錯綜する思惑
呉の都の建業の宮廷の一室では、帝の孫休が、側近の僕陽興と向き合っていた。
「どうだ、弟と伯父の様子は?よもや不穏な動きは無いだろうな?」
孫休が名を挙げたのは、異母弟の孫亮と、親族の孫淋の二人だった。
孫亮は、孫休の前の帝だったが、実力者である宰相の孫淋の策謀によって帝位を追われた人物である。
孫亮の退位の後は、孫淋が、宰相の力を使って帝位に押し上げた孫休を操る事で王宮内の実権をほぼ手中にしていた。
孫淋の後押しで帝位を得た孫休は、表向きは孫淋に従う素振りを見せながらも、陰では密かに実権の掌握を目指していた。
更には、一度は退位した孫亮も虎視眈々(こしたんたん)と帝位への返り咲きを狙っていた。
この頃の呉は、皇族内部の対立抗争に明け暮れていたのである。
孫休の問いに、僕陽興は頭を傾げた。
「あのお二人が動きを起こす為には、何かきっかけが必要と思いますが….。帝には思い当たる事がお有りなのですか?」
すると孫休は、身を乗り出すと、やや声を顰めた。
「実はな...蜀の姜維から、密書が来ている。魏が近々蜀に侵攻して来る気配が有ると...。その時には、同盟に従って蜀に助成するようにと求めて来ている。」
「魏が、此処で動きまするか。それで……。孫淋宰相には、蜀からの要請があった事をお知らせになったのですか?」
孫休は、とんでもないとばかりに手を振って見せた。
「いやいや…..知らせる訳がなかろう。孫淋伯父は、己の基盤を固めるのに血眼になっている。そんな時に、蜀の要請などに応じる筈があるまい。」
僕陽興は、そんな孫休に対して難しい顔を見せた。
「しかし三国の一角である蜀が滅べば、魏は次には呉に矛先を向けて来ましょう。孫淋殿がどう動くかは分かりかねますが、孫亮様は黙っておりますまいな。それならば、孫亮様にも姜維から密書が届いているのではありませんか?」
孫休は、我が意を得たという表情になった。
「お前もそう思うか。確かに此処で蜀が滅べば、我国は魏と正面から向き合わざるを得なくなる。そうなれば、孫亮の復位などあり得まい。一度退位した者を復権させるなど、宮廷内が混乱するだけだからな。孫亮にしてみれば、蜀には踏ん張って貰いたいであろう。しかし孫淋伯父の場合は、ちと違うな。蜀が滅べば、自分から呉を魏に差し出す事もやりかねんからな。自分の宰相の地位だけは保証するという条件で...。この情勢下で、私はどうすれば良いと思う..?」
僕陽興は、暫しの間、考えを巡らすように口を噤んだ。
そして、顔を挙げると孫休の顔をじっと見詰めた。
「今の帝のお立場からすれば、蜀の要請を頭から無視するのは拙いですな。先ずは同盟の尊重を相手に示すべきでしょう。しかし口先だけでは、姜維も納得しますまい。此処は策が必要ですな。」
孫休の眼に期待の色が浮かんだ。
「それで…。どんな策があると言うのだ?」
「返使には、それなりの人間を送らなくてはならないでしょう。上級文官程度では駄目ですな。同盟重視の姿勢を示すには、皇族でなくてはなりますまい。」
孫休の顔色を窺う仕草を見せた僕陽興を見て、孫休は次の言葉を促した。
「ふむ….。ではその場合、誰を送る?」
孫休に促されるのを待っていたかのように、僕陽興は即答した。
「孫皓様が宜しいかと。初代帝の孫権陛下の手で廃太子とされた孫和様の嫡子ですから、孫亮様同様に普通では帝位は望めない事は、ご自身も自覚しておりましょう。ですから、敢えて火中の栗を拾う事も受諾されるでしょう。」
孫皓…..と呟きながら、暫く思案を巡らせていた孫休は、やがて納得したように顔を挙げた。
「なかなかに良い案だ。孫皓なら気質も剛健な上に、押し出しも良い。もし蜀に於いて人質として留め置かれても、それはそれで構う事もあるまい。それでは、その方向で進めよ。その場合、宰相である孫淋伯父への根回しには、くれぐれも慎重を期すように….」
僕陽興は、宮廷を後にすると、直ぐにその足で盟友の張布の家を訪れ、孫休との密談の内容を打ち明けた。
「なんと...。孫皓様を蜀に送るのですか。孫皓様は、今上帝の孫休様の後を継げる器と、密かに我らが心に決めているお人ですぞ。何故今ここで、掌中の珠をむざむざ手放さねばならないのです?」
僕陽興の提案に難色を見せた張布に対して、僕陽興は自らの深慮を打ち明けた。
「孫皓様を、今の呉に置いておくのは危険だからだ。賭けではあるが、孫皓様には一旦蜀で一働きして頂くのが良いと思う。孫皓様の器量ならば、蜀との交渉を優位に進める事は十分に可能だ。そうなれば、孫皓様の宮中での評判はぐんと上がる。その機会を逃さず我らが動けば、孫皓様を次の帝にお就けする事も出来るのではないか?」
それを聞いた張布は額に手を当てて、考える顔つきになった。
「なるほど...。確かに今の呉は、孫淋殿、孫亮様が何をしでかすか分からぬ状況であるのは確かですな。孫休陛下は、慎重なお方ではあるが、豪胆さには欠ける。またぞろ皇族同士の紛争が勃発して、孫皓様が妙な形で巻き込まれる危険を考えると....。案外と此れは、妙策かもしれませんな。」
張布が賛同の姿勢を見せた事を確認して、僕陽興はもう一度表情を引き締めた。
「それでは孫皓様の元には、張布、お主が行ってくれぬか。此処が正念場と、納得頂けるように進言して欲しい。」