4.噂の矢、標的の名
夜が明け、王都にはいつもの喧騒が戻っていた。
市場のざわめき、商人の掛け声、走る馬車とすれ違う市民たちのざわめき。 だが、そのどれもがリュシアにとっては、どこか遠い世界の音のように思えた。
彼女は王宮の奥、図書室の一角に座っていた。 その手には分厚い書物。けれど、目はページではなく窓の外に注がれていた。
「……レオニール・ヴァルク公爵」
名を呟くと、手のひらにうっすらと汗が滲んでいるのに気づいた。
(あのとき、わたくしが口を噤んでいれば、すべてが丸く収まっていたのでしょうか)
だが、後悔はなかった。 口にするのが正しいことならば、沈黙は罪になる。
その信念が、今のリュシアを支えていた。
「姫様」
“エルナ”――リゼットが、誰にも気づかれぬように忍び寄る。
「ひとつ、有力な情報が入りました」
「どうぞ」
「噂の起点は、王宮ではなく“舞踏会後の私邸晩餐”の場にいた女官たちの間から広まっています」
「つまり、わたくしの断りの場面を“曲げて”話した者がいるということ?」
「その通りです。しかも、その一人が公爵家の縁戚にあたる者と親交が深いようで」
リュシアは眼差しを鋭くした。
「仕組まれたもの、ということね」
「可能性は高いです。ただ、今の段階では“状況証拠”止まりです」
「ならば、それを“証拠”に変えましょう。ノクスへ報告を」
「了解しました」
リゼットは再び姿を消し、リュシアは本を閉じた。
(わたくしは、負けません。例えこの王宮が、全てを敵に回しても)
その覚悟を胸に、彼女は静かに立ち上がる。
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一方その頃、アルセインの司令室では、幹部たちが一堂に会していた。
「公爵家の動きが活発化している。王宮内でリュシア姫を排除する方向に、次の一手を打つつもりだ」
レネの言葉に、皆の表情が引き締まる。
「つまり、次に仕掛けてくるのは“宮廷内での社会的死”か」
ノクスが呟いた。
「そうなれば、彼女の立場は回復不可能になります」
「……早いな。俺たちの動きに感づいたか」
「まだ気づいてはいないでしょう。ただ、リュシア姫が動いたことは把握している」
そのとき、扉が開き、リゼットが戻ってきた。
「報告。噂の出処を突き止めました。舞踏会後の晩餐で、わざと“拒絶された男”の恥を大げさに吹聴した女官がいました」
「名は?」
「マルセラ・ローゼン。ヴァルク家の姪の元侍女です」
レネが眉を動かした。
「彼女は現在、表向きでは王宮に仕えていないことになっていますが……」
「……裏で繋がっているわけか」
ノクスは一つ息を吐いた。
「リュシア姫には、その名を伝えろ。次は“法的に”彼女の潔白を主張する手段を探る」
「告発、でしょうか」
「それも含めて、あくまで公的に。俺たちは影だ。だが、彼女には光の場で戦ってもらう」
情報が揃い始め、輪郭がはっきりしてくる。 ノクスの目は、次の一手へと向けられていた。
(お前の意志が本物なら、俺は支えよう)
彼は誰にともなく、そう呟いた。
王宮の一室。静かな空間に、細やかな羽音のような書き物の音が響く。
リュシアは羽ペンを走らせていた。 机上には告発状の草稿。その筆跡は、美しくも凛然としていた。
(この手紙が、公的に受理されれば――)
それは、自らの潔白を証明するだけでなく、ヴァルク家にとっても大きな打撃となる。
扉の前に影が揺れる。
「どうぞ」
控えめに入ってきたのは、従者の侍女。だが彼女は扉を閉めるや否や、声をひそめて言った。
「リゼット様からです。“次の夜会にて”だそうです」
リュシアは頷いた。
(夜会……舞台が整ったということね)
夜会――貴族たちが顔を揃え、表と裏を巧みに使い分ける社交の場。
そこにこそ、“噂”という名の刃がうごめく。
「準備を。わたくし、舞台へ上がります」
その声に、侍女は目を伏せ、静かに退出した。
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アルセイン司令室。 ノクスは地図と文書を交互に見ながら、指を軽く叩いていた。
「夜会……向こうが何か仕掛けてくる可能性もあるな」
レネが頷く。
「確率は高いです。姫様が“告発”というカードを切ろうとしている以上、向こうも手を打ってくる」
「守りに回るのは得策じゃない。こちらから揺さぶる」
ノクスは立ち上がる。
「ユン、王都内で“ローゼン家”の資産と人の流れを追え。彼女の行動範囲と通信経路もすべて洗い出せ」
「了解」
「リゼットは夜会に同行。その場で必要なら、直接介入しても構わん」
「了解」
「ガロ、外での護衛はお前だ。貴族たちの馬車の動きや裏手の通路、逃走経路もすべて監視しろ」
「任せろ」
それぞれが即座に動き出す。
ノクスは一瞬だけ、静かに呟いた。
「“影”の仕事は、表に出ずに成し遂げてこそ、だ」
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夜。 王宮の別邸で催された夜会には、王国中から名のある貴族たちが集まっていた。
音楽と香の漂う中、リュシアは誰よりも凛とした姿で現れた。
その姿に、会場の空気が一瞬だけ張り詰める。
「……あれが“噂”の姫君か」 「まだ顔を出せるのね」
囁き声。 だが、リュシアの足取りは一切乱れなかった。
そして、彼女は一人の貴婦人の前に立つ。
「ローゼン家のマルセラ様。お久しぶりですわ」
「リュ、リュシア様……これは、偶然ですね」
「偶然か、必然か。ご判断はお任せします」
マルセラは引きつった笑みを浮かべる。
そのとき、空気が一変した。
会場の一角に、何者かが用意した演奏の場が設けられる。 しかしそこに登場したのは、音楽家ではなかった。
一人の女――リゼットだった。
彼女は音楽家の姿に扮していたが、手にしていたのは楽器ではなく、証拠書類だった。
「ここに、公的記録に反する証言と通信の記録を提出いたします」
ざわつく貴族たち。 マルセラの顔から血の気が引く。
リュシアは、堂々と前に出る。
「この場で公にいたします。わたくしに向けられた“噂”は、虚偽であり、私怨に基づいたものです」
「馬鹿な……こんな場で……!」
マルセラの声は悲鳴じみていた。
リュシアは静かに言葉を継ぐ。
「――それでも、わたくしは逃げません」
その姿は、誰よりも高貴で、気高く、そして強かった。
アルセインの影たちは、静かに退いた。
彼らの役目は、“光”を照らすためにある。