第3話「崩れ始め」
患者Aが入院して数日が経った。
表面上は、
何も問題はなかった。
⸻
指示は守る。
内服もきちんと行う。
他の患者とも、一定の距離を保っている。
⸻
——“理想的な患者”。
⸻
そう評価するスタッフもいた。
⸻
だが、
私の中の違和感は消えなかった。
⸻
むしろ、
日を追うごとに強くなっていく。
⸻
きっかけは、
些細なことだった。
⸻
ある日、
患者同士の会話を耳にした。
⸻
「最近、眠れてますか?」
⸻
患者Bの問いに、
患者Aは柔らかく笑って答えた。
⸻
「ええ、少しずつ……慣れてきました」
⸻
そのやり取りは、
どこにでもあるものだった。
⸻
——だが。
⸻
違和感は、
言葉ではなく“間”にあった。
⸻
返答までのわずかな沈黙。
⸻
まるで、
言葉を選んでいるような——
いや。
⸻
“正解を探している”ような。
⸻
⸻
その後も、
似たような場面が何度かあった。
⸻
誰かが話しかける。
患者Aは一度、
ほんの一瞬だけ思考を止める。
そして——
⸻
“正しい返答”をする。
⸻
まるで、
模範解答でもなぞるかのように。
⸻
⸻
そのとき、
はっきりと理解した。
⸻
この人は、
“会話していない”。
⸻
演じている。
⸻
⸻
さらに違和感を決定づけたのは、
別の場面だった。
⸻
患者Cが、
感情的に不安定になったときのことだ。
⸻
突然、
声を荒げ始めた。
⸻
スタッフが対応に入る中で、
患者Aはその様子を見ていた。
⸻
——ただ、見ていた。
⸻
表情一つ変えずに。
⸻
心配するでもなく、
戸惑うでもなく、
ただ——観察していた。
⸻
その目は、
初めて会ったときと同じだった。
⸻
“何かを測っている”ような目。
⸻
⸻
その瞬間、
背筋が冷えた。
⸻
この人は、
患者ではない。
⸻
⸻
そう確信した。
⸻
⸻
その日の夜。
⸻
記録を書きながら、
あることに気づいた。
⸻
患者Aの発言は、
どれも“整いすぎている”。
⸻
崩れがない。
⸻
——うつの人間に、
こんな一貫性はない。
⸻
⸻
では、
なぜここにいるのか。
⸻
何のために。
⸻
⸻
答えはまだ出ていない。
⸻
だが一つだけ、
確かなことがある。
⸻
この人は——
何かを“狙っている”。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この作品は、
人間関係に悩んできた経験をもとに書いています。
「距離の取り方」で楽になることもあります。
その考え方をnoteにまとめています。
▶ 無料note
https://note.com/kokoroyohaku




