第3話 薄墨改
「おいっすー、改くん」
「お疲れ、渚」
大学の講義を終え、帰り支度をしていた改に、茶髪をハーフアップにした、親友の古紺渚が声をかけてきた。二人は同じ高校の出身で、仲間内ではお互いに一番付き合いが長い。
誕生日が早く、高校一年生の四月で免許を取り、祖父から譲り受けたバイクとライダースジャケットで毎日登校していた改は、当時校内でもかなり目立っていたが、対する渚は重たい前髪で表情が隠れた、目立たない印象の女性生徒であった。そんな二人だが初対面から意外と馬が合い、こうして大学でも友人関係が続いている。
なお、大学デビューした渚は、かなりあか抜けており、今ではすっかり大学の人気者である。渚を狙っている男性も多いようだが、渚と親しい改の存在が意図せず牽制となっており、今のところ悪い虫はついていない。
「これから何人かで遊びに行こうって話になってるんだけど、改くんもどう?」
「ごめん。遊びたいのは山々なんだけど、今日はバイト」
「それなら仕方ないか。最近体の調子はどう? バイトとかに支障はない?」
「まだ左腕が少し痛むけど、それ以外は何とも。今はバイクに乗れないことの方が堪えてる」
「改くんが無事で本当に良かった。ずっと大事に乗って来たから、きっとバイクが改くんを庇ってくれたんだよ」
「確かにそうかもしれないな」
鹿を避けた際に改はバイクから転倒。バイクはそのまま横滑りし、運悪く崖下まで転落。廃車は避けられなかった。改ごと崖から落ちていた可能性も十分に考えられ、軽傷で済んだのはまさに不幸中の幸いだった。免許を取って以来乗り続けて来た愛車との別れは堪えたが、渚の言うように愛車が庇ってくれたと考えれば少しは救われる。
「渚。話は変わるんだけど、明晰夢って見たことあるか?」
「明晰夢って、夢の中で自由に動ける、みたいなことだっけ。今のところ経験ないな。面白そうだなとは思うけど、怖い夢とかだったら嫌だし。それがどうかしたの?」
「実は二日続けて、明晰夢らしきものを見ててさ。内容自体は高級コテージで過ごす平和なものだけど、リアルすぎて少しだけ気味が悪い」
「偶然じゃない? 一日目が凄くリアルだったから、二日目もその印象に引っ張られちゃったとか」
「実際、真相なんてその程度のものだよな」
考えていた理屈は改もだいたい同じだ。苦笑交じりに頷き、リュックの口を閉じた。
「渚、そろそろ行こうよ」
一緒に遊びに行く約束した友人の一人が入り口から渚に呼び掛けた。
「引き留めて悪かったな。楽しんできて」
「それじゃあ改くん。また明日ね。もし夢の続きを見たら、次回はもっと詳しく教えてよ」
笑顔でそう言い残すと、渚は一足先に大学を後にした。
※※※
「……今日は疲れたな」
バイトを終えて改が帰宅した頃には、時刻は二十三時を回っていた。バイト先は飲食店で、まかないも出るので、男子大学生の一人暮らしを大いに助けてくれている。
ライダースジャケットを壁のハンガーで乾かし、湿ったデニムと白いティーシャツは脱衣籠に放り込み、部屋着へと着替えた。外は強い雨が降っている。バイトが終わった頃から急速に降り始め、近くのコンビニでビニール傘を買って慌てて帰ってきた。雨に濡れた体は普段以上に疲労している。
気分転換に冷凍庫からカップアイスを取り出し、ソファーに座る。何の気なしにテレビを点けると、夜のニュース番組が流れた。先月亡くなった国会議員、納戸機知乃助のお別れの会が執り行われ、参列者を代表し、若手議員の紫景彦がインタビューを受ける様子が報道されている。
「駄目だ、眠い……」
疲労が溜まった瞼は徐々に睡魔と重力に負け、改はアイス片手に船をこぎ始めた。これではいけないと、まだ封を開けていなかったアイスを冷凍庫に戻す。ベッドに移動するのも億劫で、ソファーにそのまま横たわった。風呂は朝にシャワーでも浴びればいい。改はそのまま眠りへと落ちていった。