開戦準備
「そうか....ついに魏が侵攻の体制に入ったか...。それで、今回の魏軍の総大将は誰だ?」
魏と蜀の両軍が対峙したまま、半年以上続いた膠着状態に変化の兆しありとの伝令を受けて、姜維はすぐさま王平と華真の二人を側に呼んだ。
「夏侯覇です。夏侯一族のみならず、今の魏では筆頭格の猛将ですな。此れは手強いですぞ。」
王平の返答に頷いた姜維は、更なる問いを向けた。
「呉はどう動く? 帝の孫休と前帝の孫亮に対しては、同盟の遵守を求める書簡を送っておいたが…。同盟に基いて、呉と魏の国境に兵を出し、牽制するような動きはあるか?」
「今のところは未だ...。しかし返使として、皇族の孫皓殿が蜀に来られるそうです。」
姜維と王平のやりとりを、側で聞いていた華真が顔を挙げた。
「なるほど。魏と呉のどちらにも、腹に一物ありますね。」
「腹に一物? それは何ですか?」
華真の言葉に、姜維と王平が揃って首を捻った。
「先ず魏の方ですが、今回の戦では、魏は持久戦で臨むのが常道です。向こうは十分な兵站を整えているのに対して、我が軍の糧食は心細い状況です。このような状況で、攻め急ぎは愚です。それなのに夏侯覇殿が大将とは...。猛将ですが、気の短い夏侯覇殿には、持久戦は向きませんね。」
それを聞いた王平が、なるほどと頷いた。
「裏に何かあるのですね?」
「今回の兵略の全ては、長安から指示が出ている筈。仕切っているのは司馬懿と司馬昭でしょう。彼らが、敢えて総大将に夏侯覇殿を当てたと言う事は、謀略絡みですね。司馬懿らしい陰湿な術策でしょう。」
「すると此方の打つべき手は?」
「司馬懿達の目論見を、逆手に取るのが宜しいでしょう。大きな獲物も手に入るやもしれません。」
華真の言葉の意味を測りかねる様子の王平を横目に、今度は姜維が問いを発した。
「それでは、呉の方の腹の一物とは...?」
「呉の王宮内部で起こっている対立が背景にありますね。恐らく今回の策を講じたのは、僕陽興と張布。その辺りでしょう。彼等なりの捨て身の策でしょうな。あの二人は、いずれは孫皓殿を帝の座に就けたいと願っている者達です。今、蜀と魏に戦が起きれば、必然的に呉の王宮にも波紋が広がります。政局不安定な王宮から、孫皓殿を切り離すつもりでしょう。同時に、蜀との交渉に置いて、孫皓殿に手柄を立てさせる事を狙った策と観ました。かなり危険な賭けではありますが.....」
華真の見立てに、姜維がほぅと感嘆の息を漏らした。
「使者として蜀に来られる孫皓殿がどのように動かれても、呉本国は本格的な戦さの動きは取らないでしょう。今はそれどころでは有りませんからね。呉が当てにならない事を前提に、先ずは魏を打ちはらう事が喫緊の課題となります。但し呉から使者として来られる孫皓殿にも、一働き頂けるように事を運びましょう。」
華真の澱みない説明に、王平が武者震いをした。
「華真殿には、既に策がお有りなのですね。」
「先ずは夏侯覇殿に、先に進撃を仕向けるように策を仕込みましょう。私に案があります。早急にある所に使者を立てて頂きたいのです。これから私が書く書簡を携えて...」
その頃、魏の本陣では、総大将の夏侯覇が癇癪を破裂させて、周囲に当たり散らしていた。
「何もせず、此処でずっと待てと言うのは、どう言う訳だ? 俺は戦に来たのだぞ。こんな所で昼寝でもしていろと言うのか!!」
「し、しかし...将軍。持久戦で締め上げよ...と言うのが、長安からの指示ですぞ。」
副将の言葉を聞いた夏侯覇は、その場にいた将校全員に鋭い眼光を向けた。
「それならば、何故俺を総大将などに指名したのだ? 俺が持久戦などには向かない事は、承知しているだろうに...。これはどう言う事だ? お前なら、その訳を知っておろう?」
夏侯覇が一人の若い将校を指差し、憎憎し気に吠えた。
名指しされた若い将校は、司馬昭の息子の司馬炎だった。
「返事をしろ!! 宰相の司馬懿と親父の司馬昭から、何かを言い含められているのだろう?」
すると、司馬炎は殊更にゆったりと肩を竦めて、夏侯覇と眼を合わせた。
「まるで、長安が寄ってたかって将軍殿をいたぶっているような物言いですね。夏侯覇将軍を総大将に指名したのは、この戦の重要性を、十分認識しているからです。それに、私をそのような眼で見るのはおやめください。私を、将軍殿を見張る為に長安から派遣された間諜と誤解されているご様子ですね。それは心外です。今回の私の派遣は、猛将と名高い夏侯覇将軍の戦ぶりを、側で良く学べと言われての事です。それ以外の意図はありません。」
それを聞いた夏侯覇は、いかにも胡散臭いといった眼で司馬炎を見た。
「本当にそれだけか? ならば戦と言うものは、臨機応変が大事という事を、良く肝に命じておけ。長安の指示を頭から無視する気はないが、時と場合によっては直ぐに打って出る事も戦場では必要だ。その時、余計な告げ口を親父達にしたりするなよ。」
「十分に承知しております。そうなった時の将軍殿の采配も、良く目の当たりにして学んでこい...と言われて来ております。」




