31 太陽が融け堕ちる前に
志騎はゆっくりと聖堂の中に足を踏み入れた。
無造作に垂らした左手に、日本刀が握られている。
志騎は聖堂内にくすぶる異様な『気配』に眉をひそめた。
この感じは……。
戦場で何度も出会った赤い翼の魔女……。
志騎は加我を睨み付けた。
「貴様……」
半裸姿の朔良は、床に身を投げ出したまま放心していた。
赤い印のついた胸元と、切り裂かれたスカートから露わになった太股が痛々しい。
「カッコイイ登場の仕方だな、さすが英雄。これじゃあ俺が悪役じゃないか」
加我はうそぶきながら立ち上がった。
「朔良に何をした?」
「わかってること訊くなよ。彼女はもう俺のものだ。本当はもっとゆっくり優しくするつもりだったのに、おまえのせいだぜ。おまえが突然現れて俺の花嫁をさらおうとするから急ぐことになったんだ。俺たちは結婚して子供を作る。神の祝福を受けた新しい第七世代の子供だ……」
志騎は酔ったように喋る饒舌な男を無視して、朔良のもとに歩み寄る。
「お、おい、聞こえているのか!」
加我の目の前を通り過ぎ、朔良の傍らに膝を着いた。
制服の上着を脱いで痛々しい姿の少女の体を覆ってやる。
額に触れようとして思いとどまった。
まばたきもせずに見開かれた瞳が赤く輝いている。
体は硬直し、魂がここにはないような感じさえ受ける。
志騎は、ハッとして祭壇の上を仰いだ。
赤い翼の魔女が志騎を見下ろしていた。
その表情はわからない。
でも、口元が笑っているような気がした。
口の形が「シキ」と動く。
――そうか……。やっぱり君はここにいたんだね……。
「もしそれが本当なら、おまえは今頃生きてはいない」
加我に背を向けたまま、志騎は言った。
「なんだと?」
スッと志騎は立ち上がる。
加我を振り返った。
「感じないか? この聖堂に巣くう者の存在を」
一瞬、志騎の背後に真っ赤な翼を翻した女の姿が浮かび上がった。
どろどろと血の雫を垂らすその翼は毒々しくも禍々しい。
「な、なんだそれは!?」
加我は悲鳴のように叫んだ。
「視えるのか……。おまえは少しやりすぎた。これが暴走すると俺にも止める自信はない」
「だから、なんだ、それは!」
志騎は、無表情に言い放った。
「魔女だよ。朔良の裡に眠る邪悪なる怪物の姿だ」
加我は怖じけて後ずさる。
「魔女って……。げ、幻覚を見せてごまかそうなんて幼稚なハッタリ……」
「だといいがな」
志騎は新月の茎に巻き付けた麻布の端を口に銜え、キリッと巻き直した。
「武器を出す時間は待ってやる。第六世代」
加我はニヤリと口元を歪めた。
ペロリと血の滲んだ唇を舐める。
「なんだ、知ってるのか……。おまえの判断は正しかった。猫屋敷に止められてもあのとき殺しておくべきだったな、英雄さん」
加我は片刃剣二刀流。
左手には峰が凸凹の櫛状になった短剣、ソードブレイカーを逆手に握りしめている。
「そうだな」
志騎は自嘲気味につぶやいた。
確かにこれは、己の甘さが招いた結果だ。
唇から離れた麻布がはらりと宙に舞った。
加我は重心を落とす。
左手で逆手に握ったソードブレーカーを盾のように前に突き出し、右手の剣を交差するように構えた。
突進して突きを放つ気満々の構えだった。
「ぬあぁぁぁっ!」
加我は雄叫びを上げて突きかかってきた。
ソードブレイカーの櫛形に並んだ凸凹の間に稲妻が走り、右手の片手剣の刀身がまばゆくスパークする。
薄暗い聖堂内を白く染めるほどの輝きだ。
雷撃をまとった剣が光る残像を描きながら一直線に迫った。
志騎は、これを受け流した場合の周囲への被害を考えた。
最悪、聖堂が燃え落ちる。
瞬時に結界を張った。
あの決闘のとき、畔木がわかりやすく正しい結界を張ったのに対して、志騎のやり方はきわめて戦術的だ。
音も気配もない。
おそらく加我は気づいていないだろう。
スパークする剣が迫る。
剣先の軌道は完全に読めている。
体重を前に移動させつつ体を沈み込ませ、雷撃の剣をギリギリでかわした。
頭上で髪の毛の先が嫌な臭いとともに焦げる。
そのまま加我の足元に転がり位置を入れ替えた。
加我はオーバースピードのまま突進せざるを得なかった。
目の前から志騎が消え、勢いのついた剣を持てあます。
かろうじて踏ん張って持ちこたえた。
志騎は加我の背後に回った。
その無防備な膝の後ろを軽く蹴る。
カックンと膝が折れ、加我はだらしなくよろめくと、たたらを踏んで床に突っ込んだ。
加我の手を離れた剣が床に触れた瞬間、落雷したようなエネルギーが爆発した。
轟音と閃光。
衝撃波が結界内部を染めた。
銀色の魔法陣が志騎と、加我を護っている。
「貴様ぁ!」
床に這いつくばって吠える加我を見下ろして、志騎は酷薄な笑みを浮かべた。
――雷撃などで死なせはしない。この手で斬り刻んでやる。
「朔良を傷つけた罪は命で購え」
すうっと新月の切っ先を加我に向ける。
その冷たい輝きをひきつった表情で見ながら、加我は吐き出すように言った。
「じゃあ貴様の目的は何だ? 貴様はどんな目的で彼女に近づいた? 同じじゃないのか? より大きな力を求めているんじゃないのか!」
「そんなもの、たった一人の心に比べたら何の価値もない」
「は! まさか愛しているとでも? 茶番だ。じゃあなんで貴様は英雄なんて呼ばれていい気になっている!」
バチバチと空間がスパークした。
加我は立ち上がりざま剣を拾い、上段から振り下ろした。
電撃と同時に巨大な重力が空間を押しつぶす。
重力魔法だ。
象に踏みつぶされるネズミ、くらいの衝撃が志騎の体に加わった。
だが、志騎は少し目を細めただけで微動だにしなかった。
「この衝撃を跳ね返してもいいのか? ミンチになるぞ」
「ばかな……」
防御魔法を使っていない。
加我は色を失った。
学園での衆人環視の戦いは苛烈だった。
だがそれは炎の龍を操る海藤亮太の手法が派手だっただけなのか。
今、直接攻撃を仕掛けるでもない志騎は、恐ろしいほど冷徹にこの空間を制圧している。
志騎の瞳が金色に光っていた。
「加我、おまえは自分の力を畏れたことがあるか? この星を壊せるかもしれないと思うことの怖さがわかるか?」
「な……」
「誤解があったようだな。……朔良は第七世代だ」
「第七世代……まさか……」
志騎はスッと構えを変える。右下段。
「だが、第七世代は神なんかじゃない……本物の怪物だ……」
志騎は音もなく踏み込んだ。
えぐり込むように新月を斬り上げる。
男の胸を裂く手応えが手に伝わった。
斬り上げた勢いのまま刀を返した。
空中に光る残像が八の字を描く。
引き手に力を込めて力一杯斬り下ろした。
男の額が割れた。
信じられないという表情のまま、加我は床に崩れていく。
その瞬間、加我から受けた力を解放した。
床に倒れた男の上に、彼が自分自身で作り出した空間を押しつぶす重力が跳ね返った。
肉と骨が粉砕される嫌な音をたてて、ネズミが象に踏みつぶされて原型を失った。
志騎は結界を解く。
横たわった朔良の上で翼を広げて浮かんでいる魔女を振り仰いだ。
「もう少し、大人しくしていてくれないかな……?」
優しい口調で懇願するように言った。
新月の刀身を赤い血の糸が絡まり伝って、床に血だまりを作っている。
「俺は必ず、君のものになるから……」
魔女はただ何も言わず、神を祀る祭壇の上に君臨したまま志騎を見下ろしていた。




