口に立っていた。淡銀白の長い髪が肩から胸元へ流れ、黒いマントの裾が湿った風に揺れる。青年は森を見つめたまま、腰の片手剣に指を添えた。次の瞬間、周囲の風が静かに集まり、剣身を薄く包む。身体と防具の表面にも風が沿うように流れほのかに緑に光る。派手さはない。ただ、足元の草が、ほんの少しだけ揺れた。青年は一度だけ息を吐き、足を踏み入れた。
「……やはりここも汚染されているか」
森は静かだった。だが、静かすぎた。鳥の声がない。虫の羽音も遠い。木々は立っているのに、そこにあるはずの気配が薄い。青年は周囲を見渡しながら進む。依頼ではない。手がかりを追って、ここまで来た。何が起きているのか、まだ分からない――だが、この感覚には覚えがあった。だからこそ、足取りは慎重だった。
最初の気配は、茂みの奥から来た。土色に濁った小さな塊が、黒い粒子を散らしながら跳ねるように飛び出す。青年は一歩も慌てず、剣を抜いた。刃が横に走り、塊を斬り払う。土色の光が一瞬だけ揺らぎ、黒い粒子となってほどけた。間を置かず、風色に濁った別の塊が横から迫る。半歩引き、斬り上げる。さらに水色の濁りを残した個体が足元へ滑るように来た。剣先を落とし、地面すれすれで切り裂いた。
三体が消えた後も、森は静かなままだった。青年は剣を下ろさない。黒い粒子が空気に溶けていくのを見届け、奥へ進む。草はところどころ黒ずみ、木の幹には細い歪みのような紋様が走っていた。触れる気にはならない。歩きながら、森の奥に意識を向ける。
しばらく進んだところで、二度目の気配が膨らんだ。今度は数が多い。前方の茂みから土色の塊が二体、左の木陰から風色が一体、右手の低い草むらから水色が二体。青年は剣を構え直した。囲まれる前に削る。風をまとった刃がわずかに鳴る。
「ウィンドスラッシュ」
青年の身体が沈み、次の瞬間、剣が五度走った。高速の斬撃が前方の二体を裂き、続けて左から来た風色の個体を斬り落とす。残った水色の塊が跳ね上がり、青年の腕を狙う。肩をひねって避け、剣を返した。一体が崩れる。最後の一体が距離を取ろうとした瞬間、踏み込み、刃先に風を乗せた。
「エアカッター」
飛ぶ斬撃が一直線に走り、逃げかけた塊を切り裂いた。黒い粒子が舞い、すぐに消える。その場に立ったまま、短く息を整えた。剣にまとわる風はまだ残っている。だが無駄に力を使うつもりはない。剣を軽く払ってから、再び歩き出した。
やがて、森の奥から音が届いた。重い金属音。何かを叩き斬るような音。続いて、短く鋭い女性の声。青年は足を止め、音の方向へ顔を向けた。戦闘だ。それも、近い。一瞬だけ周囲を確認し、茂みの奥へ向かって駆け出した。




