8.仕組まれた舞台
王都・西区の外縁にある迎賓館――今は王族の政治的交流の場として使われている。
その一室に、リュシアは静かに佇んでいた。
周囲に控えるのは最低限の侍女と、護衛に変装したリゼットの部下二人。
だが、あくまで“単独の交渉”であることを示すため、彼女は華美な装いを避け、落ち着いた青のドレスを選んでいた。
やがて扉が開き、交渉相手の使者が現れる。
その男は痩せ型で、礼儀正しく頭を下げたが、瞳には濁った警戒心が宿っていた。
「本日は、我が領主ヴァルク殿の代理として、交渉に伺いました」
「ご足労に感謝いたします。わたくしはリュシア・ルシエラ。国王陛下の姪にあたります」
「存じ上げております。姫様が直接出向かれるとは、光栄の至り」
リュシアは微笑を浮かべたまま、椅子に腰を下ろす。
「本日は、“王都南西部の再開発”に関するご意見を伺いたく参りました」
「再開発……なるほど。姫様のご関心は、公共事業にあると?」
「それと同時に、そこに住まう人々の生活も気にしております。急激な土地の変化は、庶民の不安に繋がります」
「ですが、姫様。貴族の立場として、貴族の意向に寄り添っていただけるとありがたい」
男はあからさまに“踏み絵”を差し出した。
リュシアは一度だけ瞬きをし、静かに口を開く。
「それは、わたくしに“貴族としての利益”を求めるという意味ですか?」
「そうではなく、“王家の後ろ盾”としての……」
「――わたくしは、“個人”としてここにおります」
その言葉に、男は明らかに動揺を見せた。
(ノクスの読み通り……彼らは“王家の名”が交渉材料になると信じていた)
「貴族の皆様の思惑は理解しておりますが、だからこそ、“話し合い”が必要なのです」
「……それはつまり、こちらにとって不利な条件を強いられるということかもしれませんな」
「その判断は、お任せいたします」
男は深く黙り込み、やがて立ち上がった。
「一度、持ち帰って検討いたします」
「どうぞご自由に。わたくしは、再度の話し合いの場を設ける用意があります」
男が退出すると同時に、リゼットが静かに近づいた。
「姫様、お見事です」
「お見事ではありません。ただ、“彼らが求める答え”を、わたくしが拒んだだけ」
「それが、王家としての強さです」
リュシアは一瞬だけ目を伏せ、静かに言葉を落とした。
「わたくしは……王家であると同時に、“誰か一人の民”でありたいのです」
外の空は、少しずつ雲に覆われ始めていた。
王都の天気と同じように。
この国の“未来”も、いまはまだ、霧の中にある。
リュシアは交渉の余韻が残る部屋で、ゆっくりと紅茶を口に運んでいた。
その香りはほのかに甘く、緊張に支配された胸を、わずかに解きほぐしてくれる。
「姫様、無理をなさってはいませんか」
リゼットの声は控えめながら、確かな気遣いに満ちていた。
「平気ですわ。けれど、あの方々の“目”は……まるで“私”を見ていないようでした」
「彼らにとっては、姫様は“記号”であり、政治の“駒”でしかないのでしょう」
「ええ。だからこそ、わたくしは“記号”のままで終わりたくありません」
リュシアはカップを置き、窓の外へ視線を向ける。
日が傾き、空に混じる赤が街を染めていた。
「ノクスは……これを、どう見ているのでしょう」
「きっと、“駒”などとは思っておられません。むしろ、貴女様を“唯一の希望”として見ていると」
「それは……嬉しくも、重たい言葉です」
リゼットが微笑みを見せた。
「でも姫様、貴女は今夜、確かに“貴族でも姫でもない声”を使いました」
「わたくしの声が、届いているなら……」
リュシアの言葉はそこで切れた。
――彼女の中で、確かに“何か”が芽生えつつあった。
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その頃、アルセインではノクスが一人、書類に目を通していた。
「……リュシアの動きは完璧だったようだな」
報告書を閉じ、静かに椅子に身を預ける。
「自分から進んで“檻の中”に飛び込むとは……思った以上に強い女だ」
ノクスの声には、冷たさの中にどこか淡い感情が混じっていた。
扉がノックされ、ユンが現れる。
「内部の配備は完了しました。いつでも“記録”を送信できます」
「動きは?」
「使者が“西区の施設”に戻ったあと、即座に数名の不審人物が現れました。監視用の魔導装置に反応があります」
「こちらの動きを察知したか……それとも、予測の範囲内か」
「姫様の“単独行動”に、警戒心を持った可能性も」
ノクスは目を伏せる。
「このまま、王家の影に気づかれず潜れると思ってはいなかった。だが、リュシアが動けば……“血”の記憶も動き出す」
「……本当に、動かしてよろしいのですか」
「選んだのは、あちらだ」
ノクスは立ち上がり、地図に目を向ける。
「王都の“心臓部”に潜む者ども……その影を、あぶり出す」
夜の帳が、ゆっくりと降りていく。
そして、静かな炎のように、王都のどこかで確かに“何か”が燃え始めていた。