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32 あの夏、封じ込めた静かな海


 夏の終わりのその日は、やけに夕焼けが紅く燃えていた。


 朔良は、志騎といっしょに海岸で巨大なお城を制作中だった。

 志騎が魔法で砂を固めると、朔良は「ずるしちゃだめ!」と可愛い顔で怒った。


 朔良は六歳。

 このところ砂の城に虹の橋をかけることに燃えている。

 虹の橋のたもとにはお城があってそこに永遠の幸せの国があるという御伽噺を信じていたからだ。

 動物が死んだら虹の橋を渡る……と言うのを、楽園にたどりつく、と思い込んでいるのかもしれない。


 砂浜に玲子がふらりと現れた。

 ひどく憔悴しきった様子で何かに怯えたような瞳をしていた。


「朔良……」


 力無く玲子は愛娘を呼んだ。


「おかあさま!」


 朔良は満面の笑みで玲子を振り返る。

 大好きなお母様。

 気高く美しくて誰よりも優しい朔良のお母様……。


 朔良は母が大好きだった。

 父はいつも研究ばかりであまり遊んでくれない。

 でも母がいれば、正確には、母と志騎がいてくれればそれだけで良かった。


 この自然の溢れる島で笑って暮らしていけたらそれで良かった。


 朔良は砂浜を転がるように駆けて玲子の腰に体当たりで抱きついた。


「おかあさま、きいてきいて。また、シキったらまほうでおしろを作ろうとするのよ。ずるしちゃだめって言ってるのに……」


 上気した顔で母を仰ぎ少し舌足らずな口調でまくしたてる。

 玲子はそっと娘の前にしゃがみ込み、黙ってその小さな少女を抱きしめた。


「朔良……。愛していてよ……」


 娘の耳元で囁く。

 朔良は嬉しそうに身を委ねると、うふっと笑って言った。


「おかあさま、だぁいすき」


 朔良は母を見て、砂の城を振り返った。


「おかあさま、みてみて」


 志騎が魔法で、空中に細かな水滴を拡散させた。

 太陽の光を浴びて砂の城に綺麗な虹の橋がかかったように見える。


「きれい……。にじのはしのたもとにはね、つらいことがなくて、ずっと笑っていられる、えいえんの国があるのよ」


「朔良……」


 玲子は朔良の頭を優しくなでた。


「でもね、朔良……。

 あなたはその国へは行けないのよ。

 あなたは、いつか、あの悪魔とともに、この星を滅ぼしてしまう。

 お母様にはわかるの。

 あなたもいずれ知るでしょう。

 だけど、こんな未来はあなたには視せたくない……。

 朔良……。

 こんな宿命の星の元にあなたを生んでしまったこと、後悔しているわ。

 可愛そうな朔良……愛していてよ……」


 玲子は震える声でそう言うと、朔良の細い首に両手を絡みつかせた。

 少し力を入れたら折れてしまいそうな細くて頼りない首筋が玲子の手の中で震える。


「や……おかあさ……」


 玲子は泣きながら娘の首を締め上げる。

 朔良は母の手に必死で自分の手を突っ張って戒めから逃れようとするが、かなうわけもない。


「朔良!」


 あり得べからざる光景に当惑しながらも、志騎は二人に駆け寄った。

 力一杯、玲子に体当たりする。

 二人は砂浜に投げ出され、朔良は砂浜に転がったまま苦しげに咳き込んだ。


 玲子は悪鬼の形相で半身を起こす。

 ゆらゆらと体を振って立ち上がった。

 美しく巻いた髪は乱れ、優しかった瞳は何かに取り憑かれたように恐ろしい光を放っていた。


 その目が志騎を射抜いた。


「邪魔をするなら、おまえから殺す」


 地獄の底からわき出すような声だった。

 暖かな声で唄を唄ってくれた玲子の姿はそこにはなかった。


「どうして? 玲子」


 朔良を背に庇い、志騎は玲子を見上げる。


「こんな未来……こんな未来……こんな未来……」


 憑かれたようにつぶやきながら玲子は胸元から短剣を取り出す。

 豊かな装飾に彩られた両刃の剣だった。


「こんな未来のために、あなたを生んだんじゃない!」


 玲子は叫んで、短剣を振り下ろした。


 志騎は、握った左手を、短剣を受けるように前に突き出した。

 キィン。

 金属の打ち合わさる音がする。


 志騎の左手に長い日本刀が握られていた。

 抜き身の刀身が鋭利な輝きを放っている。


「邪魔をするな、悪魔の子。

 朔良を惑わす悪魔の使い。

 おまえは人ではなくなっていく。

 禍々しい魔王になってしまう。

 そんなことのために、朔良を捧げたりしない。

 私が終わらせなきゃ。

 私が終わらせてあげなきゃ、私が……!」


 なおも玲子は短剣を振り回す。

 まるで、何か得体の知れない力が玲子に降臨したかのような強さだった。


 志騎は防戦に徹した。

 親の愛を知らない志騎が、ほのかな憧れとともに母の面影を重ね慕った人だった。

 玲子を傷つけることなどできるはずがなかった。


「おまえのせいで、朔良が惑うのよ!」


 玲子は泣いていた。

 おまえのせいで朔良が惑う。

 ぐさりと胸に突き刺さるものがあった。



 冷たい楔が胸の奥深くに刺さって、抜けなくなった。



「この……悪魔……。近寄るな!」


 玲子が志騎を睨み付ける。

 志騎はまだ九歳。

 しかし、このとき既に彼の強さは圧倒的だった。

 どうしたって剣で玲子がかなうわけもない。

 だから志騎は、自分からは一切の攻撃をせず、玲子の攻撃を受け続けた。

 玲子が諦めてくれればいいと、あるいは、疲れ果てて戦意を失ってくれたらいいと、ただそれだけを願っていた。


 だが、何かに取り憑かれてしまった玲子は肉体の疲労を感じる様子はない。

 玲子は、悲鳴のような声で叫んだ。

 破滅の呪文だった。


 辺りに雷鳴が轟いた。

 稲光が空をジグザグに走り、目を射る輝きを放ちながら朔良めがけて落下する。


 志騎は朔良を振り返った。

 砂の上に起きあがった少女は、苦しげに浅く息をつきながら空が割れるような轟音に首をすくめる。


 考えるより速く体が反応した。

 志騎は、素早く飛んで朔良の小さな体を抱きしめていた。


 膨大なエネルギーが、少女を庇う志騎の体に襲いかかった。

 まばゆいばかりの閃光が辺りを白く染めあげ、鋭い稲妻が暴れ狂った。


 志騎の腕の中で少女がかすかに身じろいだ。

 外傷はない。

 志騎は激しい頭痛と目眩に襲われていた。

 悪寒が走り、手足が小刻みに震えている。

 体にとんでもない負荷がかかったのはわかっていた。

 だが、雷撃を受け止めたという感じでもない。

 もちろん、まともに喰らえば命はなかっただろう。


 なのに生きている。

 彼はまだ、女の殺意を跳ね返したのだ、ということに気づいていなかった。


 志騎は、浅く息をつきながら、ゆっくりと雷撃を放った女を振り返った。


 そこには、ボロボロに衣服を焼かれ、髪の半分が抜け落ちた血まみれの女がゆらゆらと立っていた。

 融けた肉が恐ろしい臭気を放って、ドロドロと赤黒い血液とともにしたたり落ちている。

 それでも女は黒く焦げた腕で短剣をかざし、一歩一歩、歩み寄ってきた。


 彼女をそうさせるのは狂気か、執念か。

 それとも、愛娘を想う母の愛なのか。


「きゃぁぁぁぁぁ!」


 おぞましい怪物の姿を目の当たりにして、朔良が悲鳴を上げた。

 それが大好きな母の変わり果てた姿であると、すぐにはわからなかったかもしれない。


「さ……くら…………」


 雑音まじりの絞り出すような声で、女は唸りながら近づいてくる。


 志騎は朔良を抱きしめ、ギリッと奥歯を噛みしめた。

 左手の刀を握った手に力を込める。

 その手が少し震えていた。


 玲子の剣が振り下ろされた。

 醜悪な化け物と変わり果てた姿で、しかし恐ろしいほどの殺意が込められた一撃だった。


 反射的に体が動いた。

 志騎は決して超えてはいけないと自分に科していた一線を、超えた。


「いやぁぁぁ! おかあさまぁ!!」


 朔良の泣き叫ぶ声が聞こえる。

 肉を貫く手応えが手に伝わった。

 深く刺し貫いた女の体から、ぬるく熱い鮮血が刀身を伝う。

 鮮血は志騎の腕に、体に、絡まり、真っ赤に染めていく。

 その鮮血といっしょに、玲子の意識が流れ込んできた。


 彼女が繰り返し繰り返し見続けていた悪夢の正体がそこにあった。

 それは未来視だろうか。

 それとも母の本能だろうか。


 真っ赤な血の色をした悪魔の翼を持った朔良が、命という命を摘み取り、この星の人々を蹂躙しつくすイメージだった。

 そのイメージはあまりに茫洋としていて具体性は何もない。

 けれども、朔良の持つ強大な魔力が全ての命を殲滅し尽くすのだということだけは、恐ろしいほどの確かさで実感できた。


 どす黒く膨れあがった魔力が朔良を呑みこみ、生あるもの全てを喰らい、うごめく奔流となって星を覆い尽くす。


 あとには何も残らない。


 そして、その魔女の手を取り導くのが、金色の瞳をした魔王だった。



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