05 夢幻と無限のパラレル
はらはらと白いものが空から降ってくる。
――雪……?
舞い落ちるそれを受け止めるように、朔良は手を伸ばす。
周囲は、一面の雪景色だった。
音のない世界で、しんしんと雪が降り積もる。
前も後ろも右も左も、自分がどこにいるのかさえわからなくなるような白い世界。
その雪が赤く染まった。
血の色だ。
血の雨が降るとよく言うけれど、北国では血も、凍った雪になるのかもしれない。
ああ、また、血が流れる――。
それは確信だった。白い雪が真っ赤に染まるほど、たくさんの血が流されるのだろう。
それは避けられない未来の姿だ。
目の前に、一人の少女が倒れていた。
聖エーデルワイス学園の制服を着ている。
雪の上に散った銀色の髪。
真っ赤な血に染まった姿で、一人の少女が倒れていた。
少女を見つめる朔良の表情が強ばった。
「ひあ」
悲鳴を抑えるように両手を自分の口に持って行く。
雪の中で倒れているのは、血に染まった朔良自身の変わり果てた姿だった。
学園の保健室で朔良は目を覚ました。
ベッドの傍で顔をのぞき込んでいた赤い髪の先輩が、ぎゅっと手を握り込んでいる。
その手がとても温かくて、朔良は安心した。
「類先輩……」
朔良は上体を起こそうと体に力を入れる。
鈍く頭の芯に響く痛みに襲われて、再び枕に埋まった。
「無理しちゃダメだよ」
類の右手が朔良の頭を撫でる。
「また、同じ夢……視ちゃった……」
小さな声で朔良はつぶやいた。
「そっか……。やっぱり、何か原因になるような事はわからない?」
「う……ん。どこかで戦いがあるかも?」
「戦い?」
「雪が、赤かったから」
「もう戦争の未来は視なくていいんだよ? あんたのおかげで、独立できたんだから」
「おかげとか、そんなの、小さかったからあんまり覚えてないもの。ただ、なんだろう? 少しでも助けてあげられたらいいなって、ずっと思ってて……何だか、今の夢もそんな感じ……」
類は首をかしげた。
「助けてあげたいって、誰を?」
「……おにいちゃん?」
「は? お兄ちゃん?」
「うん」
類は眉根を寄せた。
目覚めたばかりの朔良は、いつにも増して、ぽやぁんとしている。
朔良が目覚めたのを察知して、校医の理寛寺笑がベッド周りのカーテンを開けて入ってきた。
朔良の顔をのぞき込む。
「気分はどうだ? 鹿野朔良」
「あ、大丈夫です」
「あとで嵯城志騎に礼を言っておけよ。お姫様抱っこでここまで運んできてくれたんだからな」
理寛寺はナイスバディの超絶美女だが、少々変わっている。
よく言えば男前、悪く言えばデリカシーが少々足りない、かもしれない。
「志騎……?」
朔良は小首をかしげる。
「お姫様抱っこ……」
きゃあ、とか言いながら、朔良は布団に潜り込んだ。
恥じらう乙女の、とても可愛らしい仕草だった。
「新鮮な反応だな。若さとは良いものだ」
興味深げに言って、理寛寺はよしよし、と朔良の頭を撫でる。
「先生……」
類が理寛寺を暗に非難したが、彼女は全く気にした様子がなかった。
類は布団をかぶっている朔良に視線を戻す。
類から見ても本当に朔良は可愛らしかった。
天使のようなという形容がまさにぴったりだ。
彼女には、外見的な可愛らしさだけではなく天性の唄の才能もある。
おそらく彼女の唄には癒しの効果があるのだろう。
未来視の能力ばかりが珍重されているが、癒しの力は、もしかするとそれ以上かもしれない。
彼女は、中等部はもちろん高等部の男子たちにもファンが多い。
甘い砂糖菓子のような柔らかな雰囲気も、小さな体も、あどけない表情も、誰もが護ってあげたくなるようだ。
だが、そんな外見に似合わず、どこか凛とした気高く近寄り難いオーラをまとってもいて、可愛いだけではない神秘的な魅力がある。
その彼女が、ここ一ヶ月ほど、自分が死ぬ未来を視るという。
未来視が視た未来は絶対の未来。
誰にも変えることはできない。
いや。過去に未来視の視た未来を変えた者がいた。
絶対の未来を壊すことの出来る者……。
この世の理さえも破壊する男……。
雪の中で血だらけで倒れている朔良……。
その情報だけで、この国を独立に導いた英雄がここにやってくるほどに、それは、覆さねばならない、あり得べからざる未来なのだ――。
一講目の終業を告げる鐘が鳴った。
廊下が騒がしくなってきた。
貧血で倒れたらしい朔良を心配したファンたちが集まってきたのだろう。
朔良に想いを寄せる男子は多いが彼女のほうはいたってマイペースで、特に恋愛事に興味が薄い。
同級生の少女たちと恋の話をしていても、好きな人はいないの? という問いに、子供のころ憧れてたお兄ちゃんがいた……と思う、などとピントのずれた答えを返したりする。
そんなふうなので、彼女に懸想する男子たちも玉砕するための告白を選ぶよりは互いに牽制しあい協力しあって、彼女の心の安寧を護るべきなのではないかという空気になってしまった。
さながらアイドルの親衛隊状態、というわけだ。
その空気を破って抜け駆けするヤツが現れたら、状況はまた変わるのかもしれないが。
「みんながあんたを心配してるよ。目が覚めたって伝えてくるね」
類は立ち上がった。
「あ、大丈夫です。わたし、自分で……」
朔良は、けなげに起きあがろうとする。
その肩を類が優しく押し戻した。
「いいから、あんたは寝てなさい」
類は、ふん、と気合いを入れると、装飾がたくさんついた重い観音開きのドアにノシノシと歩み寄った。
内開きのドアを思い切り引く。
廊下側からドアに張り付いていた少年のうち、何人かが室内に転がり込んできた。
「てい!」
類が蹴散らす真似をする。
「げ。風紀委員長」
「類さん、ちーっす」
慌てる者、媚びを売る者、そしらぬふりを装う者。なぜだか大げさに身構える者。
類を取り巻くいつもの風景だ。
「もう、あんたたち……。朔良は大丈夫。目が覚めたけどもう少し休ませるから、心配しないで、授業に戻りなさい」
「了解っす。姉御」
「アネゴじゃないっ!」
げし。蹴りを入れられたのは高一の男子。
その、向こう。
類の視線が、中庭を見下ろす大窓の傍らにたたずむ背の高い少年を捉えた。
なんだか、もの凄く大人びた物憂げな横顔。窓枠の豪奢な細工がよく似合う。
まるでミュシャのポスターのようだ。
少年の視線が動いて、類が男子に蹴りを入れた瞬間、目が合った。
スカートがめくれ上がっていた、と思う。
男子に蹴りを入れて下着が見えるなんて、ちょっと、いやかなり恥ずかしい。
「んい」
変な声が出た。頬が赤くなったかもしれない。
「志騎、あんたも朔良のお見舞い?」
類は、とりつくろうように、つとめて冷静な声を出す。
志騎は音もなく類に向き直った。
強い、視線。
「いや、俺は君に用がある」
類の心臓がドキンと跳ねた。
なんなのよ~。こいつ、目力ありすぎ……。
「図書館で待ってる」
言いながら、志騎は背を向けて歩き出す。
最小限の言葉と全く無駄のない動作。
恐怖さえ覚える隙のなさ。
「オッケー」
答えながら類は背中に嫌な汗をかくのを感じていた。
私のパンツ見たくらいじゃ動じないっての? とか理不尽な怒りもわき上がった。
「姉御、姉御、あれ、誰っすか?」
蹴りをくらった男子が、こそこそと訊く。
「嵯城志騎。転入生。高等部二年よ」
そう。同い年なのに、あいつは、どれだけの地獄をかいくぐってきたんだろう……。
パンツくらいじゃ顔色も変えないくらい?
……って、なんでパンツ基準なのよっ!
頭の上に浮かんだ妄想を両手でかき回したい気分だった。
「てか、アネゴじゃないって!」
類は、もう一度蹴りかけて思いとどまる。
「早く教室に戻りなさい」
扉を閉めて室内に戻った。なんだか大仕事を終えたあとのような疲労感だ。
あいつのせいだ、と思った。
「誰?」
朔良が心配そうに類を見ていた。
この少女はなにげに人の心を見透かすようなところがある。
特にダメージを受けているときに敏感だ。
「嵯城志騎」
「お礼、言わなきゃ」
「そうだね。でも急がなくてもいいよ。ちゃんと休んでから」
「類先輩、なんか変?」
「いやー。なんか、窓枠にもたれて外見てる横顔がさ……なんだろうね、凄い違和感感じちゃったってゆーか、ココじゃない感がハンパないっていうか」
「ココじゃない感?」
「あいつさ、学校って初めてなんじゃないかな?」
「そっか……。軍人さんだものね……」
朔良は少し遠い目になる。
理寛寺が口を挟んだ。
「確かに、英雄と呼ばれるのも伊達ではないな……」
「えっ?」
そうだ。彼が朔良を運んできたとき、理寛寺は彼と会っているはずだ。
いったいどんな会話があったのだろう。
この元軍医なら嵯城志騎を知らないわけがないから、朔良のことに関しても何か重要な話をしたかもしれない。
類は理寛寺の白衣の奥のはち切れそうな胸をうらめしそうに見た。
大きさでは、さすがに負ける。
そんなことを気にするのは、やはり彼のせいだろうか。
そんな類の微妙な乙女心を見透かすように理寛寺は言った。
「あれは女が放っておかんだろう」
「って、先生のくせに、なんですか、その台詞は?」
理寛寺は楽しそうに笑う。
「何を言っている? 私だって年頃の雌だ。いい男を見れば、落とせるかな? ぐらい考えるだろう?」
雌って……。
「先生、ぶっちゃけすぎです!」
「ふふん。残念ながら、学園内では生徒に手は出せん。誘うのはここを離れてからにするさ」
この人は……。
類は、内心、頭を抱えた。
「じゃあ、おまえは、あれの何を視ている? 会ったばかり、ほんの少し会話しただけの男だろう? やりたいと思わないなんて、雌の本能に逆らうようなことは言うなよ」
「やり……。って、そんなの、わかんないです……」
「頭で考えるのはよせ。雌が強い雄に惹かれるのは生物学的に最も正しい本能なんだよ。あれの子を産めば、間違いなく自分の遺伝子を残せる。雌にはそれが本能的にわかる」
「子供を産む?」
「実際、そうして代を重ねたからこそ独立を勝ち取り、たとえかりそめでも今の安定した自治がある。女たちが強い雄の遺伝子を残すために本能に従った結果だよ。しかも、あれは多分、第五……いや第六世代か?」
「妙に説得力のある話なんですけど、結局、いい男だからやりたい、でいいんですよね?」
「まあ、そういうことだ。ああいうタイプは攻略に萌える。……女は、影のある男に弱いものだからな」
「影?」
「猫屋敷類、お前の目が視ているのは、その影の部分なんだよ。考えてもみろ八十年もの占領の歴史を終わらせた英雄だぞ? あんなふうに普通にしていられるなんて、信じられん」
「普通に?」
「普通だろう? 優しくて、強い。ちゃんと笑える。闇落ちしている風でもない。まともな精神を保っていられるなんて、奇跡だ」
「戦場って、そんなに?」
「ああ。そんなに、だ。私は、壊れていったやつをたくさん見てきたからな」
「先生……」
尊敬のまなざしで類は理寛寺を仰ぐ。
「雌とか言ってたくせに、凄い、人格者っぽい」
「もっと誉めて良いぞ」
ああ……。この人は……。
やっぱり、類は、内心、頭を抱える。
「ね、先輩」
そっと朔良が呼びかけた。話の流れを理解していたのかどうかは怪しいが。
「だったら、お友達に、なれたらいいね」
ふわん、と花のように笑う。
一気に心が和んだ。
汚れた思惑など吹き飛んでしまうほどの邪気のない笑顔。全てのモヤモヤをその一言で包み込んでしまう優しさ。
この子の天然印百パーセントの癒しっぷりはもはや反則だろう。
類は抱きしめてぐりぐりしたい衝動を必死に抑えて、うんうんとうなずきながら朔良の頭を撫でた。