牛すじ丼
上手くいかない日がある。
今日はそんな日だった。
「こら!大口、またミスしているぞ。」
昼休み前、上司が怒鳴りながら突き返した紙は先ほど佐和子が提出した書類だった。よく見ると書式の間違いがあった。
「すみません。すぐ直します。」
慌てて直そうと紙を受け取ろうとするも、上司は渡さずそのまま説教にはいった。
「このミスは初めてじゃないよな。」
「はい。すみません。」
「入社してもう6月だぞ?しっかりしろ!今まで教えたことをちゃんとメモしてたか?」
「はい。」
「はいじゃねえよ。出来てねえからこんなにミスが多いんだろ!」
飛んでくる唾に耐えながら佐和子は頭を下げた。しばらく怒られたあと紙をもらって席に戻ろうとしたとき、
「本当に使えないな。」
ため息交じりの声が胸にささった。
目頭があつくなった。でも、ここで泣いたらまた「学生気分か?」とか「これだから若者は。」とか言われてしまう。何も聞こえなかったふりをして席にもどった。
仕事が終わったのはすっかり外が暗くなった時間。
昼ご飯を食べ損ねた佐和子はお腹を空かせていた。
家まで我慢できそうにない。
スマホで近場のレストランを探すもオフィス街にあるのはお洒落なお店ばかりで、値段も高そう。がっつり食べたい佐和子の気分にあうところはなかった。あきらめた佐和子は電車に乗った。
乗換駅の新宿に差し掛かった時、ぼんやり外を眺めていた佐和子はふと紀伊国屋書店の裏にある24時間営業の丼もの屋を思い出した。スポーツ選手が広告をつとめる派手なチェーン店。お客も大学生や若いサラリーマンばかりのガッツリ系の店だ。
そこで夕飯にしよう。
そう決めた佐和子の行動は早かった。改札から出て大きな三毛猫の前を通り、これから飲みに行くらしい浮かれた集団の間を速足で通り過ぎた。
店の前に大きな看板があった。
『牛すじ丼(期間限定)』
佐和子は自分の英断を褒めた。
彼女はもつ煮が大好物でもちろん牛すじも好きだった。しかし、そういうものがあるのは居酒屋ばかりでご飯と一緒に食べようものなら変な目でみられる。かといって家で作ろうにも一人暮らしの身には厳しい。
店にはいる足に躊躇いはない。
佐和子の口はもう牛すじの味だった。
店内はガラガラだった。
外国人の店員に人差し指をたてて、カウンターに座ると一息つく間もいれずにタブレットをタップした。お目当ての牛すじ丼は6月12日までのメニューだった。あと4日しかないのか、少し残念に思いながらトッピングに温玉とチーズを追加して注文の確定ボタンを押した。
調味料と一緒に並んでいるセルフサービスの水を注ぎながら、店内を改めて見回してみた。メニューは全て丼もので、唐揚げだったり、ニンニクをきかせた炒め物だったり、精がつくものばかりだった。胡椒と塩のとなりにマヨネーズをのボトルがドンと置いてあるのをみても、やはり男性むけの店なのだろう。
佐和子はガラガラでよかったと思った。
料理はすぐに来た。
一口大の肉の塊が米の山にごろごろ積み重なり、頂上に卵が。その周りを富士山の白い雪のようにチーズが囲んでいる。
「いただきます。」
割り箸をわった佐和子はまず黄身を潰した。
とろんとした黄色が茶色い肉の上を滑り落ちた。
肉を頬張ると醤油とニンニクの香りがした。
それ以外はわからない。
佐和子は食べることは好きだが、食道楽ではなかった。
濃い味付けの肉とご飯が箸を止まらせない。単純な味だからこそ心を満たすこともあると思う。チーズやマヨをかけて食べていくうちにあっという間に食べ終わった。
冷たい水が美味しい。
「980円です。」
「カードで。」
レシートを受け取った佐和子は鞄からマスクを出してつけた。電車の中でスメハラにならなければいいのだけど。
少し不安だったが、佐和子はすっかり牛すじ丼の虜になっていた。
「また来よう。」
密かに決意して、家に帰った。