5.光と影の交差
夜会の翌日。 王都の空は、曇天に覆われていた。
薄明かりのもと、ノクスはアルセインの司令室で報告書に目を通していた。
「……一夜にして、リュシア姫の評価が反転したな」
レネが頷く。
「主だった貴族の多くが“誤解であった”と見解を示しています。証拠の効力と、その場の演出が効果的だったようです」
「それにしても……あの女、自分の立場を賭けてよく動いたものだ」
ノクスの呟きには、どこか驚きが混じっていた。
「姫様の“覚悟”は、予想以上です。恐らく今後、彼女はさらに“動き”を求めてくるでしょう」
「……俺たちにとって、良くも悪くも面倒だな」
ノクスは皮肉めいた笑みを浮かべ、書類を放った。
そこへ、ユンが戻ってくる。
「ローゼン家の裏帳簿と通信記録、すべて解析が終わりました」
「で、どうだった」
「資金の流れはヴァルク家と密接に繋がっています。表向きは慈善活動名義ですが、実態は“噂の火種”を作るための金銭でした」
「つまり、最初から姫を標的に絞っていた」
「ええ。計画的です」
ノクスは無言で立ち上がり、部屋の奥にある地図へと向かった。 その指先が、ヴァルク家の領地をなぞる。
「……これはまだ、序章に過ぎない」
「姫様は、どうされるでしょうか」
レネが問うと、ノクスは短く答えた。
「知らん。だが、あの女なら……きっと予想の外から来る」
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その頃、リュシアは王宮の控えの間にいた。
貴族たちが次々と面会を求める中、彼女はただ一人、物静かに茶をすする。
「……賑やかになったわね」
皮肉のように口にしたその声には、疲れも、誇りもあった。
エルナの姿をしたリゼットが近づく。
「噂が静まったことで、これまで避けていた者たちが擦り寄ってきています」
「分かりやすい方々ね。いずれ、また風向きが変われば去っていくでしょう」
「ですが、姫様の“信頼度”は確実に上がりました。これを機に、もっと多くの情報や人脈が引き寄せられるかと」
リュシアは小さく首を振った。
「……信頼とは、己を賭けてこそ育まれるものです。わたくしは、ただ“立った”だけ」
「それが、できる方は少ないのです」
リゼットの言葉に、リュシアは少しだけ微笑んだ。
「ノクスには、何か動きが?」
「ヴァルク家周辺の調査を強化しているようです。ですが、彼の目は……もっと先を見ている気がします」
「“影”の者ですもの。未来を読む力も、あるのでしょう」
そして、リュシアは窓の外を見やる。
曇天の空の向こう。
そこに、自分が進むべき道があると、彼女は信じていた。
王都・南地区。かつて賑わっていた劇場通りは、今や荒れ果てた姿を晒していた。
ノクスはその通りの一角、目立たぬ小屋の前で足を止めた。
「ここか」
ユンが頷く。
「マルセラと接触していた“情報屋まがい”の連中の隠れ家です。アルセインとは無関係ですが、最近急に活動が活発化していた」
「ヴァルクの息がかかってるか……あるいは別の黒幕か」
ノクスは一歩、扉の前に進む。 だが、ドアを開ける前に、既に気配で分かっていた。
「中は空だな」
「……ええ、今朝の段階で痕跡を消しています。証拠も、ほとんど焼かれていました」
ノクスは扉を押し開け、中に足を踏み入れる。
煤けた机、割れた硝子瓶、床に転がる焼け残りの書類の一片。
彼は無言でしゃがみ、焼け焦げた紙片を指で摘んだ。
「“N計画”……?」
ユンが顔を曇らせる。
「詳細は不明です。ただ、記録には複数の貴族家の頭文字が連なっていました」
「ヴァルク家単独ではない……ということか」
ノクスの眉がわずかに動く。
「動きが早すぎる。こちらが情報を流す前に、逆に口封じを始めている」
「つまり、敵も“こちらを警戒している”」
「否、それだけじゃない。 ……“情報戦”に慣れている」
ノクスは一度、目を閉じた。
そして静かに呟く。
「これは、“影”の戦いになる」
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その夜、アルセインの作戦室では、幹部たちが再度集められていた。
「情報網の一部が狙われている。数人の協力者が既に姿を消した」
レネの報告に、場の空気が張り詰める。
「相手は我々の内部構造を“部分的に”把握している可能性がある」
「裏切り者がいるということか?」
ガロが眉をひそめる。
「可能性は否定できない。あるいは、我々の痕跡を外部から読み取った者がいるか」
ノクスは短く答えた。
「誰であれ、内に手を伸ばされた時点で、反撃は不可避だ」
「正面からの対決になりますね」
「いや、逆だ」
ノクスの口調は静かだった。
「“正体を知られずに仕留める”。それが俺たちのやり方だ」
部屋に、冷たい沈黙が流れた。
「リュシア姫には、この件は伏せておく。表の“政治闘争”と違い、ここからは“影の仕事”だ」
全員が頷く。 その顔に浮かぶのは、信念ではなく、使命の重さだった。
ノクスは、壁の奥にある古びた小箱を開けた。 中には、王家の紋章と、かつての記録が封じられていた。
(また、王家が絡むのか……)
けれど彼は、記憶を振り払うように箱を閉じた。
「過去は過去だ。今は、リュシアを守る。それだけでいい」
その決意の言葉に、誰も何も言わなかった。
ただ、任務の灯火が、また一つ、確かに燃え上がったのだった。