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キセキの恋人

 ――遥か遠くに暮らす別世界の人と交流を持つ。

 しかも、日常的に。

 インターネットが普及する以前は、奇跡のような話だっただろう。いつの間にか、僕らにとってそれは“当たり前のこと”になってしまったけれど、今でもふとした切っ掛けで奇跡的だと実感したりもするのじゃないだろうか?

 例えば、普通に生活していたら、一生会話を交わす事のないような有名人と意見し合ったり、何気なくついたコメントが地球の反対側に住む人だったり。

 そんな時に奇跡的だと実感した経験ってないだろうか?

 ……僕の場合は、ある素敵な女性との出会いがそれに当たる。

 

 生来、僕は人付き合いは苦手な性質だった。ただ、人間嫌いという訳じゃない。いやむしろ人間は好きなのかもしれない。

 「……なんでもっと仲良くできないのだろう?」

 いがみ合う人々を見ていると暗い気持ちになってしまう。……それが、僕が人付き合いが苦手な理由なのかもしれないから。

 

 薄い桃色の空、地平線の辺りはぼんやり水色になっている。柔らかな緑の丘、優しい土色の道がなだらかに続き、その向こうには羊にしてはちょっと丸すぎる動物がたくさん放牧されている。遠目には噴水があって、時折、水しぶきを上げ小さな虹が出ている。魚が跳ねて、鳥が飛ぶ。どれも現実には存在し得ない形状の動物ばかり。明らかにファンシーなその空間に、子供向け番組に出て来るキャラクターのようなアバターが多数行き交っている。

 それはあるメタバースのハブエリアだった。本来はオンラインゲームの一部としてリリースされた空間なのだけど、皆との交流で使われる機会が多くなり、次第にそっちがメインとなっていった。だから様々な人が訪れる。ただ、ネットの世界にも地域性というものが現れるもので、そこには比較的行儀が良い、温厚な人々が集まって来る。荒らし行為をする人はもちろん、乱暴な言葉遣いをする人も滅多にいない。

 僕はそこで人を待っていた。

 「待ちましたか?」

 不意に声が聞こえた。

 “彼女”だ。

 ハンドルネームは“うどんこ”。

 けど、今日彼女が選んでいるアバターは、“うどんこ”という名前から想像するのとはかけ離れた造形をしていた。普通の女の子。夏と空と自然が似合いそう。褐色の肌に白いブラウス。声で彼女だと分かったけど、話しかけられなかったら分からなかっただろう。

 頭を掻きながら僕は返した。

 「いいえ、さっき来たばかりです」

 本当は仕事から帰って直ぐにログインして、夕食を食べつつ待っていたから、15分くらいは経っている。いや、それくらいなら“さっき”の範疇には入っていると思うけど。

 僕の選んだアバターは、過剰に着ぶくれていて手足も太い造形をしているから、その動作は違和感があるはずだ。滑稽に見えていたかもしれない。

 「すいません。この場所を見つけるのに時間がかかってしまって」

 僕の嘘を見破ったのか、彼女は軽く謝って来た。

 「ああ、人の多い場所を避けようとしたのが裏目に出てしまいましたかね?」

 誘った時、彼女はこのバーチャルサービスを利用していなくて、アバターもまだ決まっていなかった。それで人が多いと誰だか分からないかと思って気を利かせたつもりだったのだ。噴水の辺りの方が良かったかもしれない。

 「いいえ、私の準備不足です。簡単に分かるかなぁ?と思ってなめていました」

 「いえ、僕が前もって言っておけば良かったんです」

 「そんな……」

 しばらく互いに謝り合って、ふとしたタイミングで二人とも黙った。一呼吸の間の後、

 「アハハハハ」

 と、僕らは笑い合った。一息つくと、僕は口を開いた。

 「早めに待ち合わせましたから、時間はまだ充分に余裕があります。いずれにしろ問題はありません。行きましょう」

 歩き始める。

 実はこのメタバースでは、これから“星降る夜”という映像イベントが始まるのだ。これから夜になると流星群が降り注ぐ光景が観られるのだとか。前評判を聞く限りでは、とても綺麗で見応えがあるらしい。

 「ポロ―さんのアバターは、随分と本人から受ける印象と違うのですね」

 歩きながらうどんこさんがそう話しかけて来た(“ポロ―”というのは、僕のハンドルネームだ)。

 一応、どんなアバターなのか前もって画像を送ってあったのだけど、大きさは把握し辛い。それで彼女は実際に見て意外に思っているのかもしれない。

 「アバターだからこそ、いつもの自分とは違う何かになってみたい…… そういうのってありませんか?」

 それに彼女は数度頷いた。

 「ああ、それはとてもよく分かります」

 そう言った彼女の声は、何故か少し照れているように思えた。

 やがて“星降る夜”が良く見えるスポットにまで辿り着いた。しばらく待っていると、空が急速に暗くなっていき、いきなりそのイベントは始まった。心構えの隙を敢えてつくらない演出だったのだろう。目まぐるしく変わる空模様に気持ちが追い付かず、それが却って新鮮な驚きを僕に与えてくれていた。

 空の一点を中心に、何千…… ひょっとしたら何万単位の星が夜空を流れる。軽い恐怖を覚えたけど、それは最初の方だけで、後はそのダイナミックな光景に僕の心は溶かされていった。

 星々の色は控え目、そのお陰で下品な感じはしなかった。仄かな赤、青、黄、緑。降り注ぐ、降り注ぐ。音は何もしなかった。近くを流れる小川のせせらぎがよく聞こえた。見物客の歓声や感嘆する声。

 「凄いですね」

 僕が呟くと「ええ」と彼女は返した。彼女は流星群を見上げていた。動かない。アバターだから、微細な表情までは分からなかったけれど、見惚れているようだった。

 

 「楽しかったですか?」

 “星降る夜”のイベントが終わった。辺りはまだ暗かったけれど、いつの間にか月が出ていてうどんこさんの姿がよく見えた。

 「はい」と彼女はやや興奮した声で応える。

 「思った以上に綺麗で素晴らしかったです。誘ってくれてありがとうございます。見られて良かった」

 微笑んでいる。

 「それは良かった」と僕も笑顔で返す。キーボード操作で笑顔ボタンを押さないとダメだから、ちょっと忙しい。

 その後で彼女はちょっとはにかむような仕草を見せた。どうしたのかと思っていると口を開く。

 「それで、その……。そろそろ良いかと思いまして」

 そろそろ?

 何の話だろう?

 僕が首を傾げると彼女は続けた。

 「私の本名と写真…… 以前にできれば知りたいとおっしゃっていましたよね?」

 僕はそれを聞いて目を丸くした。

 アイテムボックスが僕の前に差し出される。僕は慌ててそれを受け取った。知り合って少し経った頃、僕は彼女に勇気を出してお願いしてみたのだ。本名と本当の姿が知りたいって。残念ながら、断られてしまったけど。ネット上……、に限らず見知らぬ人に個人情報を渡すのは慎重であるべきで、断られても仕方がない。そう思って僕は諦めていた。今の今まで忘れていたくらいだ。だからこそ、僕はその突然のプレゼントに有頂天になってしまっていた。

 我を忘れて、その場でアイテムボックスを開いてしまう。そこには簡素に書かれた彼女の名前と画像の添付ファイルが付いてあった。

 彼女の本名は篠崎紗美しのさきさみというらしい。そして画像の中の彼女は、いかにも大人しそうな線の細い色白の美人だった。

 「あっ すいません。思わず」

 本人の前で確認も取らずにプレゼントを開けてしまった失礼に気付き、僕は慌てて謝罪をした。それからお返しとばかりに本名と自分の画像をアイテムボックスに詰めて彼女に渡した。自分の画像は入社の時に撮影したスーツ姿のものしか見つからなくて、なんだか出来の悪いお見合い写真のようだった。

 「写真…… そんなのしかないですけど、普段はもうちょっとくらいはちゃんとしていると思います」

 篠崎さんは、それを聞いてくすりと笑った。

 「稲塚薫さんというのですね」

 「はい。すいません」となんでか僕は謝ってしまった。

 「いえ、今のアバターよりも想像通りで何だか安心をしました」

 僕は背は普通くらいだけど、やや痩せているのだ。僕はそんな彼女の姿を眺め、「篠崎さんの写真もアバターよりも印象通りです」と返した。

 「ありがとうございます」と彼女は返す。

 「でも、その写真はもう随分と前のものなのですけどね」

 随分と?

 それにちょっと僕は不安を覚えた。いや、まさか、お婆ちゃんという事はないだろう。せいぜい5年くらい前だろう。“随分と”って言っても。

 一抹の不安を覚えつつも、僕はほとんど気にしていなかった。それくらい彼女が本名と本当の姿を教えてくれた事が嬉しかったのだ。一歩…… いや、十歩くらいは彼女に近付けた気になっていた。

 「また、近い内に」

 「それでは」

 と、僕らは言い合ってそこでメタバースでのデートはお終いだった。

 

 「絶対に、怪しいぞ」

 

 職場の昼休み、あまりに嬉しくて、同僚の火田に篠崎さんの話をすると彼はいきなりそう言った。

 たまごサンドを頬張りながら僕は返す。

 「いや、大丈夫だって、それに多少歳を取っていても僕は気にしない」

 「そっちじゃねーよ」

 火田は呆れた様子だった。

 「ネットで知り合ったんだろう? そもそもそんな女、存在すらしていないかもしれないじゃないか」

 つまり、彼女の話は嘘で詐欺だと言っているんだ。

 「いや、会ってはいないけど、何度も会話しているだぞ? 音声付きで」

 「声なんて、今の時代、いくらでも合成できるだろうがよ。画像だってそうだ。何の証拠にもならない」

 僕は咄嗟に何も思い付かなくて、しばらく黙ってしまった。その間で火田は魚の干物弁当のご飯を頬張り、薄茶色のスープでそれを流し込んだ。美味かったらしく、目を細めて感じ入っている。それを見ながら、僕は口を開く。

 「いや、何度もデートしているけど、まだ一度もお金を要求された事はない。仮に詐欺だったら時間と手間をかけすぎだ」

 言い返すのにはちょっと遅いタイミングだと自分でも思っていたけれど、どうしても我慢できなかったんだ。

 「新手の詐欺かもしれないだろう? 全てAIで自動化していて、コストはあまりかかっていないのかもしれないぞ?」

 「彼女がAI? 信じられないね。お前は彼女と会った事がないからそう言えるだけだ」

 「お前だって会ってないんだろう?」

 「そういう意味じゃない!」

 多分、僕は顔を真っ赤にしていたのだろう。落ち着けと言わんばかりに火田は言った。

 「悪かったよ。言い過ぎた。でも、警戒しておくのに越したことはないだろう? それに人間ってのは、案外簡単に感情が動いちまうものらしいぞ? ランダムに返答するだけのシンプルなプログラムに対しても、確り感情を動かすらしいからな。

 多分、勝手に想像して相手のイメージを創り上げて、勝手にリアリティを感じちまう生き物なんだよ、人間ってのは」

 「そうかもしれないけど、それでもちょっと考え難いよ。そもそも僕らはそういうので知り合った訳じゃないんだぞ?」

 

 彼女、篠崎紗美さんと僕が知り合ったのは、とあるショート動画が切っ掛けだった。SNSに僕が投稿した可愛い仔犬の動画に対して彼女がコメントをしてくれたのだ。彼女がとてもそれを気に入ってくれたようだったので、僕は彼女宛に僕が今までに見つけた“可愛い動物の動画”リストを送ってみた。ほんの軽い気持ちだったのだけど、彼女からお礼の返信があった。

 『とても楽しかったです。可愛かった。また、こーいう動画があったら教えてくださいね』

 そこにはそのように書かれてあって、僕は、まぁ、それを真に受けた訳だ。と言っても、その頃にはまだそれほど深い関係になるつもりはなかった。ネット上には性別を偽っている人も多いし、いくら僕でもこれだけで好意を抱くほど浅慮じゃない。

 けど、しばらくやり取りをし続ける内、僕は徐々に彼女に惹かれていった。彼女は可愛いものが好きで、性格は大人しくて礼儀正しい。魅力的に映っても仕方ない。だからバーチャルデート…… と言ってもオンラインで話しながら、同じ動画を観て、互いに感想を言い合うとかそんな感じのやつだけど…… を繰り返して、次第に親密になっていったんだ。

 普通に考えて、詐欺の手口とはほど遠いと思う。

 

 「誰かをターゲットにするのじゃなくて、AIに大量に男と会話をさせて、誰かが引っかかるのを待っているのかもよ?」

 火田は僕の話を聞いてもまだ疑わしそうにしていた。

 「そんな話があるのか?」

 「ないよ。少なくとも俺は聞いた事がない。でも、今の時代なら有り得るだろうが。AIが普通の人間と区別付かなくなりつつあるんだから。AIが詐欺に利用されているって話は聞いた事がある」

 僕は黙った。確かにAI技術の進歩は凄まじい。反論はできなかったんだ。ただ別に彼女を疑っている訳じゃない。そして僕は彼に怒りの目を向けていた。彼は肩を竦めた。

 「そんな目で見るなよ。恋は盲目って言うだろう? 正常な判断能力がなくなっちまうんだよ。さっきも言ったがな、一応は警戒をしておいた方が良いって話だよ」

 僕は渋々ながら、「分かった。金銭に関わるような話になったら警戒する」とだけ返し、かなり嫌だったけど、「ありがとうな」と一応はお礼を言った。僕を心配してくれているのは本当のようだったから。

 彼は手を上げて“気にするな”のジェスチャーをした。

 

 それからも篠崎さんとの交友…… “お付き合い”に近い何かは続いた。面白そうな動画や漫画を一緒に観て、楽しそうな映像イベントが何処かのメタバースであればデートをした。金銭的な話には一切ならなかった。やっぱり僕を騙しているようには思えなかった。

 ――ただ、彼女が本名と画像を教えてくれた以外は、何一つ進展はなかった。そろそろ、実際に会ってみたいと僕は思っていたのだけど。

 一度、思い切って彼女の画像で、“画像検索”をかけてみた。すると彼女とそっくりの女性の画像がヒットした。がしかし、篠崎さんとは微妙に違って勝気な顔をしていて、ヒットした記事のコメントを読む限りでは、性格も違っているようだった。あまりにそっくりだったから、詳しく調べてみると彼女は篠崎愛という名であると分かった。苗字が同じ。ひょっとしたら妹かもしれない。紗美さんに訊いてみたかったけど、調べている事が知られたら嫌われるかもと不安になってできなかった。

 

 「あの…… どうしても、実際に会うわけにはいかないのでしょうか?」

 

 ある日のデートの後、僕は彼女にそう尋ねた。彼女が応える前に言葉を続ける。

 「一緒に遊ぶようになって、もう随分と経つと思うんです。その……、失礼かとも思っているのですが。僕も、その、それなりの歳ですし。あなたも僕の気持ちは分かっているのでしょう?」

 それはアバターの造形がかなりリアルにできるメタバースで、彼女がそれを受けてどのような気持ちになっているのかが微妙な表情の変化から感じ取れた。

 高価なVRゴーグルには、顔の表情筋とアバターを連携させられる機能があり、そのメタバースはそれに対応してあったのだ。

 彼女のアバターは、活発そうな褐色の肌の女性のものだった。南国が似合いそうな。彼女の性格とも、彼女から渡された画像とも合ってはいなかったけれど美しかった。

 「すいません。やっぱり、会えません」

 心底申し訳なさそうにしている表情で彼女はそう答えた。思わず僕は泣きそうになってしまう。

 「そうですか……」

 こうまで言って、まだ会ってくれないなんて。火田の言った通り、詐欺なのかもしれない。僕は騙されていたのかもしれない。否、仮にそうでなくても、彼女にはその気はなかったのだろう。

 大人げなく、僕はほぼ反射的にそのメタバースをログアウトしようとした。

 ――しかしその瞬間だった。

 彼女は僕が逃げ出そうとしているのを察したのだろう。

 「待ってください」

 僕の腕を掴んでいた。

 「実際に会う事はできません。でも、実際に会うのじゃないと言うのなら……」

 そう言った彼女の顔は、朱色に染まっていた。

 

 メタバースにもラブホテルがある。

 どんな姿にもなれるバーチャル空間だけど、そこでは一応は実際の自分の姿に近いアバターを選ぶのが礼儀だ。

 彼女がそこで選んだのは、普段彼女がよく選ぶ褐色の肌のアバターではなく、色白で読書がよく似合いそうな大人しい外見の女性だった。痩せている。

 普段の彼女のアバターよりも、魅力的に僕には見えた。

 「あの…… こんな事しかできませんけど」

 彼女の顔はほんのり紅潮していた。それは僕もきっと同じだったと思う。

 仄かな白い灯り。そのお陰で、メタバースの世界でもかなりリアルに見えた。部屋も、彼女も。想像力が補ってくれている。

 ラブホテルと言っても、下品な感じはしなかった。白を基調とした穏やかな感じ。

 僕は彼女の白い肌をなぞった。控えめに。もちろん彼女は拒絶したりしない。多少は緊張しているようだったけれど、僕の愛撫を受け入れてくれていた。

 彼女の方からも僕に触れる。

 もちろん、感触はない。けれど、僕には充分だった。

 互いの愛撫が終わり、見つめ合ってキスをした。そして、服を脱ぐ……

 愛の営み。

 人と人との関係、肉体ではなく、精神こそが重要なのだとすれば、それは間違いなく“交わり”と表現するに値する行為だった。幸福感。

 

 行為が終わった後、僕は信じられないほどの深い満足感を味わっていた。実際に触れ合わないことが一体何だというのだろう?

 ――それに、実際に触れ合わなくたって、子供は生む事ができるんだ。

 

 「精子バンクに登録をしてください。精子バンク経由で、あなたの精子を受け取ります」

 

 ラブホテルに入る前、彼女は僕にそう提案していた。僕の精子で妊娠するという意味だろう。つまり、彼女とのそれは本当の意味での“遠隔セックス”だったのだ。

 その行為のお陰で彼女との仲はより深いものになった。そして愛の営みも何度となく行った。もう自信を持って言えた。彼女と僕は恋人同士だ。相変わらず、一度も会えてはいなかったけど。

 そしてそのまま一年が経過した。

 

 「子供が生まれました」

 

 ある日、仕事が終わって家に着き、早速立ち上げたパソコンで入ったオンラインチャットで、篠崎さんから僕はそう告げられた。

 赤ちゃんの画像と共に。

 僕はもちろん驚いた。ネットで付き合っているのだから当たり前なのかもしれないけど、彼女が身重になっている事にまったく気が付いていなかった。そんな素振りはまったくなかったんだ。

 「抱っこしたいんですけど!」

 その報告を受けた時、ほぼ反射的に僕はそう返していた。画像の子供は可愛かった。僕にはその権利、否、義務すらあるはずだ。他にも色々と手続きだってしなくちゃならない。両親に挨拶をして、婚姻届を出して籍に入って……

 もう、流石に会わない訳にはいかないだろう。しかし彼女の反応はなんだかとっても呑気なのだった。落ち着いている。

 「それはもちろん。ただ、もう少し待って欲しいんです」

 それに反して、僕は興奮して慌てていた。これでもか、というくらいに。

 「いや、でも、君の出産にも立ち会えなかったのだし、できるだけ早く……。そうだ。どうして子供が生まれるって話してくれなかったのですか?」

 「それはすいません。私自身、気付けない状態だったものですから」

 “気付けない状態?”

 それは意識を失っていたという事だろうか? その間に出産した?

 「それは、君は大丈夫なのですか? 僕に何かできる事があれば……」

 産後の肥立ちが悪くなっているかもしれない。心配で僕は居ても立っても居られない状態になっていた。早く彼女の傍で、彼女を支えてあげたい。

 「私は大丈夫です。心配してくれてありがとう」

 しかし、やんわりと断られてしまった。

 「とにかく、三日後。都内の病院で赤ちゃんに会えるように手配します。私はやっぱり会えませんけど」

 そして、彼女はそう言ったのだった。

 

 三日後。約束通り、都内の病院で僕は僕の赤ちゃんに会う事ができた。赤ちゃんは抱き上げるとにっこりと笑った。どことなく、僕に似ているような気がする。口元辺りが特に。目元は篠崎さんだ。

 ま、写真でしか見た事はないのだけど。

 僕と赤ちゃんを引き合わせてくれたのは病院の医師達だった。ありがたい事に、僕が精子バンクに保存した精子の遺伝情報を元にして作成した証明書……、この赤ちゃんが間違いなく僕の赤ちゃんであるという証明書まで見せてくれた。

 分かっている。

 僕が不安になるだろうと考えて、予め篠崎さんが医師達に言づけてあったのだろう。証明書を僕に見せて欲しいと。

 自分の赤ちゃんを初めて抱いて、僕は何とも言えない感動を味わっていた。心の底から可愛いと思える。頬ずりして、抱きしめて、そこら中を転げ回りたい。そんな衝動に駆られた。何とか堪えたけれど。

 ただ、もしもその場に篠崎さんがいたら、その感動は何倍にもなっていただろうと思う(そうなったら堪え切れずに、転げ回っていたかもしれない)。

 前もって言われていた事ではあったけど、それでも、やっぱり、少々残念な気持ちに僕はなった。

 そして、自分の赤ちゃんを抱き上げ、その感動を味わった後だからこそ、僕は彼女と出会えない“違和感に近い欠落感”をより強く感じていたのだった。

 

 「――なんだ、その話は?」

 

 職場で、火田にその話をすると目を大きくして彼は驚いていた。

 「言っておくけど、詐欺じゃないぞ? 養育費も何も請求されていない。僕が払うと言ったのに断られたくらいなんだから。因みに結婚の話もはぐらかされてしまった。ただ、別れるつもりは一切なさそうだけど」

 「流石に詐欺だとは思わないよ。と言うか、まだ詐欺だって方が納得できる。相手の目的がはっきり分かるからな。でも、それじゃ、その女が何をしたいのかまるで分からないぞ。はっきり言って気持ち悪い」

 「そう言わないでくれ。きっと何か仕方ない事情があるんだよ」

 「でも、お前も変だと思っているのだろう?」

 僕はその指摘に何も返せなかった。

 「――で、その赤ん坊の世話は誰がしているんだよ? その篠崎さんとやらは、お前に会えないくらいの立場なんだから、赤ん坊の世話だってできないのだろう?」

 「看護師さんと家族がやっているそうだ。僕も協力すると言っておいたけど、頼ってくれるかどうかは分からない」

 火田を腕を組んだ。

 「その女はお前の子供を産んだ。医者の証明書を信じる限りそれは確かだ。そして、お前との付き合いは続けている。つまり、お前の事を好きだと考えてまず間違いない。結婚詐欺だとも思えない…… そして、そんな状況下にあっても、お前には何故か頑なに会おうとしない」

 その理由を説明できるような、何か整合性のある原因を彼は考えているようだ。もちろん、僕はそれを期待してこの話を彼にしたのだけど。

 僕をじっと見ると彼は続けた。

 「……ひょっとして、とんでもない不細工だから会いたくない、とかじゃないのか? 画像が嘘でよ」

 「赤ちゃんはちゃんと彼女に似ていたよ!」

 「そんなのお前の主観じゃないか。何の証拠にもならないよ」

 それから火田は再び腕を組んだ。

 「まぁ、容姿に自信がなくてお前を騙していたのだとしても、子供を産んだ時点でもう騙す必要なんかないよな…… よっぽど気が小さくなければ。いや、そんな性格だったらそもそも騙そうとなんかしないか。ま、人間の性格なんて分からないもんだが。途中で怖気づいたのかもしれない」

 それから少し停まると彼はこう続けた。

 「実は妖怪とか幽霊とかだったりしてな。昔話とかであるだろう? 幽霊が生者に懸想する話」

 「僕は真面目に相談しているんだぞ?」

 「分かっているよ。が、正直、まるで予想が付かないな。こうなったら探偵を雇ってみるしかないのじゃないか?」

 「探偵か……」

 それを聞いて僕は嘆息した。何となくの気分の問題だけど、探偵を雇うのは篠崎さんに対する裏切りのような気がしたのだ。

 「気乗りしないのは分かるけどな」

 僕は腕を組むと考えた。

 

 ……探偵を雇うくらいだったらいっそのこと

 

 篠崎愛さんに連絡を取った。

 以前、篠崎紗美さんの画像で検索して見つけた、彼女の妹と思しき女性だ。

 彼女が本名で登録するSNSを利用しているお陰で連絡は容易だった。メッセージを送ってしばらくは返答がなかったけど、勘違いだったのかもしれないと思いかけたところで返信があった。

 『どうしようかと悩みました』

 と、返信のメッセージの冒頭には書かれてあった。

 『姉はあなたに事情を説明するのを怖がっていますし、両親も姉の意向を尊重したいと思っているでしょうし。

 ただ、いつまでも隠し通す訳にはいかないでしょう。あなたにだってあなたの人生があります。その上で姉を選ぶのでなければ、公平とは言えません。

 私の独断ですが、事情を説明します』

 そして、その後に待ち合わせの場所と時間が指定されあった。

 

 仕事が終わり、待ち合わせしている喫茶店に着くと、彼女は既にそこで待っていた。篠崎愛さん。大学生だそうだ。メッセージのやり取りでは大人っぽく思えたのだけど、実際に会ってみるとそんな事はなく、態度や立ち振る舞いからは、まだモラトリアムにあるとありありと感じ取れた。

 彼女は僕を見ると軽くお辞儀をして、挨拶をして来た。

 「初めまして。篠崎愛です。オンラインチャットで説明しても良かったのですけど、この上、まだオンラインだけだとあなたが何を信用して良いか分からなくなると思いまして」

 篠崎紗美さんにとてもよく似ている。ネットで見た画像の通りだ。でも、やっぱり性格は違っているように思える。初めて会う僕にも物怖じしていない。紗美さんなら、きっと緊張しているだろう。軽く挨拶をしてから、僕は口を開いた。

 「少し安心しました。あなたが妹なら、篠崎さん……、紗美さんはあの画像の通りの外見をしているのですね。いえ、外見で彼女を好きになった訳じゃありませんが」

 「ふーん」と、それを聞いてなのか、或いは僕を観察してなのか彼女は言った。

 「いかにもお姉ちゃんが好きになりそうなタイプです、あなた。分かるなぁ」

 会ってまだほとんど会話をしていないのに、もうかなりフランクになっている。ちょっと戸惑いながら僕は口を開いた。

 「どうして紗美さんは、僕と会ってくれないのです? まさか病気とか?」

 さんざん考えたけど、それくらいしか思い付けなかった。仮にそうだとすると、病気の身で彼女は出産した事になる。

 「ハズレです。でも、四分の一くらいは正解かも」

 四分の一?

 どういう事だろう?

 「会いたくても会えないんですよ、お姉ちゃんは。いいえ、違いますね。あなたは既にお姉ちゃんに会っているんですよ」

 「は? いや、でも、僕はオンラインでしか彼女には会った事がなくて……」

 「そう。だから、それがお姉ちゃんなんです」

 僕は混乱していた。何を彼女が言っているのかが分からない。そして、それから彼女は信じられない発言をしたのだった。

 「既に死んでいるんです。姉は」

 

 ――は?

 

 それを聞いて僕は固まってしまった。

 「そんな馬鹿な! 僕は昨晩だって彼女と話しているんですよ?」

 「そうですね。でも、それは過去のお姉ちゃんの記録みたいなものなんです。あなたは生前のお姉ちゃんと話していた」

 僕は大きく頭を振った。

 「いや、意味が分かりません。抽象的過ぎます。何を言いたいのですか?」

 軽く彼女は溜息を洩らした。

 「はっきり言ってしまうと、あなたが知り合ったお姉ちゃんは、AIなんですよ」

 それから彼女は僕に事情を説明し始めた。

 

 ――僕の恋人、篠崎紗美さんは、子供の頃から病弱であったらしい。学校も休みがちで外で遊ぶことなどできず、そして高校に上がって間もない頃に重い病気に罹った。それからは、ずっと入院していたらしい。

 妹さんの語るところによれば、彼女の両親はそんな紗美さんを随分と甘やかしていたのだそうだ。そう語った時の彼女からは多少なりとも嫉妬のようなものを感じたけど、とにかく、それから紗美さんがもう長くないと医師から告げられた両親は、彼女の願いを叶える為に脳直結インターフェース…… つまり、彼女の脳とインターネットを直接繋げる実験に協力する事を決めたのだそうだ。

 「脳とインターネットを直接繋げれば、まるで実際にその空間にいるみたいにバーチャル空間を体験できますよね? いえ、本当にそうかどうかは分かりませんが、両親もお姉ちゃんもそう考えたんです」

 それにより、彼女は頭の中で考えるだけで自由にインターネットの世界を遊びまわれるようになった…… らしい。

 その体験により、何か心理的に良い影響があったのかどうかは分からない。が、紗美さんは予想していたよりは随分と長生きしたのだそうだ。ただ、それでも25歳の誕生日を迎える前には死んでしまった。

 がしかし、そこで予想外の事態が起きた。

 「AIがお姉ちゃんの思考パターンを覚えちゃったのですよね」

 AIに篠崎紗美さんの思考を記録させる事は、元より実験の一環だったらしい。そもそもAIのサポートがなければ、脳直結インターフェースを巧く使いこなせないという事情もあったようなのだが、とにかく、AIのデータベースには彼女の記録が蓄積されていた。しかも、膨大に。

 そして、AIはまるで生前の紗美さんのような言動をし始めたのだ。両親にとってみれば娘が蘇ったようなものだろう。生前と同じ様にAIの彼女に愛情を注ぎ、彼女の要望を何でも聞いてあげたのそうだ。そして、篠崎紗美さんには、ある夢があったのだった。

 “普通の女の子みたいに恋をして、結婚をして、子供を産んでみたい……”

 そして、彼女は僕を見つけた。

 

 「ちょっと待ってください」

 説明を聞き終えて、僕は思わず声を上げていた。

 「彼女は子供を産んでいるのですよ? AIには子供を産む事はできないでしょう?」

 しかしそれにも愛さんはあっさりと返す。

 「ええ、そうですね。AIには子供は産めない。でも、お姉ちゃんはね、卵子を残していたのですよ」

 「卵子?」

 「卵子凍結。あなただって精子バンクに自分の精子を登録したじゃないですか。それと同じ」

 「ちょっと待って。なら、あの赤ちゃんは……」

 「そう。お姉ちゃんのお腹から生まれた子供じゃない。体外受精。いわゆる、試験管ベビーってやつです」

 「いや、そんな話、まったく聞いた事が……」

 「日本じゃ無理でした。だから、海外でそういうサービスを探したみたいです。両親は」

 それを聞いて僕は察した。紗美さんは“赤ちゃんが生まれた事に気付けない状態”だと言っていた。セキュリティの高いサービスを利用していたから、情報を入手できなかったのだろう。

 「出産が上手くいくかどうかは分からなかったみたいだけど、あなたも知っている通り成功しました。もちろん、それは喜ばしい話なのだけど、同時に問題も山積みです。お姉ちゃんはもう死んでいる。一体、子供をどんな扱いにすれば良いのか。あなたの事もそうです。もう死んでいるのだから、結婚もできません。法律上の問題だけじゃないですよね? お姉ちゃんとは逆立ちをしたって普通の夫婦生活は送れないんです。

 さて、あなたはどうします? これからもお姉ちゃんの恋人でい続けられますか?」

 僕はその信じられない話にまだ気持ちが追い付いていなかった。

 ただ、それでも、結論だけは決まっていた。

 「そんなの当然です。僕は……」

 

 仕事を終えて家に返る。

 「ただいま」という僕の声に「お帰りなさい」と、紗美さんの声が響く。彼女の身体はまだない。けど、腕だけは既にできあがっている。

 ロボットアーム。

 僕はリビングに置いてあるその腕に触れると言った。

 「まだこれだけだけど、いずれお金が貯まったら、もっとちゃんとした身体を買います。そうしたら、一緒にデートに行きましょう。君が夢見た外の世界に」

 

 彼女がAIでも構わない。生前の記録でも構わない。僕にとって彼女の存在は間違いなく奇跡そのものなのだから。

 彼女の腕はまるで感謝を示すかのように、僕の手を少し強めに握っていた。

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