第十話 本当の願い事
とある牧師は、ため息をついていた。
この牧師、世間が想像するようなコスプレっぽい服を着たりしていない。お爺さんでも優しそうなタイプでもなかった。アラサーぐらいの女で、パンツスーツ姿で教会の牧師室でキーボードを叩いていた。
最近は引き寄せやスピリチュアル関連の問い合わせも多く、聖書との違いをわかりやすく説明したブログ記事を書いていたが、ため息がでる。世の中の引き寄せの法則も調べてみたが、ドン引きするぐらい悪魔的だった。
確かに引き寄せの9割は聖書っぽい。ポジティブ思考や感謝する事の重要性は聖書にも書いてある。祝福は地上にはなく、天から持ってくるしかないと言っているスピ系の人もいて、かなり勘はいい。正直、牧師や神父よりも為になる事を言っている人もいる。本当は教師の才能(賜物)がある人達かもしれない。
だが、残りの1割が悪魔的で猛毒だった。人間の欲望を肯定したり、善と悪をごちゃ混ぜにしたり、波動の低い人を一方的に避けようと言ったり……。ため息しか出ない。
同業は超お花畑で嫌になる。こうして引き寄せやスピリチュアルを調べているだけでも「あの牧師は悪魔崇拝」などと同業者に叩かれた。
これだけスピリチュアルの汚染された現状を知ると、危機感しかないのだが。悪魔は本気で盗みに来てる。牧師ではあるが、世の中の現実も知る必要を感じていた。
そんな時だった。チャイムがなり、出ていくと、A子という女がいた。牧師と同じぐらいの年代の女性だったが、こう言ってきた。
「引き寄せの法則ってなんですか!? 聖書と関係あるんですか!?」
聞かれたからには答えるしかない。牧師はA子を礼拝堂に連れていき、引き寄せの法則が産まれた背景や悪魔の事、最初のアダムとエバから説明した。
「引き寄せとは、悪魔が人間を堕落させる為に作ったものよ。新しい宗教、ニューエイジ ともいう。まあ、宗教抜きにしてもキリスト教が嫌いな人達が作ったのがリアルな起源だかね」
宗教的な事など嫌悪感を持たれると思ったが、A子はさほど驚いていなかった。
神学だけでなく、引き寄せの法則も調べて置いて良かったかもしれない。何が役立つかわからないものだ。
◇◇◇
A子は引き寄せの法則と聖書との関係を疑い、近所の教会に来ていた。
教会といっても地味な公民館のような施設で、ちっともパワースポット感はないが。牧師はアラサー女だったが、献金では生活できないらしく、タイミーをやっていると言っていた。
そして次々と引き寄せの法則の真実が語られ、もう声も出ない。
「決めたら願いが叶うって引き寄せの法則で聞いたんですが」
「これも聖書のパクりだね。マルコの五章、長血の女性の話があるけど、そこからの教訓では心に決めた事、信仰心をもっての行動で結果が変わるという」
「予福は? 先に祝って願いを叶える事」
「エペソ一章かな? 『神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました』ってあるけど、自分が祝うんじゃなくて、神様に祝福されてるって信じる事を歪めてる感じがするわ」
「引き寄せでは『すでにある』と腑に落ちると叶うって」
「マルコ十一章二十四節のパクリですか? もう全部聖書を盗んで歪めてるな。神様がいない、信仰もないのに、『すでにある』なんて一体どうやって腑に落ち着ちるんですか……? それに罪ある私たちが簡単に願っただけで願いが叶う方が危険だから。信仰抜きでポジティブ思考やイメージングやったら悪魔と繋がる。A子さん、本当に願いが叶わなくて良かったわね」
引き寄せの法則で意味がわからなかった所が「神と信仰を抜いた聖書のパクリ」だとすれば全部腑に落ちてしまった。
そうは言っても別に宗教やキリスト教徒になりたいという願望はないが、牧師に誘われ、信徒の人達と食事をすることになった。
信徒は老人や障害者、貧乏人、ニートやホームレス、元キャバ嬢や元ヤクザなど色んな人がいた。スピリチュアルだったら「波動が低い」と排除されそうな人ばかり。決して明るくもポジティブ思考な人が集まっているわけでもなかったが、A子も普通に迎い入れられた。
みんなと一緒に食事をしながら思う。本当に願う事は、何だったのだろうと……。金や名誉、男を求めていたが、自分が欲しかったものは無償の愛。ありのままの自分でも見捨てられない何かだったと気づいてしまう。
わからない。そんな無償の愛がどこにあるかわからない。
少なくとも引き寄せにはなさそう。結局は、波動の上下で差別されるし、スピリチュアル界隈に障害者やホームレスが居られるほどの懐の広さもない。
A子は目を閉じ思う。
神様、もしあなたがいるのなら、私が本当に願っているものは無償の愛で合ってますか?
肩の力が抜けてきた。もう金や名誉などの願いを叶えなくて良いと思うと、気も抜けてきた。
本当に願っているものだけ手に入れば良いんだ。幸せになれなくても、世間でバカにされても、惨めになっても大丈夫な気がした。