市場街防衛戦②
その後潘誕は、司馬炎から長安の情勢を告げられた。
「そうですか....。長安は、既に夏侯舜殿達が掌握されているのですね。呉も志耀様が纏めらたということになれば、一気に世は治りますね。」
感無量の表情になった潘誕を見て、司馬炎は頷いた
「夏侯舜殿は、直ぐに建業と成都に使者を飛ばしているでしょう。今となっては、魏軍兵達が最も敬服しているのは夏侯舜殿ですからね。今後の流れは良き方向に向かうと思います。蜀と呉には、夏侯舜殿の名をお借りして私から申し入れをしました。魏への食糧支援も滞りなく行われるでしょう。」
「すると残るのは、丘の上にいる魏軍兵達だけですね。」
そう言う潘誕を見た司馬炎が、ぽつりと言った。
「それですが...私からは、此方に向かっている両国の支援軍に向けて、嘆願を出しています。魏軍の兵達に対して、これ以上の戦を仕掛けないで欲しいと。何と言っても魏は私の故郷です。無益な血を流したくありません。彼処には、長安から逃げ出した賈充も合流していますが、彼等にはもはや食糧が有りません。飢えた者を叩くのは無慈悲と言うものでしょう。」
その司馬炎の言葉に、潘誕が懸念を向けた。
「しかし、賈充や王沈が簡単に降伏しますかね? 窮鼠猫を噛むと言うではありませんか。此方に向かって来る蜀と呉の軍を見た時、兵達を焚きつけて玉砕に出たりする事になりませんか?」
「あの二人と、その周りにいる一部はそうでしょうが、兵達の多くはあの二人に心底から従っている訳ではありません。強権の下で無理やり服従させられているだけです。きっかけさえあれば、直ぐに離反しますよ。」
潘誕は、司馬炎の表情に何事かを読み取った。
「何か考えが有るのですね?」
「そう...此処は、潘誕殿に自慢の料理の腕を奮って頂きたいと思っています。」
司馬炎の言葉に怪訝な表情を見せた潘誕だったが、その後の司馬炎の説明を聞くと大きく頷いた。
「判りました。早速にも準備に取り掛かります。この市場街には、各種の食材の他、香辛料や薬草もたっぷりと揃っています。しかし、まさか料理を武器に使うとは思いませんでした。」
丘陵の上で、王沈の軍と合流した賈充は、湖の中に屹立する市場街を見て愕然とした。
「此れはどうした事なのだ....」
「俺たちにだって判りませんよ。兎に角あっという間でした。これでは、市場街に迫る事など到底出来ません。」
「小舟に兵を載せて迫る事は出来ぬのか?」
そう言った賈充は、直ぐに自分の言葉を取り消した。
「無理か…。市場街に近づいた途端に、城壁から火矢と油の袋が飛んで来るであろうな。そうなると、指を咥えて見ている事しか出来ぬのか…。」
其処に兵の一人が、慌てて駆けつけて来た。
「長江に巨大な軍船が姿を見せました。あんな馬鹿でかい船は見た事がありません。呉水軍の船と思われます。もう我等の直ぐ近くまで来ています。」
兵からの報告に、賈充と王沈の顔が引き攣った。
暫くの沈黙の後、王沈が意気消沈した表情で賈充に問いかけた。
「呉も、我等の敵に回ったという事ですね。これは正に前門の虎と、後門の狼。しかし何故、呉がいきなり我等に対して軍を向けて来たのでしょう?呉は、帝位を巡って混乱の最中であった筈ですが…。」
王沈の問いに対して、賈充も首を捻った。
「分からぬ。しかしはっきりしている事は、今の我等は、窮地に居るという事だ。こうなれば、目の前の敵から打ち払うしかあるまい。」
賈充は、連絡を寄越した兵に向かって尋ねた。
「それで…。もう兵は上陸する構えなのか?」
「いいえ...河の中に錨を下ろして停泊したままです。船の大きさからして最大千名の兵を積んでいると思われるのですが、兵が船から出る気配はありません。」
その報告を聞いた賈充は、顎に手をやった。
「千名か...。此方の四分の一以下だ。十分に打ち払えるな。早急に、河岸の向こうに残した部隊に、投石機での攻撃を指示しろ。油を塗った大石を撃ち込み、火達磨にするのだ。お前が言うような馬鹿でかい船ならば、格好の的ではないか。」
そう言った賈充は、顎に置いた手を下ろすと、もう一つの命令を付け加えた。
「それから小舟の群れに兵を載せて、呉の船を取り囲め。火攻めに慌てて逃げ出す奴らは、舟の上から矢を射かけて仕留めるのだ‼︎ 」
賈充の命令の下、二台の投石機が荷駄で引かれて、呉船が停泊する長江の河岸へと運ばれた。
堤に設置された投石機には、直ぐに油を塗った大石が装着された。
そして松明の火が油に点火されると、投石機の腕が唸りを挙げて、巨大な火の玉が呉軍船に向けて発射された。
同時に両岸から二十艘余りの小舟が、呉軍船を目指して漕ぎ出した。
投石機から放たれた燃える大石が、呉船の甲板に激突する様を見詰める魏兵達の顔に、驚愕が拡がった。
「だ、駄目だ。石が跳ね返されてしまっている‼︎ しかも火が燃え上がる様子もない。これは...船全体が、鉄板で覆われているんだ!!」
岸辺の兵達の絶望の声を耳にした小舟群を指揮する隊長が、苛立った様子で叫んだ。
「ええい‼︎ 呉船に取り付け‼︎ あれに乗り移って白兵戦を挑むのだ。」
呉軍船を囲む魏軍の小舟達が、軍船に近づこうとした時、小舟に乗っていた兵達の顔色が変わった。
兵達の目の前で、大船の周囲全体から一斉に白刃が突き出し、船全体が針鼠と化した。
その姿を見た魏軍兵達は、口を開けたまま凍りついた。
「これでは....乗り移るなど、不可能だ….」
軍船を取り囲む魏軍兵達はなす術もなく、只呆然と川面に浮かぶ呉船の巨体を見詰めていた。
その夕刻、薄暗の中を数艘の小舟が、市場街の防壁から降ろされた。
舟は、魏軍が集結する丘の手前まで漕ぎ出して、其処で止まった。
目の前で止まった小舟を見た魏兵達は、怪訝な顔付きになった。
「何だあれは....?何をする積りだ?」
すると、水面を吹く風に乗せて、魏陣営に何とも言えぬ匂いが漂って来た。
その匂いを鼻にした魏兵の一人が、思わず腹に手を当てた。
「く、食い物の匂いだ‼︎ しかも此れは、極上の料理の匂いだ‼︎ 此方は皆、腹が減って堪らぬというのに、何という真似をするのだ!! 」
料理の匂いに耐えかねた数人の兵が、水に飛び込むと小舟に向かって泳ぎ始めた。
しかし小舟達は、泳ぐ兵達が近くまで来ると直ぐに動き出し、少し離れた所で嘲笑うように止まった。
市場街の防壁の上から小舟の灯りを見守る鐘風が、隣に立つ司馬炎に話し掛けた。
「若殿は、無益な戦はしないと言われていましたが、此れは何とも残酷な策ですな。あの時の事を思い出します。」
鐘風に話し掛けられた司馬炎は、怪訝な表情で鐘風を見返した。
「あの時?何の事だ?」
「霊鳥山まで、華鳥殿と潘誕殿を追尾した時ですよ。あちこちで、潘誕殿の作る料理の匂いを前に、ずっと草叢や林に潜んだではありませぬか。あれは本当に地獄でしたぞ。腹が鳴るのを抑える修行はしておりませんでしたから、何度も脂汗をかきました。若殿とて、あの時の事を覚えておられるからこそ、このような策を思いつかれたのでしょう?」
「人の五欲と言うが、食欲だけは誰も抑えられぬ。まぁ、どう頑張ってもあと一日だろうな...。兵達が離反し始めるまで...。」
司馬炎はそう言うと、側に置かれた大皿から饅頭を一つ摘み上げ、美味そうに頬張った。
「これは美味いな。潘誕殿の料理というのは何を作っても一流だな。こんなものの匂いを嗅ぐ拷問を、続けられてはたまったものではあるまい。明日の夜にもう一度小舟を出す時に合わせて、次の手を打て。」
次の夜、またも市場街から小舟が漕ぎ出され、魏の軍営近くまで寄って来た。
「またかよ。こんな目に会うくらいなら、戦う方がましだ。勘弁してくれ。」
小舟の灯りを目にした魏軍の兵達の間に、泣き出しそうな悲鳴が広がった。
その時、料理の匂いと共に、小舟から大きな声が挙がった。
「魏軍の方々、よく聞かれよ。長安は既に、夏侯舜将軍以下の有志の方々が掌握している。このままでは、賊軍の汚名を着たまま餓死するぞ。速やかに投降されよ。」
四日後、市場街へ救援に向かった夏侯覇からの使者が、成都に到着した。
「そうか。魏軍は全員降伏したか。一戦も交えず、余計な血を流さず済んだのは何よりだ。それで賈充と王沈は捕らえたのか?」
そう姜維に問われた使者は、首を横に振った。
「いえ...あの二人は側近の者達と共に逃亡しております。夏侯覇将軍が追跡をされております。」
「そうか….。夏侯覇殿のような狩人に追われては、逃げ切れるまいな。恐らく既に捕縛されておろう。」
そう言って頷く姜維の横で、王平が嘆息を漏らした。
「それにしても....。司馬炎殿も、えげつない策を使われましたな。空腹に苦しむ兵達に、二日に渡って、潘誕の料理の匂いだけを嗅がせるなどと...。そんな真似をされれば、俺だって降伏します。」
実感の篭った王平の言葉に、華真が小さく笑った。
「さすが...と言うべきでしょう。孫子の言葉にもあるではないですか。『戦わずして勝つ。これぞ兵法の極意なり』と...」
華真にそう言われた王平は、げんなりとした表情を見せた。
「そりゃそうでしょうが.....俺はそんな目に会うのは、絶対に御免蒙ります。」




