33 人ならざる者への鎮魂歌
「お母様っ!」
叫んで、朔良は我に返った。
蘇った記憶に慄然とした。
全身が震えて、自分の体ではないみたいだった。
頭が締め付けられるように痛む。
朔良は頭を押さえた。
「思い出したんだね、朔良……」
志騎はそっと朔良に歩み寄った。
床に半身を起こした朔良の姿が痛々しい。
抱きしめて頭を撫でてあげたかった。
でも拒絶されるような気がして怖かった。
朔良は切なく揺れる瞳で志騎を見上げた。
その瞳には戸惑いと怒りと恐怖の色がないまぜになっている。
「ど……して……?」
朔良は床に両腕を突っ張って、必死に涙をこらえていた。
「どうして……お母様を殺したの!」
朔良は、叫んだ。
こらえきれなかった涙が溢れて、散る。
志騎は何も言えなかった。
おまえのせいで朔良が惑う、と玲子に言われたときに刺さった胸の奥の楔が、ぎりぎりと更に深く突き刺さっていくようだった。
志騎は朔良の眼前にそっとひざまづく。
何も言わずに朔良が羽織っている志騎の上着の袖を通してやった。
胸元の十字架のペンダントが揺れていた。
はだけた白い胸と赤い印を隠すように前のボタンを留めていく。
体に印を付けるのは反則だろう、と絶望的な無力感とともにそう思った。
朔良は黙って、されるがままに志騎に身を任せていた。
志騎はふわりと左手を朔良の眼前にかざした。
その手を軽く握る。
手の中にいつもとは違う武器が実体化した。
新月の時と違って、ゆっくりと細部が形作られていく。
とても細かい造作の、豊かな装飾が施された武器だった。
朔良は息を呑む。
それは、あの日、玲子が二人を襲った両刃の短剣だった。
志騎は、無言のまま朔良の手を取って、その短剣を握らせた。
言い訳をするつもりはない。
今、朔良が思い出した映像が全てだ。
朔良は決して母を殺した者を許せないだろう。
それはわかっていた。
いつか彼女の手によって裁きを受けるのだと覚悟をしていた。
こんな状況で、傷ついた姿の彼女を護ってあげられないのは心残りだが、これがさだめなら甘んじて受け入れるしかない。
朔良は震える両手で短剣を持ち上げた。
その切っ先を志騎に向け、ポロポロと大粒の涙をこぼす。
志騎は、そんな朔良を見つめて心の中で詫びた。
また泣かせて、ごめん……。
辛い思いばかりさせて、ごめん……。
それでも。
――愛してるよ……。
志騎は、ふわっと笑って目を閉じた。
これで全てが終わるのだと、数多の人々の命を幸せを未来を奪い続けてきた人生が終わるのだと、ひどく安らかな気持ちで思った。
あの日、玲子に誓った。
今こそ約束を果たす時だ。
――さあ、闇の魔女よ、俺を連れて行け……!
朔良が動いた。
カシャンと金属が床に落下する音が響く。
朔良の手を離れた短剣が床に落ちた音だった。
志騎は驚いて目を開く。
朔良は手を伸ばした。
強く掴まれていたのか、その細い手首が赤く腫れている。
朔良は、志騎の頬を両の掌で挟んで、せいいっぱい体を伸ばすようにして口づけた。
「あ、いしてる……。愛してる愛してる愛してる……」
呪文のように囁きながら、朔良は志騎の胸に身を躍らせた。
「これは宿命?」
朔良は志騎の胸にすがりつく。
「違う。ただの夢だよ」
「夢?」
「ああ。悪い夢は、全部、俺が壊してあげるから」
朔良は志騎を見上げて寂しく微笑んだ。
「朔良、抱きしめてもいい?」
志騎の言葉に朔良はうなずいた。
とたんに強く抱きしめられて、朔良の息が詰まった。
抱きしめられると志騎の声が聞こえたような気がした。
まだ声も変わらないころの、懐かしい響きだった。
心配しないで、玲子……。
僕が朔良を護るから。
僕が朔良の全てを受け止めるから。
そして、もしも、僕が人ではなくなってしまったら、人の心を失ってしまうのだとしたら、そうなる前に、僕は、あなたの望み通り全部持って行くから。
朔良の宿命も、恐ろしい魔女の力も、全部持って行くから。
約束するから……。
だから玲子、ぼくたちに、もう少し時間を下さい……。
それは、懺悔とも誓いとも取れる言葉だった。
あの日の少年は、どんなに強い気持ちで鹿野玲子を手に掛けたのだろう。
自分の人生を未来を命を、全て捧げる覚悟を決めたのだろうか。
未来視という能力を持つ魔女のために。
朔良は、体の奥から得体の知れない力がわき上がってくるのを感じた。
クラリと視界が回って、揺れる蝋燭の灯りが遠くなる。
母が手招きしていた。
夕暮れの海岸で、砂の城にかかる小さな虹が彩る情景。
懐かしい母のもとに駆け寄って力一杯抱きついた。
ドロドロに肌を溶かした醜悪な化け物と化した母が、わけのわからない言葉で呻きながら首を絞めてくる。
恐怖に支配された理不尽な苦しみの中で、そのとき何かが目を覚ました。
彼女の裡の闇の深淵に潜む、夢を紡ぐ魔女だった。
志騎の腕の中で、朔良は震えた。
彼女は今はっきりと、己の体の中に潜む怪物の存在を知った。
その存在が実の母をもあんな狂気に走らせたのだと理解した。
体が熱い。
頭がぼうっとする。
――もう、ダメかもしれない……。
体の中から何かが溢れてきて止められない。
堰を切ったように膨れあがるそれは、はちきれそうに苦しくて、出口を求めて荒れ狂っている。
何か得体の知れない物に全身を乗っ取られてしまいそうだった。
「シキ……わたしを、殺して……」
朔良はかすれた声でつぶやいた。
そうして朔良は、志騎の腕の中で人としての意識を手放した。




