呉より、使者来たる
夏侯覇が率いる本隊が、蜀軍と接する前線に到着して、二十日余りが過ぎた。
しかし、未だに本国からの攻撃指令は無かった。
魏の都である長安では、司馬懿と司馬昭が、前線の状況について話し合っていた。
「どうだ?夏侯覇の様子は...? そろそろ痺れを切らしておる頃ではないか?」
司馬懿の問いに、司馬昭は含み笑いを返した。
「そうですな。夏侯覇の軍に帯同させた司馬炎からの報告では、我々に対する不満を、あからさまに周囲にぶつけてるそうです。」
「癇癪が弾けるのも間近のようだな。蜀の方も、糧食が心細いので焦りもあるであろう。近々蜀側から動きがあるやもしれぬ。その時は、夏侯覇には軍を下げろと伝えよ。此方側に蜀軍を引き込むのだ。糧食の心細い蜀は、前線を上げても何日も此方に留まる事は出来ぬ。そこで夏侯覇が、命令に背いて何かしでかせば、それはそれで思う壺だ。」
その言葉に頷いた司馬昭が、やや居住まいを正した。
「ところで、呉で気になる動きがあります。」
「何だ? 我国との国境に軍でも派遣して来たか? 呉蜀は、表向きは同盟を結んでおるからな。動きがあっても不思議ではない。」
「いえ..。呉からの国境へ進軍は今のところは有りませんが、皇族の一人である孫皓が、蜀に向かったそうです。形だけの使者ではなく、わざわざ皇族の孫皓を派遣した所に、引っかかりを感じます。」
司馬懿は、何かを思い出そうとするように、視線を泳がせた。
「孫皓….? あぁ、今の呉の皇族の中では、珍しく肝の据わった男だったな。」
「そうです。今の呉は、皇族同士の権力争いで弱体化しつつあります。今の帝も、宰相も、孫氏一族ですが、器は大した事はありませぬ。しかし孫皓は別です。豪放磊落な性格で、周囲の期待も高いと聞いております。父が廃嫡された太子なので、それが皇位への障害になってはおりますが...」
司馬昭の説明に、司馬懿は今度は大きく頷いた。
「うむ...。お前の言う通り、此れは何かありそうだ。お前の見立ては?」
「先ず一つは、今の呉の皇族同士の紛争の渦中から、孫皓を切り離す事。魏蜀が戦端を開けば、呉にも動揺が走ります。孫皓は呉の中では主戦派ですから、静観を決め込みたい宰相の孫淋にとっては面倒な男です。そうなると孫皓の周辺には、危険が渦巻きます。先ずその危険を避ける為の側近の画策と考える事ができます。もう一つは、孫皓の派遣によって、呉蜀の同盟の在り方を変えようとしているのではありますまいか?」
「大いにあり得る話だな。今の呉の力では、我が国と正面から戦うのは避けたい筈。しかし座して蜀が滅びれば、我々が次に呉を目指す事もよく分かっておろう。それ故の動きである事は間違いない。」
「孫皓は、今は海軍の大提督の地位にあります。混乱の最中とはいえ、呉の水軍の力は侮れませぬ。あの赤壁の戦い以降、魏は呉との水軍決戦は回避して来ました。無理に呉水軍とぶつからずとも、呉の弱体化は可能でしたから…。しかし此度は、水軍を使って蜀と何らかの取引を画策するやもしれませぬな。」
それを聞いた司馬懿は、直ぐに意を決したように親指を立てた。
「上手くその事が運べば、呉内部での孫皓の評判は大きく上がるであろうな。蜀で人質になる危険を侵してでも、賭けるだけの価値はあるという事だな。よし、我国と呉との国境に軍を差し向けて、牽制にかかれ。妙な真似をすれば、ただでは済まさぬという意思表示をするのだ。」
司馬懿の指示に対して、司馬昭は渋い表情を作った。
「魏軍の主力は、現在は蜀に派遣しております。この段階で呉にも派兵となれば、戦線を二つ作る事になってしまいますが...」
「呉の国境に派遣する軍は、あくまでも牽制だけだ。相手から仕掛けて来る事は、間違ってもあり得ぬ。しかし威嚇には数は必要だな。調練中の新兵達を、遠征させて形を整えよ。呉の水軍の動きにも注意を配っておけ。何かあれば長江を遡るだろう。」
「承知しました。しかし呉が直ぐに水軍を動かせるかどうか...。雪解け時期になれば、流れが急になり、遡上は難作業となりますから...」
司馬懿と司馬昭が話題に上げた孫皓は、その時には既に蜀に到着し、姜維の元を訪れていた。
「長旅で、さぞお疲れでしょう。しかし成都ではなく、直接に前線を訪ねて来られるとは思いませんでした。」
「成都に伺っても、我らの同盟の話を真剣に交わせる相手はおられぬと思いましてね。失礼ながら、蜀帝の周辺の方々は、本当に魏に対峙する気概をお持ちなのか、甚だ疑問を感じております。」
そう言いながら、盛んに右肘を回す孫皓の姿に、姜維は思わず苦笑した。
「此れは....随分とはっきりとした物言いをされますね。孫皓様は豪放なお方と聞いておりましたが、噂通りですね。しかし余りに明け透けな発言ばかりをされていると、呉内部では、反発をする者も多いのでは有りませんか?」
「はっきりと物を言われるのは、姜維殿も同じではありませんか。やはり此方を訪ねて正解だったようだ。このような緊迫した時に、腹の探り合いは無駄ですからな。」
「ふむ。それで今言われた同盟の話とは...?何か新しいご提案をお持ちなのですか?」
姜維の問いに対して、孫皓は両手の拳を、己の胸の前で打ち合わせた。
「それです‼︎。今迄の呉蜀の同盟というのは、手を携えて、南と西から、各各が魏に挑むというものでした。しかし実際の所、魏の戦力は我ら二国の倍以上は有ります。それに分散して立ち向かっても勝機は見出せない。呉蜀二国の戦力を合わせる新たなやり方を探るべきです。」
宣言するような孫皓の態度に姜維は深く頷き、同意の意思を示した。
「ごもっともな指摘です。すると孫皓様のご提案の要となるのは、陸上の戦だけでなく、呉の誇る水軍を出動させようと言うことですか?」
「さすがに姜維殿だ。察しが早い。その通りです。陸戦に頼るだけでは、魏の底力に阻まれて、我ら二国の優位は作り難い。しかし水軍を使うとなれば話は別です。長大な長江を利用すれば、二軍戦力の連携は可能です。今の蜀にも、それが必要なのでは有りませんか?」
興奮して、ともすれば早口になる孫皓を宥めるように、姜維はゆっくり言葉を返した。
「孫皓殿は、呉海軍の大総督の地位におられますから、それ故の御意見とお見受けします。しかし失礼ながら、今の呉の政局の中、魏と刃を交える事に、王宮の皆様が一致賛同されるかは甚だ疑問です。」
「痛い所を突いて来られますな。残念ながらその通りです。今の呉を、いきなり魏と本格的な戦いを構える空気に持って行く事はできません。しかし牽制だけなら話は別です。」
そう言いながら、此処からが本題だとばかりに、孫皓は膝を乗り出した。
「呉も、今回の戦で蜀が大敗して衰退してしまうと困るのです。次は我が身になりますからな。しかし今迄のように陸戦で魏の国境を脅かすだけでは、魏にとっては本当の脅威にはなりますまい。だから見直しが必要なのです。」
姜維は、孫皓の意図を見通したような表情で頷いた。
「それで虎の子の水軍を使おうと言うのですね。呉としては本格的な戦は望まぬが、水軍を使った新たな局面を示せれば、今回の魏は兵を引かざるを得なくなる。そう言う事ですね。」
「そうです。しかしそれは一過性のもので終わらせてはなりません。その後の蜀も呉も、魏に対して本格的な攻勢を行えるように、お互いの体制を作り直さねばなりません。」
孫皓が望むものを察したように、姜維が言葉を発した。
「つまり、呉でそれが出来るように、我らが孫皓様に手を貸せ...と仰りたいのですね。」
「そこまで察しておられるのなら話は早い。私が呉内部で実権を持てるように、蜀の支援を頂きたい。そうすれば私も、今の成都の蜀帝の周りに蔓延る悪き側近達の一掃に力を貸しましょう。姜維殿の悩みの種なのでしょう?」
これでどうだと言わんばかりの孫皓の声音に、姜維は内心では舌打ちをしながらも、笑みを取り繕った。
「分かりました。利害は一致という事ですね。しかし、今回の呉水軍の使い方については、私から提案があります。魏と直接には刃を交えず、それでいて呉水軍の脅威を、まざまざと魏に知らしめる方法を..」
そう言うと、姜維はある戦術を孫皓に向かって語り始めた。
それを聞く孫皓に、最初驚きの表情が浮かび、やがてそれは感嘆へと変わった。
「さすがに姜維殿だ。しかし、これほどとは....」
孫皓との会談を終えると、姜維は早々に華真を自分の元に呼んだ。
「華真殿。貴方が言われていた通りの展開になった。呉は水軍による牽制を提案して来ました。但し、此度は本格的な戦さは望まぬと...。そして見返りに孫皓殿が帝の座に就けるように手を貸せ...という申し出も、貴方の仰っていた通りでした。」
興奮を抑えきれない姜維の様子に、華真は穏やかな笑みを返した。
「それで….。水軍を使った今回の策について、こちらからの提案に対する反応は?」
「全面的に受け入れると。直ぐ建業に使者が立ちました。従者の中でも一番足の早い者を立てるというので、途中迄は、こちらで早馬を提供するようにしました。」
姜維の言葉を受けた華真は、今度こそは満足気に頷いた。
「建業では、直ぐに水軍の出陣許可が出るでしょう。孫休帝も宰相の孫淋も、魏にも蜀にも勝って欲しくないと思っている筈なので、牽制だけなら歓迎でしょう。但しすぐさま、孫皓殿が力を増さぬように裏工作を始めるでしょうが…。」
「そうなると、こちらでも早速にも準備に取り掛からなくてはなりません。水軍というのは、何と言っても機動力が最大の武器ですからね。それを見せつけずして、魏も脅威は覚えますまい。それが出来るように、蜀からも工作隊を派遣せねばなりませんね。」
華真の言葉に頷いた姜維は、すぐに別の事に思い当たった。
「そう言えば…..。華真殿の書状を携えた使者達はどうなりました? 何らかの報告はありましたか..?」
「二つ共に上手く運んでいます。さて...いよいよ本番ですね。」
「しかし...孔明先生と一体とは言いながらも、今回の策の数々...感嘆に絶えません。」
姜維は、改めて華真に尊敬の篭った眼差しを向けた。