2.本当の契約
リュシアがアルセインの拠点を後にしたのは、夜が最も深く、静けさが濃くなる時刻だった。
ノクスはその背を見送ったあと、レネに向き直る。
「……あの娘、覚悟は本物かもしれん」
「そうですね。ただ、覚悟が本物であることと、使えるかどうかは別の話です」
レネは冷静に返す。アルセインにとって、依頼人が誰であれ、実利が最優先だ。
「調査班の選定は?」
「すでに動かしています。ユンが王都中の噂の流通経路を洗っている最中。リゼットは変装して貴族女官に潜り込みました」
「さすがだな……連中は優秀だ」
ノクスは壁に貼られた王都の地図を睨みつける。
「問題は、どこから火がついたか、だ。何もないところに煙は立たない。だが……この姫に関しては、火元が見えん」
「意図的に隠された火種かもしれませんね。もしくは、燃え移らせるための布がどこかにある」
ノクスは苦笑した。
「詩人みたいな言い方だな、レネ」
「たまには言葉遊びも必要です。影の世界は理屈だけでは通りません」
そのとき、扉をノックする音。
「入れ」
扉の向こうから現れたのは、筋骨たくましい中年の男――ガロ・ヴァンスだった。
「リュシアの後をつけて帰路を確認しておいた。護衛の気配なし。単独行動が板についているな」
「そうか。……王女ともあろうものが、警護もなしで夜の街を歩くとはな」
「それができるってことは、覚悟ができてるってことだ。俺は嫌いじゃねぇな、ああいう面構え」
「ガロ、お前は感情で動くな。お前の腕が必要なのは、情報が整理された後だ」
「へいへい、心得てるさ」
ガロは肩をすくめ、再び姿を消す。
ノクスは椅子に深く腰掛け、指先で机を叩いた。
(“王女”という肩書きだけで動くのは危うい。だが、この依頼――何かが引っかかる)
「……レネ、今後の接触はすべて俺が受ける。お前たちは表に出るな」
「了解しました。ですが、何か感じられたのですか?」
「……気配、だ。あの女……違和感がなかった。俺の前で、怯えも誇りもなく立っていた」
レネの目がわずかに見開かれる。
「それは……つまり、ノクスと対等であると“錯覚できる”資質を持っていた、ということですね」
「そうだ。あいつは、自分が“何者か”をまだ知らない……だが、いつか気づく時が来る」
「そのとき、我々にとって有益となるよう導く。……ですね?」
ノクスは何も言わなかった。ただ、わずかに唇の端を吊り上げた。
それは“はい”の代わりとして、レネには十分すぎる返答だった。
リュシアは館に戻ると、すぐさま人払いを命じた。夜伽の侍女も、常の護衛もすべて外す。
扉が静かに閉じられ、部屋の中にただ一人残された彼女は、ゆっくりと息をついた。
「……わたくし、何をしているのかしら」
誰にも届かぬ独白。けれどその声は、少しだけ震えていた。
鏡台に座る。指先で髪を解きながら、自身の瞳を見つめる。
そこには、貴族として磨かれた上品な顔があった。 だが、今夜の彼女の目は、どこか違っていた。覚悟という色が、そこに宿っていた。
「ノクス、ね……」
名を呼ぶと、あの男の鋭い目が脳裏に蘇る。 粗野で不遜で、だが一切の飾りがない男。彼は恐らく、自身の過去すら切り捨てている。
(あの人……何者なのかしら)
興味と警戒。相反する感情が、リュシアの胸で静かに揺れた。
同じ頃―― アルセインの作戦室では、夜明け前の準備が粛々と進められていた。
ユンからの第一報が届く。
「中央区の下町で、“リュシア様が王宮で問題を起こした”という噂が広まっていました」
「具体的には?」とレネ。
「不敬罪で軟禁されたとか、禁忌に触れたとか。出どころは特定できていませんが、数日前から拡散しています」
「意図的な情報操作だな。となれば、その起点を探る必要がある」
レネの命を受け、ユンが再び動き出す。
一方、リゼットは貴族界隈での情報を収集中。 貴婦人たちの茶会に変装して潜入した彼女は、優雅に紅茶を傾けながら耳を澄ませていた。
「“あの姫君、また断られたんですって?”」 「“まあ、当然よ。あの過去じゃね……”」
リゼットは柔らかく笑いながら、脳内では言葉を記録していく。
(……過去、ね。やはりそこが鍵か)
全員が持ち場で情報を集めていた。 そして、それを束ねるノクスは、ただ静かに全体を俯瞰していた。
彼の目は地図に落とされている。 点と点が、まだ繋がらない。 だが、その中に一つだけ、強烈に目を引く存在がある。
「リュシア……お前が知っていることを、すべて引き出してやる」
それは敵意ではなく、目的でもなかった。 ただ、真実だけが欲しい。
情報屋としての純粋な本能。
そして、もうひとつ。
(この依頼――ただの貴族の火消しでは終わらん)
そう直感したとき、扉が静かに開いた。 入ってきたのは、リュシアだった。
「……早いな」
「夜は長いもの。考えを整理するには、十分な時間でした」
彼女は椅子に腰かけ、視線を真っ直ぐに向ける。
「あなたに頼んだ“噂”について。追加でお伝えしたいことがあります」
ノクスはその目を見据えた。
「……聞こう」
ここからが、本当の契約の始まりだった。