市場街防衛戦①
「市場街の側への木材の運び込みは、終わりました。街の外周を巡らす囲いの作業も順調です。此れは、木材運搬で駆けつけてくれた者達に加えて、市場に集まっている多くの商人や、周辺の農民達が進んで協力してくれたお陰ですよ。」
兵からの報告に表情を綻ばせる潘誕の肩を、鐘風が叩いた。
「これ程の民達からの尽力...。民の信頼が余程厚くなければ、とても出来るものではありません。姜維殿や華真殿は、実に見事に国を纏めておられますな。これならば、必ず危機を乗り越える事が出来ますよ。」
丘の上から市場街を見下ろす潘誕達の眼下には、周囲を丘陵に囲まれた小さな盆地の真ん中にある市場街の姿が見えた。
街を囲む城壁の外側には、もう一つの障壁が着々と建設されていた。
障壁の周囲には、無数の人々が取り付き、黙々と作業をこなしている。
木々が隙間なく地に打ち込まれ、その外側には厚い木板が張られて、街全体がなさがら巨大な要塞のように見えた。
「もう魏軍は、長江の向こう側に達していると報告が入りましたが....。今頃は慌てているでしょう。」
鐘風は、そう笑いながら肩を揺らした。
「何だと....。河を渡す橋が全て落とされているだと....。おのれ、何が何でも邪魔をする気か。河沿い周辺の集落を廻って、小舟を全て徴集して来い。それと周囲の田畑の稲は、全て刈り取らせろ。」
「承知いたしました...。」
王沈の怒声にそう答えながら、斥候兵は上目遣いで報告を続けた。
「しかし既に田畑は丸裸になっていて、刈り取る稲は一つもありません。農民達の家々は、全てもぬけの殻です....。どうやら全員が、市場街へと逃げ込んだようです。」
それを聞いた王沈の眉が上がった。
「食糧は、全てあの市場街の中という事か。もう一刻の猶予もない。既に手持ちの兵糧は底を突いておる。直ぐにも、市場街を陥落させねば…。そして蜀の軍が駆け付ける前に、食糧を手にして速やかに撤退せねばならぬ。兵全員に伝えよ。飢え死にしたくなければ渡河を急ぎ、向こう岸に集結せよと..。」
魏軍兵は、川幅が広くなっている上流付近の船着場から数十艘の小舟を徴収して来ると、次々とそれらの小舟に乗り込んで対岸を目指した。
対岸に渡った魏軍兵達は、緩やかな丘陵の上に集結した。
軍の集結を見届けた王沈は、剣を抜いた。
「よし、全軍集まったな。皆の者。あの下に見える市場街が目指す場所だ。彼処には、大量の糧食が集められておる。一気にあの防壁をよじ登り、街中へと侵攻せよ。抵抗する者は、容赦なく殺して構わぬ。」
そう叫んだ王沈が剣を頭上に掲げ、突入の号令を発しようとしたその時....。
空気を切り裂くような地響きが、丘陵全体を包んだ。
そして丘陵の下方にある林の中腹から、何本もの巨大な水柱が噴き上がった。
「何だ、あれは...」
天空高く噴き上げた水柱を、魏軍兵達はただ唖然として見上げた。
そうこうする内に、巨大な水柱から噴き出した水は、直ぐに激流となって市場街のある盆地に向かって走った。
丘陵の上に立つ魏軍兵達は全員が動きを止めて立ち竦み、呆然とした表情で、眼下に流れ走る激流を見詰めた。
一刻も経たない間に、市場街の周囲には水が溢れ、街の姿はみるみる内に変貌した。
市場街は、湖の中に孤立する大船のようになり、魏軍と街の間は完全に遮断された。
水の中に屹立市場街を眼の前にして立ちすくむ王沈に向かって、副将が悲鳴にも似た声を挙げた。
「どうしたら良いのです?あの水を越えて市場街に迫る事など、到底出来ません。かと言ってこのままの状態で此処に居ては、蜀軍が追って来るのを待つだけになります。こちらに向かって来る蜀軍の兵数は、恐らく我等の数倍はありますよ!」
副将の声を耳にしながらも、王沈は直ぐには為すべき事が思い浮かばず、ただ呆然と立ちつくしていた。
市場街の中では、潘誕が次々と指示を発していた。
「浸水場所を確認しろ‼︎ 出来る限り水の侵入を防ぐのだ。それと民達全員が街中央に避難し終えているかを、もう一度確認しろ‼︎ 」
軈て鐘風が、明るい声で潘誕に報告を齎した。
「大きな浸水は有りません。急場作りの防水壁とは思えない程、見事な物です。」
それを聞いた潘誕は、ほっとしたように大きく息を吐いた。
「華真様の設計図のお陰だな。しかし...義兄上は怖ろしい方だ。土木技術にもこれほど精通しておられるとは....」
そう言いながら天を仰ぐ潘誕に向かって、鐘風が声を掛けた。
「それにしても...最初に此処に来た時は、何故こんな蟻地獄の底のような場所に市場街を作ったかが判りませんでした。防衛を考えれば、本来ならば、丘の上に作るのが常道です。それにも関わらずこのようにした事の意味を、今痛感しています。危急の際には、長江の水を使って防御する事を前提にしていたのですね。正に逆転の発想ですな。その為に、以前から丘の中腹に長江までの地下水路を掘って、準備を整えていたとは....。」
鐘風の声を聴きながら、潘誕はもう一度、華真から届けられた設計図に眼を落とした。
「元々の城壁にも、一応の浸水防御が施されていたようです。それは、河の氾濫が起こった時の備えだったようです。それと、長江から通してある地下水路ですが…。」
潘誕は、もう一枚の設計図を鐘風に示した。
「此方も、元々は氾濫対策用だったようです。水路は、丘陵の向こう側にまで掘り進めてありました。氾濫の時、増水した河の水を向こう側に逃すもののようです。」
鐘風は、設計図を覗き込みながら感嘆の息を吐いた。
「すると、防災用の備えを防衛用に転換して使ったという事ですか。直ぐにこのような策が閃くなど、やはり華真殿は普通ではありませんな。」
そんな鐘風の声を聞きながら、潘誕は気が抜けて行くような感覚に囚われた。
そうだよな….。普通じゃない。こんな事を、いとも簡単に考えつくのが俺の義兄なんだよな……… 。
潘誕は、思わず身震いをした。
そして、そんな華真を義兄に持つという自分が置かれた立ち位置に、底知れない恐怖を感じた。
その時、外を見張る兵から報告が入った。
「小舟が一艘、こちらに向かって来ます。」
「何、一艘だけか? 何者だ?」
城塞の上へと登り水面の先に手をかざした潘誕の横で、鐘風が大声を挙げた。
「あれは....。司馬の若殿です。他の仲間達も一緒ですぞ‼︎ 」
防壁の上から降ろされた縄梯子を伝って市場街に入った司馬炎は、潘誕の顔を認めると笑顔を見せた。
「潘誕殿。実にお見事です。正に、前代未聞の防衛策でしたな。」
市場街に入った司馬炎は、潘誕から今回の防衛策に使った設計図を見せられた。
「ふうむ…。しかし、この設計図は氾濫に備える為だけのものではありませんな。やはり華真殿は防衛をも頭に置いて、これを設計したようだ。」
潘誕は、不思議そうな顔で司馬炎を見詰めた。
「何故、そのような事が判るのです?」
「第一に、防災としても防衛としても、このような盆地の底に市場街を建設するなど、定石から外れている。本来ならば、丘陵の上に建設をするのが、防災上でも理屈に合っている。」
司馬炎にそう言われて、潘誕は成程と頷いた。
「第二に、河から呼び込む地下水路の設計です。これは、水を盆地に呼び込む水路と、丘陵の外に逃す水路が別々に設計されている。防災だけの為なら、盆地に水を呼び込む水路など不要の筈。これは、やはり防衛用ですね。」
潘誕は、司馬炎の洞察力に舌を巻いた。
設計図を見ただけで、そのような事が判るのか…。
「河の水を防衛に使う事は、最初から念頭にあったようですね。市場街というのは、大量の物産が集まる場所です。当然の事ながら、それを狙う山賊などの類には注意をせねばなりません。大勢の賊が一斉に襲って来る事態になった時には、守備隊だけで守り切るには不安があります。その時には、水を呼び込んで、地を泥濘に変えて、足止めをするつもりだったのでしょう。」
司馬炎の解説に、潘誕の横で鐘風も真剣な表情で聞き入った。
「しかし、まさか正規の軍が数千規模で押し寄せて来る事までは、如何に華真殿といえども想定はしていなかったでしょうね。だからこそ、潘誕殿に新たな指示が出たのです。」
それを聞いて、潘誕は華真の真意に思い当たった。
「つまり、単に地を泥濘ませるだけでなく、完全に水没させるには、もう一段強力な防水策が必要だと…。だから城壁の外周に、もう一層の防壁の建設指示がでたのですね。」
そう言って潘誕は、納得したように顔を挙げた。
「しかし、よくよく見ると、この面倒この上ない水路の建設。防衛と防災、この二つの他にもう一つの意図もあるようですね。」
その司馬炎の言葉に、潘誕と鐘風は顔を見合わせた。
「この上、更に何かの考えがあると言うのですか?」
「氾濫の逆です。旱魃が起きた時には、この水路を使って、周辺の田畑に水の補給をする事まで考えてあるようです。一連の水路の配置は、市場街だけではなく、周辺の地域全体を視野に入れています。この水路を使えば、此処に溜まった湖のような水を抜くのも、そう難しくはないでしょう。華真殿というお人。まことに常人にはない発想をお持ちの方ですね。」




