6.囁く影、揺らぐ光
王都・南地区。かつて賑わっていた劇場通りは、今や荒れ果てた姿を晒していた。
ノクスはその通りの一角、目立たぬ小屋の前で足を止めた。
「ここか」
ユンが頷く。
「マルセラと接触していた“情報屋まがい”の連中の隠れ家です。アルセインとは無関係ですが、最近急に活動が活発化していた」
「ヴァルクの息がかかってるか……あるいは別の黒幕か」
ノクスは一歩、扉の前に進む。 だが、ドアを開ける前に、既に気配で分かっていた。
「中は空だな」
「……ええ、今朝の段階で痕跡を消しています。証拠も、ほとんど焼かれていました」
ノクスは扉を押し開け、中に足を踏み入れる。
煤けた机、割れた硝子瓶、床に転がる焼け残りの書類の一片。
彼は無言でしゃがみ、焼け焦げた紙片を指で摘んだ。
「“N計画”……?」
ユンが顔を曇らせる。
「詳細は不明です。ただ、記録には複数の貴族家の頭文字が連なっていました」
「ヴァルク家単独ではない……ということか」
ノクスの眉がわずかに動く。
「動きが早すぎる。こちらが情報を流す前に、逆に口封じを始めている」
「つまり、敵も“こちらを警戒している”」
「否、それだけじゃない。 ……“情報戦”に慣れている」
ノクスは一度、目を閉じた。
そして静かに呟く。
「これは、“影”の戦いになる」
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その夜、アルセインの作戦室では、幹部たちが再度集められていた。
「情報網の一部が狙われている。数人の協力者が既に姿を消した」
レネの報告に、場の空気が張り詰める。
「相手は我々の内部構造を“部分的に”把握している可能性がある」
「裏切り者がいるということか?」
ガロが眉をひそめる。
「可能性は否定できない。あるいは、我々の痕跡を外部から読み取った者がいるか」
ノクスは短く答えた。
「誰であれ、内に手を伸ばされた時点で、反撃は不可避だ」
「正面からの対決になりますね」
「いや、逆だ」
ノクスの口調は静かだった。
「“正体を知られずに仕留める”。それが俺たちのやり方だ」
部屋に、冷たい沈黙が流れた。
「リュシア姫には、この件は伏せておく。表の“政治闘争”と違い、ここからは“影の仕事”だ」
全員が頷く。 その顔に浮かぶのは、信念ではなく、使命の重さだった。
ノクスは、壁の奥にある古びた小箱を開けた。 中には、王家の紋章と、かつての記録が封じられていた。
(また、王家が絡むのか……)
けれど彼は、記憶を振り払うように箱を閉じた。
「過去は過去だ。今は、リュシアを守る。それだけでいい」
その決意の言葉に、誰も何も言わなかった。
ただ、任務の灯火が、また一つ、確かに燃え上がったのだった。
薄曇りの空が王都を包み込む朝、リュシアは一人、庭園の奥深くへ足を運んでいた。
王宮の北にあるこの庭は、普段あまり人が立ち入らない。だからこそ、彼女にとっては“静けさ”を手に入れられる貴重な場所だった。
白いベンチに腰を下ろし、胸元のロケットをそっと撫でる。
それは亡き母の形見。側妃という立場でありながらも、母は愛を惜しまず与えてくれた人だった。
「……わたくし、間違っていないでしょうか」
木々のざわめきが答えをくれるわけではない。 だがその沈黙にすら、心を預けられる気がした。
ふと、リュシアは微かな気配に気づく。
「……エルナ。そこにいるのでしょう?」
木陰から姿を現したリゼットは、すまなそうに一礼した。
「お見通しですね、姫様」
「隠れるならもう少し呼吸を静めて。あなたらしくもないわ」
「気を抜いていたようです」
リゼットは姫の隣に立ち、小さな包みを差し出した。
「報告です。ヴァルク家は一時的に動きを止めています。ただし、“次の一手”を準備している形跡があります」
「沈黙は、不気味ですわね」
「同感です。ノクス様も、いずれ何らかの“牽制”が来ると予想しています」
リュシアはロケットを握り締め、目を伏せる。
「ノクスは、何を思って動いているのかしら」
「“利”ではないことは確かです。彼が動くとき、それは“何かを守る”とき」
「……そう。あなたは彼を、信頼しているのね」
「命を預けられる程度には」
リュシアは少しだけ笑った。
「わたくし、あの人のことを少しずつ理解しているつもりでいました。でも、どうしても見えない“壁”がある気がするのです」
「それが、“ノクス”なのだと思います」
「ええ……たぶん、彼は誰よりも“近づかれること”を恐れているのね」
リゼットは沈黙で肯定した。
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同じ頃、アルセインの作戦室では、ユンが長机の上に広げた紙を示していた。
「この印、見覚えがありますか?」
ノクスはじっと紙面を見下ろす。
「……“セグラの印”か。まだ生きていたのか、あの連中」
「ええ。マルセラと接触していたもう一派閥。“元傭兵商会”とされていたはずですが、今は完全に裏社会側へ」
「なら話は早い。金で動く連中なら、誰が出資しているか追えばいい」
「ヴァルク家の名義資産とは別口から、資金が流れています。名義は……“王都開発局”」
「……王家の関与か?」
ノクスの声が低く沈む。
「名義だけです。ただ、その名義を貸すほどの影響力を持つ人物が、宮廷に存在するということです」
「――なら、切り込むのは“次”だ」
ノクスは静かに、だが確かに口元を引き締めた。
(真に危険なのは、“表”に巣食う影だ)
そして、彼は決断する。
「次の標的は、“王都の影”そのものだ」
王都・中央区。かつては貴族と商人が賑わいを見せたこの地区も、今や一部は再開発と称した不自然な工事が進行していた。
その現場の周辺では、誰の目にも映らぬまま、確実に“異物”が動き始めていた。
ノクスとユンは、夜闇に紛れて廃工場の屋上に身を潜めていた。
「この下が、資金の流れの“分岐点”だ」
ユンが指差す。
「王都開発局名義で流れた資金は、いったんここで“清められ”、その後複数の団体を経由してヴァルク家や傭兵団へ」
「洗浄経路を追えれば、背後にいる本物が見えるということだな」
ノクスは目を細めた。
下の倉庫には、衛兵にも似た私兵たちが出入りしていた。だがその動きは明らかに“軍人”ではない。
「どうする?」
ユンの問いに、ノクスは短く答えた。
「中に入る」
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倉庫内部。ひんやりとした空気が漂い、鉄の匂いが鼻をつく。
奥の部屋には、文書と銀貨の束が山のように積まれていた。
ノクスは手際よく記録装置を仕掛けながら、目を走らせる。
「これは……“再建名目”の支出記録。だが受取人は全て架空名義だ」
「裏金の隠し方としては、雑です」
「雑な処理が許されるほど、ここは守られてるってことだ。つまり、ここの主は――」
そのとき。
「誰だ、そこにいるのは」
鋭い声が飛ぶ。二人の存在が露見した。
ノクスは遮蔽物を飛び越え、咄嗟に煙幕を投げつけた。
「出口を!」
ユンが別ルートを指示し、二人は狭い通気路を抜けて外へ。
追手の気配がすぐ背後に迫っていたが、ノクスの投擲した閃光玉がその動きを阻む。
「――無理をするな、ユン」
「こちらこそ、足手まといにはなりません」
二人は路地裏へ出て、雑踏の中に紛れ込んだ。
しばらくの沈黙ののち、ようやく安全を確保した一角で、ノクスは息を整える。
「……やはり、ここは“聖域”ではない」
「ええ。王都の中に、“誰も手を出せない影”がある」
ノクスは黙って頷いた。
(王家の影……それを覆うベールの内側に、何が潜んでいる?)
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同じ夜。リュシアは執務室で報告を読んでいた。
事件の表向きの処理は、全て“行政の一環”として処理されている。
だが、リゼットが伝えた一言が耳に残っていた。
「姫様、ノクス様は“王都開発局”の背後に潜む存在を探り始めています」
王家、そして政治の深層部。
そこは、リュシアにとっても“容易に踏み込めぬ領域”だった。
「……ノクス、あなたは本当に、何を見ているの」
ロケットに指を添えながら、彼女は静かに目を閉じた。
心の奥底で、かすかな不安がざわついていた。
影が、王都全体に、広がり始めている――。