28 シロツメクサの花言葉
放課後の空中庭園は静かな時間が流れていた。
庭園の芝生で、朔良は鼻歌を唄いながらシロツメクサをせっせと摘んでいた。
生命力の強いこの草は、油断すると繁茂して手がつけられなくなる。
だから、積極的に摘むことは、生徒にも奨励されていた。
志騎はそんな朔良の姿をベンチに座って眺めていた。
今日の朔良はご機嫌だった。
いつも笑顔の絶えないやわらかな雰囲気の子だったが、今日は特別良く笑う。
日だまりの中で笑っている少女との何気ない時間は、志騎にとって何物にも代え難い幸せなひとときだった。
この八年、こんな風に木漏れ日を浴びながら午後を過ごすようなことはなかった。
そしてそこに朔良の笑顔がある。
一生分の贅沢を味わっている気分だった。
「昨日のこと、類に話した?」
なんとなく先刻の類の態度が気になって訊いてみた。
朔良はくるりと振り返る。
「ううん。あれは、内緒。誰かに話したら、夢が醒めちゃいそう」
そう言って幸せそうに自分の胸を抱いた。
「夢なんかじゃないよ」
少し胸が痛む。
現実感のなさは、お互い同じなのか。
「シキにとっては些細なことなのかもしれないけど、わたし……」
朔良は頬を染めてうつむく。
志騎はハッとした。
そんなことにも気がつかないほどデリカシーがないヤツなのかと自分を責めた。
あれは朔良にとってファーストキスだったのだ。
立ち上がり朔良に歩み寄る。
膝をついてこうべを垂れた。
「些細なことなんかじゃない。子供のころからずっと、君だけを想ってきた」
志騎の頭に、ふわっと何かが載せられた。
手を持って行って触れる。
シロツメクサの花冠だ。
昔、こうして同じように頭の上に載せられたのを思いだした。
朔良は志騎と目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「シロツメクサの花言葉、知ってる?」
「いや」
朔良は悪戯っぽく笑う。
「わたしのものになって」
赤みがかった瞳がまっすぐに志騎を見た。
「わたし、子供のころ、いつもシキにかぶせてたね。花言葉なんて知ってるはずないのに、おませさんだね」
子供のころ?
憶えているのか?
それとも、断片的に記憶が蘇ったのか?
「あれ?」
驚いたように見開かれた朔良の瞳からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「思い出したいよ、シキ……。だけど、思い出そうとすると涙が出るの。どうしてかな? 思い出しちゃいけないのかな?」
芝生がパタパタと鳴った。
大粒の涙が落ちる音だった。
志騎は、そっと朔良の頭を撫でた。
何かのきっかけで全てを思いだしてしまう可能性は充分にあるが、それは彼女にとって良いことだとは思えない。
記憶を自ら囲い閉じるには相応の理由があるからだ。
そして、彼女が記憶を封印した原因は志騎にある。
聡明で優しく美しかった朔良の母玲子……。
彼女は誰よりも朔良を愛していた。
それなのに、この手で玲子を殺した。
この、悪魔の左手で……。
もし朔良が全てを思いだしたとしたら……。
――彼女は、決して俺を許しはしないだろう。
泣きべそをかいている朔良の頭の上に花冠を載せた。
わたしのものになって。
虚しい願いかもしれない。
彼女が志騎を許せないのだとしたら、記憶が封じられた状態で特別な関係を築いてはいけないとわかっていた。
彼女の記憶が蘇ったとき、引き返せない想いと過去の傷の狭間で苦しむことになるからだ。
彼女の心の平安を望むならこのままそっとしておくのが一番なのだ。
なのに心は理性を裏切り続ける。
衝動を制御できない自分は、卑怯者だ。
潤んだ朔良の瞳がたまらなく煽情的だった。
一度踏み越えたら気持ちに抑えがきかない。
少女のすがるように伸ばした手を引き寄せて、胸に抱いた。
抱きしめて、その額に、髪に接吻を落とす。
戦渦の中で、生と死ギリギリのところで結びついてきた。
離れていてもずっといっしょだった。
その彼女を愛おしいと想う激情に、呑みこまれてしまいそうだった。
このまま時間が止まればいいのに、と志騎は不抜けた心の裡で思った。




