19 燃える陽炎の雪
民家の瓦礫の陰で、小さな男の子が泣いていた。
多分、母親はもう生きてはいないのだろう。
ただ泣くことしかできない、無垢な少年だった。
その少年を見つけたのは常丸だった。
前線後退の指揮を任されたのに、常丸はどうしてもそれに従うことはできなかった。
部下にそれを任せ、自分は少しでも志騎の役に立ちたいと彼を追ってきたのだ。
志騎は命令違反を決して許さないだろう。
彼の出す後退命令は、その全てが部下を守るためだからだ。
あの、赤く閃く魔法陣はとても危険なものだった。
物質ごとに狙いを定め銃火器や爆薬を無力化する。
だから、武装した友軍がいる場所では使えない。
必殺必中の恐ろしい力だった。
その魔法の効果範囲に飛び込むことは死を意味する。
彼の側で、彼の傍らで過ごしてきたこの数ヶ月。
その圧倒的な戦力で数多の敵を斬り崩すのを目の当たりにしてきた。
彼はいつも矢面に立って誰よりも危険な場所で闘ってきた。
彼はいつも血に染まっていた。
その彼が初めて同世代の若者が通う学校へ赴任するという。
鹿野朔良という未来視の少女を護衛する任に就くのだという。
元帥閣下直々の命令であるそれは、最も重大な任務だ。
常丸は、なぜだかとても嬉しかった。
彼が学校に行く。
同年代の若者であるならば当たり前の日常。
血まみれの日々の中で少しでも安らげる時間が持てたらいいと、つい、兄のような気持ちになってしまった。
身の程知らずとはこのことだった。
わずか九歳で英雄と呼ばれ、軍の特殊部隊を預かるということの偉大さを、恐ろしさを、責任を、自分は全く理解していなかった。
常に彼の庇護のもとに補佐の役割をこなしていたにすぎなかったのだ。
このカムイコタンに、ともに指揮官として派遣された歩兵部隊の重鎮たちは年齢が倍も上の老獪で、融通が利かないどころか常に子供扱いをしてくる。
九歳から英雄をやってきた?
そんな子供にあの古狸どもが大人しく従ったとはとても思えない。
それでも志騎が闘ってこられたのは、神とも悪魔とも呼ばれるほどの圧倒的な戦力があってのことだったのだ。
力でねじ伏せ、手柄を分け与える。
きっと今までもそうしてきたのだろう。
彼がペンタグラム・フォースを作ったのは、そんな腐った旧軍属のしがらみに囚われない新しい部隊を組織するためだったに違いない。
今、彼は別の任務の真っ最中なのだ。
自分の不始末で怪我をさせるようなことがあってはならないのだ。
もしものときはこの身を挺して彼を守るのだと、堅く心に誓っていた。
少年が泣いていた。
ボロボロに破れた服を着て、手に何か布の切れ端を握りしめている。
母親の洋服かもしれない。
「大丈夫かい? ぼうや。こっちへおいで」
常丸は物陰からそっと声をかけた。
泣きじゃくる少年は常丸の声に気づかない。
「ぼうや」
手招きする手を伸ばす。
その、右手が吹き飛んだ。
何が起こったのかわからないまま、常丸は消えた右腕のあったあたりを凝視した。
「え?」
府抜けた声を出したとき、常丸の背後で複数の肉塊が地面に崩れる音がした。
機械的に振り返ると、血を吸った大刀を携えた英雄の姿がそこにあった。
その足下に男が二人、銃を持ったまま倒れている。
ああ、准将が助けてくれたんだ……。
「准将……」
あちこちでくすぶる炎を反射してきらめく金色の瞳が、恐ろしいくらいに美しく見えた。
「優馬!」
彼に、名前を呼ばれるのが好きだった。
それが、遠く……。
真綿にくるまれたように遠く聞こえる。
自分も、一度「志騎」と呼んでみたかった……。
ああ、少年が泣いている。
助けてあげなきゃ……。
准将……。
あなたの側にいられて、良かっ……。
志騎の目に、右手から鮮血を吹き出しながら地面に倒れていく男の姿が映った。
腕を吹き飛ばされたくせに、嬉しそうな顔で笑っているように見えた。
「優馬!」
名を呼んだ。
駆け寄る。
その、向こう。
泣いている少年の姿が網膜に突き刺さった。
ガツンと頭に衝撃を受けたような気がした。
――シキ! 近づいちゃ、ダメ……!
朔良の声が聴こえた。
それはいっしゅんの未来視。
少年が、光に包まれていった。
あれは……。
全てを消し去る終末の光。
カムイコタン一帯が光る闇に閉ざされ、跡形もなく消えていく。
急に視界がもとに戻った。
今までにも何度もこんなことがあった。
あれは朔良が視た映像。
来たるべき未来。
あの少年が、全てを白い闇へと包み込む。
あれは、神をも喰らう怪物、戦術核をも上回る消滅兵器フェンリルだ。
起動命令は誰が出すのか。
そもそもどこで造られたのか。
どうしてこんなところで少年の姿で泣いているのか。
トラップにしては悪趣味が過ぎるだろう。
あの少年はもう助けることはできない。
爆散させることもできない。
では、無力化するにはどうする?
志騎はギリッと奥歯を噛みしめた。
原子レベルに、分解する――。
少年を中心に青い魔法陣が広がった。
志騎は常丸のもとに駆け寄って止血を施した。
少年の魔法陣めがけて銃弾が降り注いだ。
その全てを防ぎつつ、反撃する。
人間を構成する物質の結合を解き大気中に存在する無害な原子に分解するのは、恐ろしく緻密で時間のかかる作業だ。
そして同時に、DNAレベルで組み込まれた未知の生体兵器の構造を分析する。
しかし、ブラックボックスばかりだ。
解析に集中すると自分の防御がおろそかになった。
爆散した瓦礫の破片が飛んできて頬をかすめた。
頬の傷を手の甲でぬぐう。
志騎の殺意を跳ね返す能力は、当然のことながら意志を持たない無機物には作用しない。
だから、彼にダメージを与えるには直接銃弾を撃ち込むより何かを破砕させ、その爆風で飛び散ったものが直撃するようし向けるのが一番効率が良い。
それは特別な能力を持っていない者たちの通常の戦闘でも同じことが言える。
戦闘において真に危険なのは無作為に飛んでくる瓦礫や破片だ。
それで数多の兵士が戦闘不能に陥ったり、重篤な怪我を負う。
魔法陣の中央で膝を抱えて座り込んだ少年が、顔を上げて志騎を見た。
少し寂しげな、うるんだ瞳だった。
――ああ。坊主。おまえの全てを受け止めてやる……。だから、いいこにしてな。
少年は安心したように笑った、かもしれない。
無数のマズルフラッシュと吹き抜けるバックブラストが闇を裂く。
少年を分解するまで爆散魔法は使えない。
あの子のポケットに銃弾の一発でも紛れ込んでいたら、あの子の周囲に火薬を備えた火器の一丁でも落ちていたら、全てが終わる。
個別に敵の位置を特定して計算して攻撃魔法を仕掛けた。
フェンリルを無力化するまでこの距離で周囲への攻撃を防ぎ続けなければならない。
「きゃぁぁぁぁ!」
少年がサイレンのような悲鳴を上げた。
断末魔の悲鳴。
その悲鳴に刺し貫かれたように、くらりと目眩がした。
脳を割るような激しい頭痛とともに、志騎の脳裏に真っ赤な翼を広げた魔女のイメージが浮かんだ。
それは生ぬるい血のしたたる翼を広げた美しい魔物の姿だった。
この魔女は生死の狭間に在るとき、たびたび現れる。
正体はわからない。
無反動砲の弾頭が手前の瓦礫に着弾した。
自分のことは後回しだ。
少年の防御に全神経を向けた。
猛烈な爆風に煽られて体が吹き飛ばされた。
衝撃で息が詰まり鼓膜が痺れた。
地面に叩きつけられる。
瓦礫の破片が周囲に降り注ぎ、砂塵が舞い上がった。
自分が生きているのか死んでいるのかわからないほどの刹那のあと、全身にジンとした痛みが広がる。
起きあがろうとすると妙に体が重かった。
気がつくと、常丸優馬が大きな体で覆い被さっていた。
常丸はぐったりしていて動かない。
腹の辺りに、生暖かい血液が広がる感触があった。
その体の下から志騎は這い出た。
胸に激痛が走った。
肋骨をやられたらしい。
「優馬……」
傍らに伏した血まみれの男の首筋に指を触れる。
男は苦悶の表情のまま動かない。
確認するまでもなかった。
常丸は、爆風から英雄を守る盾となった。
胸の奥に広がる痛みは肋骨が折れた痛みだけではないはずだ。
ふっと頭が軽くなった。
分解、完了――。
少年と魔法陣が跡形もなく消えている。
これがもう少し速くできていたなら……。
爆風に飛ばされることなどなかった。
いや、飛ばされ、瓦礫の破片を喰らったとしてもそれは己の未熟さゆえの代償だ。
なのにこの男は……。
傷ついた体で他人を助けようとするなんて……。
心臓が、ねじ切られるように痛んだ。
背後から赤い血の翼をした魔女がふわりと志騎にしなだれかかってきた。
女は、志騎の頭を抱き込んで、そっと耳朶に唇を寄せる。
「優馬。俺は、いっしょに札幌へ帰ろうと言った」
苦しげに見開かれた男の目を、そっと閉じてやった。
首元の認識票を取る。
メタル・ブルーのドッグ・タグだ。
そのタグを握りしめた。
魔女の細い腕が伸びた。
タグを握りしめた志騎の手にそっと魔女の手が重なる。
魔女が耳元でささやいた。
それは、破滅の呪文だ。
「命令違反だ、この、馬鹿野郎!!」
真っ赤な魔法陣が闇に浮かび上がった。
その片縁から中央に向かって小さな魔法陣が重なり合うように浮き上がる。
無数の円の集合体が膨れあがり闇を包み込んでいく。
そして、突き上げるような巨大な爆発が起こり、カムイコタンの夜空を紅蓮に焼いた。




