曹叡と司馬親子
魏の都である長安の王宮では、帝の曹叡が玉座に座り、憂鬱な表情で臣下達からの報告に耳を傾けていた。
「今や、呉は恐るるに足りません。呉の内部には、既に国を支える人材と呼べる者はおりませぬ。今の帝の孫休も、帝位は形だけの物。内乱などいつでも仕掛けられます。」
そう言ったのは、司馬懿の息子である司馬昭だった。
「しかし、呉は蜀との同盟を、未だに維持しておるぞ。」
曹叡の指摘に対して、司馬昭は一度拝礼をした後、胸を張った。
「その同盟も、もはや形だけのもの。今の呉には、蜀と手を携えて魏に歯向かおうなどと考える延臣はおりませぬ。腑抜け揃いですからな。となれば、もう一方の目の上の瘤である蜀を、完膚なきまでに叩き潰す機会は、今を置いて他にありません。」
自信有り気に断言する司馬昭を、横で父の司馬懿がやや不安気に見遣った。
「蜀で怖ろしかったのは、宰相の諸葛亮孔明のみ。それも今や死んでおります。」
司馬昭が、孔明の名を口にした時、司馬懿の顔に不機嫌な表情が走った。
司馬懿の様子を眼に入れた曹叡が、揶揄うような口調で口を挟んだ。
「諸葛亮孔明か...。あれは確かに鬼神のような者だったな。なにせ此処におる司馬懿が、あの五丈原の戦いで、既に病に没した孔明の最期の策に乗せられ、むざむざ軍を退かざるを得なかったのだからな。」
曹叡の言葉を受けて、司馬懿の不機嫌な表情が更に険しくなった。
「『未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん』という言葉も御座います。私は、生前の孔明との駆け引きでは、常に互角であったと自負しております。生きている者には、私は負ける気はしません。しかし死者ともなれば話は別。あの時が正にそうで御座いました。」
不機嫌を隠そうともせずにそう言上した司馬懿を見て、曹叡は苦笑した。
「別に、お前を非難しているわけではない。孔明とは、お前にそう言わせる程の男だったと言っているだけだ。」
曹叡と司馬懿の間に漂う緊張を感じ取った司馬昭が、慌てたように言葉を発した。
「しかしながらその孔明は、既にこの世にはおりません。残された姜維や王平達が、前線でしぶとく抵抗する構えを崩しておりませんが、ここ最近では食糧の供給が滞っているようです。兵士達の士気も下がっておりましょう。今が攻め時と思われます。」
司馬昭の横で頷く司馬懿の姿に眼を遣りながら、曹叡は軽く右手を振った。
「分かった。お前達が揃ってそう申すのなら、勝算あっての事だろう。追って出陣の勅書を出す事としよう。」
司馬懿達が退出すると、玉座の曹叡は不快気に鼻を鳴らした。
「ふん...。司馬懿と言い、司馬昭と言い、最近は、国の決定は全て自分達で行うという態度があからさまになって来ておるな。しかし、今回の戦の総大将に夏侯覇を推挙してきたのは、どうした訳かな? 夏侯覇は、最近の司馬一族の言動には、不快感を隠しておらぬというのに...」
曹叡は、そこで一度首を振ると考えるのを止めた。
そして玉座を降り、寝所へと向かった。
謁見の間から退出する司馬懿の背に、司馬昭が小さく声をかけた。
「父上。今回の蜀の討伐の大将に、何故夏侯覇を推挙したのです? あの者が、我ら司馬の一族に反感を持っているのは明らか。我らの軍略に、大人しく従うか、大いに疑問です。」
不満気な司馬昭の声に、司馬懿が立ち止まり、司馬昭の耳元で囁いた。
「確かにこの度の戦で、夏侯覇が大殊勲など挙げれば、夏侯一族が一気に息を吹き返す事になるであろうな。」
「それが分かっていながら、なぜ夏侯覇を総大将に推したのです?」
首を傾げる司馬昭に、司馬懿は意味有り気な笑みを返した。
「今回は、蜀に対して大勝など必要ないのだ。蜀など放って置いても徐々に弱体化する。但し今ならば、蜀にもそれなりの戦をする力は残っておろう。場合によっては、小さな勝ち戦も可能であろうな。」
「父上は、今回は負け戦をせよと、仰っているのですか?」
「負ける戦いなど、曹叡様が御許しになる筈もない。だから大将には、夏侯覇が良いのだ。但し軍略は、あくまでも我らの手元に置く。そうすれば、どこかで夏侯覇が痺れを切らす時が来る。その時が司馬への不満分子の筆頭である夏侯覇を蹴落とす契機となる。」
「すると、夏侯覇が我らの軍略を無視する事の方が良いと...?」
「そうだ。ここは夏侯覇には悪者になって貰わねばならぬ。上手く事が運べれば、夏侯一族の息の根は止まる。しかし一方的な負け戦は許されぬぞ。この戦を帝に進言したのは、我らなのだからな。ここの按配をどう裁くかが、今度の戦の要諦なのだ。」
その言葉に、司馬昭は大きく頷いた。
「流石に父上です。委細承知しました。万事上手く収めて見せまする。」