わたしが生まれた日
はじめて嗅いだ臭いは、大地を白濁に覆い尽くす石炭の焼煙でした。
閉じた瞼の向こうに明かりを感じて、わたしは目をひらくように命令を出しました。ピントの調整、光量の調整のために歯車がまわり、僅かな駆動音が耳の奥をくすぐります。鮮明に変わりゆく視界。その様は、モノクロームの銀板写真に色を乗せていくように移ろいました。
はじめて見た光景は、くすんだ天井と、こちらを覗き込んでいる少年でした。
息が掛かるほどに――互いの唇が触れ合うほど近くにいた少年は、わたしが瞼をひらいた瞬間に仰け反り尻餅をつきました。少年は、そのままの姿勢で誤魔化すように苦笑しながら、頬を人差し指で触ります。苦笑はだんだんと笑顔に変わり、少年は立ち上がると、今度は遠慮がちにわたしを覗き込みました。
「おはよう、メアリッサ」
少年が挨拶をしたこと、おそらく女性の名を呼んだこと。当時のわたしにわかるのは、それくらいでした。わたしに名があること。わたしが呼ばれたこと。それさえ、わかりません。
いつまでも返事をしないわたしに、少年は「あ」と小さく声を上げて「君の名前だよ、メアリッサ。おはよう」と柔らかな声で話しかけてきました。その声は、無垢な花に語りかけるような優しさを帯びていました。
「おはようございます」
挨拶を返したものの、少年が誰なのかわかりません。
わたしは、まじまじと少年を観察していました。少年の恰好は一言でいえば、だらしありません。焦げたパンのような色の髪は、寝癖かどうかもわからないほど、ぼさぼさに乱れていました。さらにひどいのは服装です。くたびれた作業着のつなぎは、ところどころ焼けたように小さな穴があいているのです。
「やあ、お目覚めかい、眠り姫」
少年とは違う声でした。声のしたほうへ視線を向けると美しい女性がいました。
ウェストコートのうえに紺のジュストコールを着込んで、キュロットを穿いていました。艶やかに煌めく髪は少年とおなじ色をしていますが、肩口のうえで揃えられており、寝癖ひとつありません。前髪を色褪せたビオラの髪留めで纏めて、胸のあたりは女性らしい膨らみがありました。
高貴な青年のような服装と女性らしいからだつき。
裏腹なはずなのに自然と交じり合い、中性的な美しさをかもしています。
「眠り姫、わたしのことでしょうか?」
尋ねたわたしに「ええ、そうよ」と女性は答えました。
「はい、起動しています」
上半身を起こすと、肩のあたりにかけられていた薄手の布のようなものが腰のあたりまでずり落ちて、わたしの身体を露出させます。白い肌と女性特有の胸のふくらみ。わたしをつぶさに観察しても、スチームエンジンで動く絡繰人形と見抜く人は、ひとりとしていないでしょう。それほどまでに、わたしは精巧に作られた人形でした。
わたしが寝かされていたのは、ベッドというにはお粗末でテーブルと表現したほうが適しています。いいえ、あとから知るのですが、テーブルですらなく作業台でした。
「ずいぶん寒そうな恰好をしているね、風邪を引いてしまうわ」
肩を竦めて、呆れた顔で女性は言います。
「いいえ、風邪を引くことはありません」
人は体調を崩すと風邪を引きますが、わたしにそういう機能はありません。多少無理をしたところで、メンテナンスをすれば壊れることもありません。
「ええ、そうかもしれない。でもね、女性に生まれたからには恥じらいも必要よ。異性の目のあるところでは、とくに、ね」
女性はウインクして、わたしに近づいてきました。
布を胸のあたりまで持ち上げて、抱きしめるように背中へ手をまわすと結んでいきます。女性の髪からは香草のような、あるいは花蜜のような香りがしました。
「はい、これでいいわ」
女性が離れると香りも遠ざかり、代わりに石炭の焼煙の臭い――この世界の臭いのほうが濃くなりました。
わたしは作業台から立ち上がりました。
結んでくれたおかげで、胸からしたは白い布でかくれています。目を細めてわたしを見ている女性と、にこにこと笑顔のとまらない少年をわたしは交互に眺めながら尋ねました。
「恥じらい……。必要なのでしょうか、わたしにも」
恥じらうような仕草をしたところで、設定された動作でしかありません。人ではなく、スチームエンジンで動く鉄と歯車の絡繰人形にも、恥じらいは必要なのでしょうか。そのような意味合いで尋ねましたが、女性は、ふふ、と小さく声を出して笑いました。
「そうね、相手が幼ければ、必要ないかもしれないわ」
一旦言葉を止めて、少年のほうを向くと「でしょう、ククリ」と笑うような声で問いました。
「僕に対して、凄く失礼だと思うんだけど。ビオラは僕をからかうのが好きだよね」
少年は腹を立てたように言います。
けれども当時のわたしは、どうして少年が怒ったのかも、なぜ女性が楽しそうに微笑んでいるのかもわかりませんでした。
「そんなことないわ。ルミナージュ屈指の絡繰技師であると、だれより君を評価しているのは、わたしだもの。腕のよい職人ほど、仕事に妥協しない。メアリッサを見れば、ククリの絡繰が完璧なのは疑いの余地もない。これほど精巧に作られた絡繰人形を見たことないもの。まさしく妥協しない絡繰技師のなせる技だわ」
一転して、少年は誇らしそうに胸を張りました。
そんな少年を、意地悪く女性が眺めていることに気づいていないようです。
「それとも、女性への飽くなき探求心と好奇心のなせる技かしら」
とたんに少年の顔があかくなりました。
「ビオラ! また僕をからかう」
「はいはい、ごめんなさい。ところでククリ、君が立派な紳士なら、こういうときにどうするべきかしら」
女性は部屋の戸口を一瞥しました。
少年は促されるように戸口のまえまでいくと、振りかえり、わたしを見て言います。
「メアリッサ……ううん、メアリ。僕の名は、ククリ。ククリ・シュベイン・アサーラン。君を作り出した絡繰技師だよ。これからよろしくね」
「ククリ……様……」
これから数えきれないほど呼ぶことになる主の名を、わたしは声に乗せました。
「うん、メアリ」
満足そうに頷いた少年――ククリ様は戸をひらくと、その向こうの白い霧のなかへ消えていきました。わたしは追いかけようとして、けれども女性に腕を掴まれて邪魔されました。
「いいかい、メアリッサ。そんな恰好で外へ出るのは、本当に恥じらいのないことだよ」
女性の声音には有無を言わせない強さがありました。
「どうすればよいのでしょう」
尋ねたわたしに、楽しそうな声で女性は答えました。
「服を着ればいいわ。あなたに合いそうな服を揃えてあるから、好きなものを選んで」
説明しながら壁ぎわに置かれていた、背丈ほどの高さの衣装タンスをひらきます。中には二〇着ほど衣装が収められていました。種類も豊富にあり、豪奢なドレスから給仕服まで揃えてありました。
「どうかしら」
コレクションを自慢するように女性は手を広げました。
「その中から、選べばよいのですね」
女性の広げていた手のひらが上を向いて、やれやれ、と言いたそうに肩を竦めました。
「女性なら、こういうときは目を輝かせて喜ぶところよ」
「目を輝かせて喜ぶ……。目を光らせながら喜べばよいのでしょうか。申し訳ありません。わたしに、そのような機能はありません」
女性は目をぱちくりと瞬かせたあと、握りこぶしを口もとにあて、小刻みに肩を揺らしながら笑います。
「あなた、面白いことを言うわ。でもそうね、目を輝かすとは生き生きと嬉しそうに笑うこと。着飾るのは、女性の楽しみのひとつよ」
「嬉しそうに笑う……」
わたしは繰り返したあとに、表情を嬉しそうな笑顔に変えました。
どういうふうに顔を変えれば嬉しそうな笑顔になるのか、あらかじめプログラムされています。女性の希望に沿うように表情を変えるのは造作もありません。
希望通りの表情をしたはずなのですが、なぜだか女性は苦笑していました。
「急に笑顔になるのは、なかなか恐ろしいものがあるわ」
「不評でした」
「笑顔のまま落ち込まれるのは、さらに怖いわね」
「落ち込んではいませんけれど、難しいです」
今は笑顔でいるべきなのか、それとも先程までの無表情に戻ればよいのか、はたまた別の表情をすればよいのかわかりません。なので嬉しそうな笑顔に設定したまま変えませんでした。勝手に変更したところで、希望に沿うような表情を作れない気がしたからです。
「そのうちにでもわかればいいのよ。さて、選んでみて」
「はい。では、右から三番目の衣装にします」
すぐに答えると、またしても不満そうに眉を顰められてしまいました。
着飾るのは、女性の楽しみのひとつ。先程、そう言われたように、着飾ることを楽しんでほしい。わたしに求められているのは、絡繰人形ではなく女性の振舞であると、当時のわたしも理解していました。
とはいえ、喜怒哀楽などの感情は、わたしにはありません。
楽しそうな笑顔をすることは出来ます。悲しそうな表情も作れます。けれどもそれは、そう見えるだけで中身のないものでした。わたしは笑顔から無表情に戻して、女性へ伝えました。
「ご承知とは思いますが、わたしは、心や気持ちに該当するものを持ち合わせていません。なにかを楽しむことなど出来ないように作られているのです」
人とおなじように振舞えない。人と絡繰人形は根本から違うのだと伝えました。
「人でも、心無い者は多いけどね」
女性はすぐに「でもね」と続けて「メアリッサに心が無いとは思わないわ」と仰いました。
そのあと衣装タンスから、わたしの指定した服を取りだしながら「でも、給仕服ねえ。メアリッサに似合いの衣装だけど、面白味がないわ」と言い、わたしは「申し訳ありません」と返すのですが、別のことを考えていました。なにを根拠に絡繰人形に心が有ると思うのでしょう。心無い者とは、どういうことでしょう。
「次からは、ひとりで着られるように覚えて」
給仕服を一旦作業台へ置いてから、わたしの身体を覆う布を外しました。
布を折り畳んで給仕服のとなりへ置くと、まず肌着を着せてもらい、そのあとに給仕服を着つけていきます。着つけられながら、わたしは先程の疑問を尋ねました。
「どうして、わたしに心が有ると思うのですか?」
「美しいからよ」
女性は着つけの手を休めることなく答えました。
「美しいから?」
「ええ、そうよ、美しいから。美しいものには、心と魂が宿るものなの。宝石、煌びやかな衣装、もちろんあなたにもよ、メアリッサ」
答えたあとに「わたしは宝石なんかより、鍛え上げられた剣を美しいとおもう性質なのだけれど」と笑いながら話されます。わたしは女性の服装に今一度目をやりました。女性に似合いの衣装だからこそ美しく感じますが、脱いでしまえば途端に変哲のないものに変わります。
「それでは、醜いものには、心は無いのでしょうか?」
わたし自身、美しいから心が有るといわれても実感はありません。女性の言葉には、なんの根拠も脈絡もないはずなのに矢継ぎ早に尋ねていました。
「ええ、そのとおりよ、メアリッサ。心無い者とは、醜い人のことをいうの」
女性は一旦言葉を止めて、大きく息を吸い込み、深呼吸するように言葉を吐き出していきます。
「心は、目に見えないもの、手で触れられないもの、いくら探しても見つけられないもの。ただひとつだけ、心が有ると確かめる方法があるわ。それはね、メアリッサ、だれかの心を動かすこと。心は心でしか動かせない。宝石のように一目見て心を動かされることもあるなら、優しさ、思い遣りに心を動かされることもあるわ。なにかひとつでも、心を動かす美しさがあるなら、そのものに心が有る証拠。反対に、だれの心も動かせない、なにも美しさを持たない人を心無い人というのよ」
女性は真剣な声をふいに笑うように変えました。
「心の有無なんて、どうしたところでわからないんだから。でも、だからこそ、心を持たないものに心を動かされるなんて悔しいでしょう。わたしは、わたしの心を動かすほど美しいものには心が有ると信じているの」
雑談は終わりというように「はい、できた」とわたしの肩を叩いて正面へまわりました。出来栄えを確かめたあと、満足そうに女性はひとつ頷きます。
「ありがとうございました」
質問に答えてくれたこと、着つけてくれたこと。淡々と礼を述べると、女性は薄く眉間にしわを寄せて「うーん、そうねえ。どう振舞えばよいのかわからないうちは、相手に合わせればよいと思うわ」と助言してくれました。ウインクしてから、手本を見せるように楽しそうに笑います。
「ありがとうございました」
衣服で着飾るのは女性の楽しみのひとつ。生き生きと嬉しそうに笑いながら、弾むような声で感謝を述べました。よくできました、というように女性は頷いたあと、大きな瞳で真直ぐにわたしを見つめていました。
女性の鳶色の瞳が、まるで鏡のようにわたしを映しています。
わたしの漆黒の髪は、染めたシルクのように艶やかで、腰のあたりまでありました。肌は透き通るように白い。二重の瞼は目尻にかけて僅かに上がり、瞳はルビーよりも深い紅をしていました。
「美しいわ、メアリッサ、溜息が零れるほどに。あなたには心が有ると、一目見て心動かされたわたし、ビオラ・ツェン・ノヴァが保証するわ」
「ビオラ、様」
わたしが呼ぶと、女性――ビオラ様は大きく頷きました。
「ええ、花壇の女王、ビオラの花のように多くの人から愛されるように、と。残念ながら、わたしには花を愛でる趣味もなければ、弦楽器も弾けないのだけれど」
ビオラ様は「話が逸れたわ」と、改めてこちらへ向き直りました。もしもわたしに心が有れば、心の中までも覗き込むような、深みを帯びた鳶色の瞳をしていました。
「でもね、わたしだけではないの。ククリもあなたに心が有ると信じているわ」
「ククリ様も?」
思わず訊き返していました。ビオラ様には申し訳ありませんが、美しいから心が有ると保証されるより信憑性がありました。ククリ様はわたしを作り出した絡繰技師だからです。
「ククリがどうしてそう思うのか、知りたいかい?」
ビオラ様は意地悪な表情をして尋ねてきたので「はい、知りたいです」とわたしも意地悪な表情をして答えると、くくく、と肩を揺らして笑われてしまいました。ひとしきりビオラ様は笑うと、目尻にういた涙を人差し指でかるく掬うように拭います。
「わたしに合わせてくれたのはわかるけれど、ふたりしてそんな顔をしていたらなんだか悪巧みしてるみたい。……ええ、メアリッサに問題を出すわ。その答えが、あなたの知りたいことよ」
途中から真剣な声に変化したので、わたしも真剣な声で「はい」と答えます。
「あなたの主人。ククリにとり、メアリッサ、あなたはどういう存在だとおもう?」
絡繰技師にとり、自らの手で作り出した絡繰人形の存在。すぐに思い当たり、淡々と答えました。
「作品です」
「いいえ、違うわ」
すぐさま否定されてしまいました。
わたしは他の答えを無表情で考えていましたけれど、しばらくして考えるような表情を作りました。便宜上、考えると書きましたが、一致するようなデータを検索していたというほうが正しいです。けれども表情を変えてみたところで、わからないものはわかりません。つまり該当データは見つかりませんでした。
「絡繰技師にとり、絡繰人形の存在。ククリ様にとり、わたしの存在。いくら考えてもわかりません。いいえ、作品という答えより、適したものを見つけられません」
作品と繰り返したのは、確信していたからでした。
どのような答えでも、作品より適した答えはないからです。
ビオラ様は「本当は、あなたに答えてほしいのだけれど」と前置きしたあと、優しい笑顔をうかべて答えてくださいました。とても温かくて、けれども命を持たない絡繰人形に相応しくない言葉でもありました。
単語の意味はわかりますが、ククリ様とわたしは決してそのような関係ではありません。
「ビオラ様の言葉を疑うつもりはありません。けれども、わたしの存在がそうであるとは思えません。ククリ様とわたしの関係は、製作者と作品です。ビオラ様の仰るような関係ではありません」
わたしの反論に、ビオラ様は目を閉じて首を左右へ振りました。
うすく目をひらいたビオラ様は、わたしを見て、悲しそうに微笑まれていました。
「ククリはわたしに、紹介したい人がいると。あなたに会うまえに、僕の家族を紹介すると、そう言ったの。あなたのことを家族と」
言葉のもつ温もりとおなじように、ビオラ様は温かな声で告げました。
もしかしたら、わたしは、その言葉のもつ本当の意味を理解していないだけかもしれません。
わたしの記憶装置とは別のところに。もしも有るのであれば心に、ビオラ様の言葉は深く刻まれたような気がしました。




