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りんご飴

作者: 水色ペンキ

 深夜思い立って家を出た。向島の路地は両側から暗闇が覆い被さるような狭さである。水戸街道へ出てほっと息をつく。新年を迎えた冬の空気は、昼間の喧噪をアスファルトの上にそっと沈殿させていた。何年ぶりかに開いた土蔵のような静けさだ。固い地面に靴底が触れるたび、小さな足音が静謐を乱した。

 道沿いの信号が一斉に変わる。と、途端に光の一団が立ち現れて、片側二車線の国道に溢れかえった。深夜1時。こんな日のこんな時間でさえも、決して眠らぬ東京の道路。生きる人間の浅ましさである。

 言問橋東の交差点を隅田川に向かって折れる。角の派出所で警官が何か言い合いをしている。ステンレスの外板を輝かせた巨大なトレーラーが一台、どろどろとエンジンを轟かせて道を曲がっていった。

 堤防の手前、隅田公園の林は暗がりに沈んでいた。隅田川を渡る橋の上に出ると、赤いテールランプがいくつも自分を追い越していった。風のない夜の川面は黒く平らかで、対岸の街灯の列を、ほぼそのままの姿で水面に映し込んでいる。橋上にはぽつりぽつりと人影が動いていた。初詣に行くのだろう。

 橋の西詰めで人の列を離れる。自分は雷門へ向かうわけではないのだ。新年めでたしと神仏を訪なうのは、ひねくれた自分の趣味ではない。今夜はそう、喧噪を呼吸しに行くのである。ただ人波を泳いでハレの空気を肺に吸い込む。それだけでいい。

 浅草寺病院の手前で横道にはいると、暗がりの向こうに明かりが開けた。露店を照らす白熱灯の光に、参拝を終えた群衆の姿が膨らんだように浮かび上がっている。近づくと明かりの手前、暗い路地の両脇に座り込む無数の人影に気がついた。祭りの毒にあてられたものか。しかしどうでもよい。

 群衆の中に泳ぎ入る。そこは順路の末端で、賽銭を投げ終わった客を遊ばせる、蛸足のように伸びた露店街の一角であった。売っている売っている。焼きそばにビール、チョコバナナにクレープ。屋台の上に砂を盛って串を立て、鮎の塩焼きを作っている青年がいる。子供の頭ほどもあるサザエの壺焼き四千五百円也。羽子板、舞玉、招き猫。なぜここでこんなものをという不思議な店もある。宝飾品。おもちゃ。等々。

 入ってすぐの店で甘酒を求める。二百円で喉を温め、奥へ向かって歩き出した。やがて本堂の脇あたり、今しがた参拝を終えたばかりの群衆を吐き出す出口が見えてくる。普段はない位置に鉄板の壁が設えてあって、そこに穿った穴から続々と人間が出てくるのだ。なにかこんな話を思い出す。ある人が言った。人間とは結局、女の穴より出でて土の穴へと消えてゆくものだと。それを聞いて別の人が言う。いいや違う。人間は産科から出でて焼き場へと消えていくものであると。この鉄の壁は仏のものか人のものか。

 おみくじの列は端がわからぬほど長かった。破魔矢は隣の三社のほうか、結局売り場を見かけなかった。群衆の大半は若者である。結構な数の外国人もいる。一周して満足し、帰りしなにふと見かけた達磨売りに声を掛ける。赤い玉に筆で彩色して、胡桃大のものから一抱えもあるものまで白布の上に並べていた。

 一番小さいのは五百円だよ、達磨売りが言う。次に大きいのが八百円、その上が千五百円、さらに大きいのが二千円だそうだ。その上にも三種くらいあったが、もとより自分のような男には売れやしないと踏んでいるのか、そこまでしか説明がなかった。これは木でできているのかと尋ねると、ひと玉手に取らせてくれた。軽い。なるほど成形した樹脂などではなさそうだ。新年の飾りにと二番目に小さいのを買い、コートのポケットに滑り込ませた。賽銭は投げないのにこんなものを買うというのは、いかにも舐めた不信心だ。

 人混みを抜けて露店の端までやってくると、りんご飴の暖簾が目に入った。大と小、二種類の赤玉に箸を刺して、砂糖をからめた頭の重い飴だ。ふと、ひとつ買ってみようと思った。実はこれ、私にとって、見たことはあっても食べたことのないものの一つだった。あの赤玉は本当に林檎なのか。縁日の売り物には、子供時代に置き忘れた謎がいくつもあった。

 大玉三百円。飴にはセロファンの袋が被せられ、これまた懐かしい緑色のモールで首のところを縛ってあった。思ったよりも重い。子細に調べるのはあとのこととし、そのまま暗闇を抜けて裏手の言問通りへと出る。ふっと息をついた。白い。

 帰り道、隅田川を渡りながら手に持った大きな飴を思う。人が見たらなんと思うか。まさか私が食べるとは思うまい。子供への土産か。ありそうなことだ。

 想像が膨らむ。ある男がいる。男には妻子があるが、家庭を顧みず、晦日の夜にも浅草界隈で遊び呆けている。男は除夜の鐘を聞くと贔屓の娘に頼み込み、初詣に連れ出すことに成功する。だが群衆で娘とはぐれる。携帯の普及した今ではありえない話だが。

 見上げれば奇しくも満月。そう、今夜は満月だ。男はふと我に返り、脇の露店でりんご飴を買う。それを手に帰路につく。正月の朝くらい家族と過ごしてもよさそうなものだ。しかし隅田川を渡る橋の上で、男は衝動的に黒い水へと飴を投げ捨てる……。

 こんな話を書く奴は、クズだ。

 墨堤通りの首都高の下で、オレンジの街灯に飴をかざしてみた。真っ赤な玉はてらてらと光って、飴の下の実質を巧みに覆い隠していた。手の中で飴を回してみた。と、丸い表面の一ヶ所に、小豆くらいの泡があるのに気がついた。丸く膨れて固まった、小さく透明な半球だ。しげしげとそこを眺める。

 それは虫食いの跡に空気が入って、熱い飴を内側から膨らませた痕跡だった。りんご飴の中身は、本当に林檎だったのである。

今年もよろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
[一言] 不思議な話でしたが、共感を抱いてしまいました。 私も歳を取りましたので、若い頃に抱えていた『こだわり』のほとんどを捨てつつあるのですが、その数少なくなった今でも残っている『こだわり』の中に「…
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