王平の救命
「こうして私と妹は、諸葛亮孔明から使命を託されました。私の心の中の孔明は、私に言いました。『まず諸国を巡り、見聞を深めよ。その後、蜀の宰相の元に赴け』....と...。」
そこまで語った華真の言葉を、大きな声で遮ったのは王平だった。
「やはり、どうしても信じられん...。そんな事を信じろという方がおかしい...。これは何かの間違いか、さもなければ、奇術師まがいの絡繰だ‼︎」
そう怒鳴った王平は、その直後に下腹を抑えて蹲った。
「王平‼︎ どうした、大丈夫か?」
驚いた姜維が、王平に駆け寄るより先に、華鳥が宙を舞うような動きで王平の傍に身を踊らせた。
そして、すぐにその額に手をやった。
次に華鳥は、右手の親指を、王平の下腹に突き立てた。
その瞬間、王平の顔が苦痛に歪み、大きな呻き声が部屋全体に漏れた。
王平の状態を診た華鳥は、華真と姜維に向き直ると、強い口調で断言した。
「腸の一部が酷く腫れています。放置すればやがて腸が腐り....そのまま何もしなければ...死に至ります。」
そう断言する華鳥の態度に、姜維が抗った。
「な…なぜ、そのような事が瞬時にわかるのです。王平は、薬を飲んでると言っていたが....それでは駄目なのですか?」
【これは単なる腹痛ではありません。痛み止め程度の薬では無意味です。この様子から察するに、これまで随分と我慢していたようですね。強い方です。】
その言葉を聞いた華真が、落ち着いた声で華鳥に尋ねた。
【華鳥。お前は、これまで五年をかけて薬方の全てを極めた筈。何か効く薬はあるか?】
華鳥は、首を横に振った。
「既に、腹には膿が生じておりましょう。薬では無理です。」
「ならば、他の手は?」
「腹を開き、膿を除くより、救う手立ては有りませぬ。」
それを聞いた華真が、予想通りとばかりに頷く横で、姜維が眼を丸くした。
「腹を開く....? それは、どういう事ですか?…..」
何を言われているのか理解出来ず狼狽する姜維に、華鳥は向き直った。
華鳥の整った美貌から発せられる強い眼差しに正面から見据えられた姜維は、言葉を呑んだ。
「言葉通りです。腹を切って治療するのです。膿を抜き、腐りかけた腸の一部を切り取ります。」
「何を言うのだ…。腹を切ったりすれば、それこそすぐに死んでしまうではないか….。」
憤る姜維の肩を、華真が押さえた。
「落ち着いて下さい。妹の診断は、今まで間違えた事は有りません。此処は華鳥にお任せ下さい。」
反論しようとする姜維には構わず、華真は再び華鳥に尋ねた。
「必要な物は、何時もの通りで良いか? 特別に必要な物は?」
「いつも通りで大丈夫です」
慣れた様子の二人のやりとりを眼にした姜維は、さらに混乱した。
「いつも通りとは? それはどう言う意味だ? もしや貴方達は、これまでに何度も腹を切る治療をして来たという事か? しかし、そんな治療など、今迄聞いたこともない...。」
その時、王平が苦しい息を吐きながら、姜維の袖を引いた。
「宰相殿。此処はこの者達の言う通りにしてみましょう...。何もかも信じ難き事ばかりですが、今のままでは、もはや我が命の危うい事は、私自身にも分かります。それに….この者達の言う事が、まやかしでないなら…。もし本当に、孔明先生が蘇ったとするなら….。そのような事もなし得るやもしれませぬ。今回は、それを確かめる良き機会で御座います。」
王平の言葉を聞いた姜維は息を呑み、差し出された王平の手に両の掌を重ねると、しばし沈黙した。
王平の顔色からは明らかに血の気が引き、次第に蒼白になって行くのが見て取れた。
姜維は、意を決したように華真と華鳥に向き直った。
「確かに、王平には死の影が忍び寄っているようです。今の王平の顔つきは、正に死相。今まで戦場で何度も眼にして来た、死を前にした者の顔つきです。お二人の言う治療でしか王平を救えぬのなら、貴方達にお任せするしかないようです。何より王平自身が納得しているのですから...。それで…..何か私に手伝える事は...?」
覚悟を決めた姜維に向かって、華鳥が淡々(たんたん)と指示を発した。
「先ずは、清潔な布を数多く準備して下さい。それと沸騰した熱い湯をたらいに入れて持って来て下さい。」
華鳥が指示を出し始めたのを確認して、華真が部屋の出入口へと向かった。
「それが整う迄の間、私は宿に戻り、華鳥が使う治療道具をここに運んで来ます。」
そう言うと、華真は飛ぶように部屋を飛び出し、姜維は大声で従者を呼んだ。
指示された準備が整うのとほぼ同時に、再び姿を現した華真が机上に広げた道具類を見て、姜維は眼を瞠った。
「何だ、それは...。その小さな小刀のような物で腹を切るのか? それに….そちらの見たこともない道具類は一体何なんです?」
姜維の問いに、華鳥は、持ち込まれた道具を一つ一つ点検しながら答えた。
「開いた腹を固定する道具。それに麻酔器具です。如何に治療とはいえ、何もなしに刃を入れれば、激痛で暴れ出しますからね。治療の間、王平殿には眠って頂きます。」
道具の確認を終えた華鳥は、側に控える二人の従者に声を掛けた。
「これと、これと、これ。これらは、もう一度熱湯で十分に煮沸してから、此処に持ってきて下さい。その間に、王平殿に麻酔を施します。」
華真が、姜維の手を借りて王平を寝台に移すと、華鳥は何の躊躇もなく、王平の衣服を全て剥ぎ取った。
そして全裸の王平の身体に布を被せると、下腹部分の布を丸く切り裂いた。
そして、椰子の実を半分に割ったような器具で王平の鼻と口元を覆い、その上部にある小さな穴から、何やら薬のような液体を流し込んだ。
それを横目で観ながら、華真は熱湯で手を洗った後、準備された布を小さく裂き始めた。
暫くすると、苦しげな息を続けていた王平が静かになり、寝息を立て始めた。
そこに、煮沸の終わった治療道具が、たらいに入れられて運び込まれてきた。
「それでは、治療を開始します。」
その声と同時に、口元を布で覆った華真が、丸く切り取られた布から露出している王平の下腹部に、焼酎のような強い香りの液体をぶち撒けた。
華真と同じように布で口元を覆った華鳥は、一本の小刀を手にすると、少し躊躇いもなく、布の穴から覗く王平の下腹部に刃を走らせた。
刃先が走った腹部からは、すぐにぷつぷつと血が滲み出し、姜維はその様子に思わず眼をそらした。
しかし直ぐに思い直したように、再び華鳥の手元に視線を貼り付けた。
横から華真が手慣れた手付きで、出血を布で押さえて行く。
「やはり、此処ね。膿を全て吸い出して、腸の一部を切除。その上で縫合します。化膿止めもしておくわね。」
色の変わった小さな腸の一部が摘出され、管のような器具で膿が吸い出されて行く。
そしてその後、釣り針のような針によって腹が縫い合わされて行った。
姜維と二人の従者は、初めて眼にする手術を前にして、一言も声を発する事なく王平の様子に見入っていた。
やがて、華鳥と華真の手が止まった。
「終わりました。傷が化膿さえしなければ、三日もせずに起き上がれます」
感情の変化のない声で華鳥に告げられた姜維は、側の座卓にぐったりとしゃがみ込んだ。
「しかし..此れは、どう言う魔術だ...。腹を切っても死なぬ。しかも傷口を、針と糸で縫うとは...。縫った部分には、僅かな血の滲みもない...」
「妹は、旅に出てから五年。薬学の全てを学びました。しかし各地で患者を診る中で、薬だけでは直せぬ患者が居ることに気づいたのです。」
華真にそう言われても、姜維はまだ半ば呆けたような表情のままだった。
「そうは言われても....此れはあまりにも...」
虚脱したまましゃがみ込む姜維の肩に、華真が手を添えた。
「この治療を、妹に教えたのは、亡き初代魏帝の曹操様の主治医だった華佗殿の弟子です。華佗殿という方は、それまで存在していなかった様々な医術を生み出した名医でした。ある時華佗殿は、頭痛に苦しむ曹操帝に、頭を切り開いての治療を申し出ました。その事で曹操帝の怒りを買い、処刑されました。しかしその技術は、弟子達によって後世に引き継がれたのです。」
「帝の頭を切り開くなど……。それは、怒りを買って当然だ....。」
信じられない話を淡々(たんたん)と語る華真に、姜維は戦慄した。
「では...これらの道具も、その華佗の弟子という者達から教えられたのですか?」
ようやく気を取り直した姜維の問いに対して、道具類を熱湯で洗いながら、華鳥が答えた。
「そうですが...新しく私達が創り出したものも多くあります。この麻酔器具などがそうです。麻酔の元となっている薬草は、私が見つけ出しました。麻酔を効果的に処方する道具の作り方を教えてくれたのは、兄の中にいる孔明様です。」
孔明の名が華鳥の口から出た事で、姜維は顔を輝かせた。
「孔明先生が....。ううむ...孔明先生は、日頃から常に新しい道具や武器を開発されてました….。先程、華真殿が王平に話していた弩弓や、連写弓....耕作に使う農器具など...。これだけ様々なものを見せつけられてしまった今、私は貴方達を信じます。貴方達の傍には、間違いなく孔明先生が居られるるようだ...。そう言えば、さきほど貴方は、孔明先生から私の元を訪ねるように言われたと仰ってましたね?」
姜維の言葉に、華真は大きく頷いた。
「その通りです。此処に伺うまでに五年を費やしたのは、旅を通じて各地の変化を見極め、同時に新しき世の為に使う知識や技術を習得する為でした。孔明に言われました。新しき世を築く為には、確かな情報と、新しき知識が必要だと...。さきほど妹が、王平殿に施した医術もその一つです。」
華真の言葉を聞いて、姜維は胸の底から熱いものが湧き上がるのを感じた。
「それらを携えて、貴方達は、私の...蜀の元に来て下さったと...」
「本当は、もっと身につけたいものが多くあったのですが....孔明がもう時間がないと、言ってきました。蜀は今危険な状況にある。もう駆けつける時だと...」
「それで、貴方は最初に、私が王宮に参内しても無駄だった筈...と言われたのですね? 孔明先生は、蜀の現状を既に把握されているのですね?」
「その通りです。但し危険な状況にあるのは、魏も呉も同様なのですが...」
華真は、遠い先を見据えるように、視線を宙に巡らせた。
「蜀の国の災いの元となっているのは、姜維殿も気付かれて居るように、黄皓です。しかし王宮の揺らぎは、蜀に限った事ではありません。魏では曹操帝亡き後、曹氏の力は、徐々に弱まり、司馬一族が、急速に力を付けています。国の簒奪も近いかもしれません。呉も同じです。孫権帝の息子達の傍には、かつての周瑜や魯粛に匹敵する優秀な参謀がおりません。宮中は派閥争いに陥っています。」
姜維は、華真の言葉に食い入るように聞き入った。
「このままでは、かつての英傑達に支えられた蜀・魏・呉は、三国共に滅亡します。そうなれば、世の中は再び乱れ、覇者同士が争う時代に戻るでしょう。その時に苦しむのは民です。覇者の政治は、民を苦しめる事はあっても、安んじる事はありません。三国の何れかの国が、始帝の志を取り戻さなくてはならないのです。」
その言葉に、姜維は膝を乗り出した。
「それで...。今後の我らは、どのようにしてその志を取り戻せば良いのでしょうか?」