38 この世でいちばん死に近い場所
その日の夜、志騎は、ずっと付き添っていた朔良を寮に帰らせた。
誰にも言ってはいないが、海藤亮太をどうやって殺したのか憶えていなかった。
気がつくと朔良が腰に抱きついていた。
あれは危ない状況だったのだろう。
朔良がいなければ戻ってこられなかったかもしれない。
自分が自分でなくなっていくというのは想像以上の恐怖だった。
そんな恐怖に襲われるたび、朔良を抱きしめたいと思った。
あの少女にどれだけ依存しているのだろう。
どれだけ心を委ねているのだろう。
いつか人ではなくなってしまうのだとしたら、誰かを愛おしいと想う気持ちだけは最後まで失いたくなかった。
それ意外はどうでもいい。
苦しみも哀しみも憎しみも、そして喜びも、全部消え去ったとしても、愛する心だけは、どうか、最後まで……。
枕を背もたれにして座ったまま、バサッと乱暴に髪をかき上げた。
そのまま手を後頭部まで持って行って、髪をくしゃっと握る。
頼りすぎだ、情けない……。
ああ、夜が深い。
朔良を帰して良かった。
こんな精神状態で彼女が側にいたら、傷つけてしまうかもしれないから。
廊下をスキップするような足音が聞こえた。
スキップ?
面会時間外に廊下をスキップするようなヤツは一人しか知らない。
ドカドカと乱暴なノック。
返事も待たずにドアが開いた。
「やっほー。具合、ど?」
ひょこんとドアから顔を覗かせて、元気印百二十パーセントの類が笑った。
「夜ばいなら静かに来い」
「あれ? もしかしてウエルカム状態だった? だったらもっと色っぽいカッコしてきたのに」
類は真新しい軍服を着込んでいる。
緋色の階級章は金紗の二本ラインに星がひとつ。
転属してすぐに少佐扱いだ。
「いや。似合ってる」
「朔良は? まあ、あの子がいたら夜ばいとか言わないか……」
「寮に戻ったと連絡があったが、会っていないのか?」
「うん。参謀本部に行ってたから」
サイドテーブルに駅前のコーヒーショップの、テイクアウトのカップを置く。
「お見舞い。アーモンドプラリネラテ」
「をい」
「嘘。今月のオススメだって。エチオピア、ウォルカ、クレイウォットナチュラル」
説明しながら、類はそっと志騎の頬に手を伸ばした。
絆創膏でガーゼが止めてある。
それに触れる寸前で手を止めた。
「また、顔に傷作っちゃって……」
「ハクがつくからちょうどいい」
「やだなぁ。これ以上ハクつけてどーすんの?」
類は笑った。
そして、少し遠い目をして言った。
「ねえ、私、あんたの側にいられるなら、なんだってする」
「早死にするだけだ。考え直せ」
「聖堂で何があったか、話してくれとは言わない。だけど、一人で背負わなくてもいいじゃん? 話せないなら命じてくれればいい。どんなにヤバイ命令でも従うから」
「おまえは何もわかっていない」
類は、ふっと表情を緩めた。
優しい目をして志騎を見下ろす。
ひょいとベッドに腰をかけた。
「見てらんないって言ってんの。あんたは頑張りすぎ。もっと弱音吐いたっていいんだよ?」
類の言葉に、志騎は驚いたような視線を向ける。
類は微笑んだ。
「あんたの副官になるってことがどんなことなのか、私だって考えたよ。でもさ、やりもしないうちからウダウダ考えたって仕方ない。もしも、もしもね、私が死ぬようなことになったら……」
類は白い歯を見せてニッと笑う。
いつものお日様のような笑顔だった。
「二十秒だけ、泣いてくれれば、本望かな」
二十秒……。
志騎は、浅く息をついた。
「呆れたばか野郎だな」
「でも、呆れたばか野郎って、ちょっとかっこよくない?」
志騎は失笑した。
そして、いつの間にか彼女を自分の領域に受け入れているのだということを、改めて知った。
失いたくないもの、壊したくないもの、どんなことがあっても護り通したいもの……。
そんなかけがえのない存在があるということに、言いしれぬ不安を抱いていた。
けれども、朔良も類もどんどんそんな囲いをこじ開けて踏み込んでくる。
ちゃんと自分の足で立って、逆にこの悪魔の力を持った男を護ろうと手を差し伸べてくる。
いや、強引に腕を掴んでくると言うべきか。
女の子というのは、どうしてこうも強いのだろう。
それとも彼女たちが特別なのだろうか。
いつか、運命の神がその凍てついた刃を彼女の頭上にひらめかせるときがくるかもしれない。
多分、そんなときでも……。
類は、最後に笑うのだろう。
笑って、前だけを見るのだろう。
それは圧倒的な強さだ。
「類……」
この少女が持つ陽性のパワーは何だろう?
ともすると沈みがちな志騎の心に渇を入れてくれるような。
闇の底から引き上げてくれるような……。
「凄いや……」
類は志騎の表情を覗き込んで、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「そんな顔、するんだね……」
類はふわっと顔を寄せて、志騎にキスをした。
「今度泣くときは、私の胸、貸してあげる」
何だそのキメ台詞は、とは言えなかった。
自分は泣きそうな顔をしていたのだろうか。
自分でキスしたくせに、類は恥じらうような目をしての頬をバラ色に染めた。
「い、いや。怪我人を襲ったわけじゃなくて……」
まっすぐ類を見た。
彼女はとても素直な瞳をしていた。
一途なまっすぐな瞳の色だった。
この明るい輝きを曇らせないためにも、もう少し人として生きねばならないと、志騎は思った。
「俺を置いて逝くな、類」
類は、驚いた表情で志騎の目を見返す。
「……はい」
志騎はうなずいた。
「猫屋敷類、君を陸軍星形戦略作戦師団副司令官に任命する」
「はい!」
類はベッドから飛び降りると、全身で返事をして、胸に手を当てた正式な敬礼を返した。




