親父殿の来襲
司馬炎が、王沈達の進行を様々な手段を駆使して妨害している中、市場街の守兵を率いる潘誕は、兵達と共に市場街から少し離れた森に踏み行っていた。
「皆、徹夜続きで辛いだろうが、もうひと踏ん張りを頼む。」
潘誕の掛声に対して、周囲の兵達は力強い雄叫びで応えた。
兵士達は、全員が手に斧を持ち、森の中に聳える大きな樹樹に向かって必死に立ち向かっていた。
「潘誕殿。兵達は皆必死に頑張ってくれていますが、未だ木材が足りません。このままでは魏軍の到達までには間に合わないかもしれません。」
成都には、市場街が防衛の準備に入った情勢が、早足によって日日刻刻と伝えられていた。
「兵達は、皆が必死に頑張ってくれているようです。しかし総勢は百名足らず。切り出す木材が思うように集まりません。魏軍は歩兵のみとは言え、彼等の到達までに切り出しを終えるのは困難です。」
「切り出しだけでなく、街の周囲に木材で壁を巡らすにも、人手がかかります。百名の兵ではとても追いつきません。」
報告を聞いた華真は、思わず天を仰いだ。
「手配を誤ったか…..。今回の策、人手が必要な事は明白だった。せめて木材だけでも、別の場所から調達する手を講じるべきだった….。此処で、潘誕殿に二兎を追わせるような真似をさせるなど…。私は何をやっているのだ….」
その時、会議場に二人の警備兵が慌てた様子で入って来た。
何事かと振り返る一同に向かって、一人の兵が困惑した口調で報告を始めた。
「只今、飛仙の当主と名乗る方がやって来られました。直ぐに華真様に会わせろと仰っているのですが….。」
それを聞いた姜維が、苛立った声を挙げた。
「何を言っている。今の飛仙の拠点は遥か遠くの呉だぞ。そこにいる筈の当主が、この場所に姿を現す筈がないではないか。」
「それが….。我々(われわれ)も顔を見た事がある市場街の長が二人、同行して来ているのです。長達も、間違いなく当主様だと言っているのですが….。」
それを聞いた華真が腰を浮かした。
ほどなく、会議場に三人の人物が案内されて来た。
そのうちの二人の顔には、姜維と王平も見覚えがあった。
市場街を設立した際に、一番最初に挨拶の為に王宮を訪れて来た二人だった。
その二人の間に挟まれて部屋へと入って来た人物の風貌に、皆は眼を瞠った。
上等な布をふんだんに使った極彩色の羽織を纏い、総髪を派手な色彩の髪留めで後ろに束ねたその人物は、会議場に入るなり其処に集う重臣達を見回した。
そして、その中に華真の姿を見つけると、にたりと笑った。
その人物からの視線を受け止めた華真が立ち上がり、直ぐに拝礼した。
「これは親父殿….。暫くぶりでございます。しかし、相変わらずの出立ちですね…。」
その人物は、華真の傍に大股で歩み寄ると、いきなりぽんと華真の肩を叩いた。
「よう、久しぶりだな。たまに文は寄越すものの、家の方には全く顔を出すそぶりもない。仕方ないんで、俺の方から会いに来てやったんだよ。」
姜維は、華真の父という人物に改めて眼を向けた。
そして、困惑に満ちた表情になった。
華真殿の父上と言えば、大商家である飛仙の当主…。
しかも無類の本好きと聞いていたが、それらとは余りにかけ離れた風体と言動….。
本当にこの人が華真殿の父上なのか…?
すると華真の父は、今度は姜維に目を向けた。
そして、姜維と眼があった瞬間に流れるような動作で身を引き、優雅な拝礼を行って見せた。
「宰相閣下。我が愚息に、いつも手厚き御配慮を頂いている事、誠に恐悦至極で御座います。私、華真の父にして飛仙当主の華翔と申します。以後、覚えを賜りますように…」
姜維の横に居た王平は、ぽかんと口を開けた。
何なのだ、この人は….。
すると華真が、父に向かって声を掛けた。
「親父殿。何か喫緊の用件で来られたのでしょう。そうでなければ、親父殿がこのような現れ方をする筈はないですからね。」
そう問われて、華真に再び眼を向けた華翔は、言葉使いをがらりと変えた。
「お前、今困ってんだろう。何でも木材が足りないそうだな。」
父の言葉を聞いた華真の顔に、驚きが浮かんだ。
「なぜ親父殿が、そのような事をご存知なのですか?」
華翔は、左右に立つ市場街の長達を、交互に指差した。
「この二人から、何度もせっつくように知らせが来たんだよ。何でも、魏の軍勢が市場街に向かって来てるって言うじゃないか。市場街は、防衛準備の真最中らしいな。それでも思うように木材が集まってないって聞いてるぜ。」
「そこまでご存知でしたか。親父殿にまでご心配をおかけして、申し訳のない事です。」
頭を下げた華真に対して、華翔はいきなり怒鳴り声を浴びせた。
「馬鹿野郎。市場街っていうのはな、お前だけの智慧で産まれたもんじゃねぇんだよ。あれを最初に思いついたのは俺だぞ。あれは俺の夢なんだ。それを簡単にぶっ壊されてたまるかって事なんだよ。」
そう言いながら、華翔はぺろりと唇の端を舐めた。
「それにだな。今市場街にいる守備隊の隊長は、華鳥の亭主だって言うじゃねぇか。可愛い娘の亭主をみすみす危険に晒すなんて言うのは、義父の沽券が許さねえ。」
それを横で聞いていた王平が、そっと姜維の耳元で囁いた。
「このお方って、本当にあの大店の飛仙のご当主なんですか? 商家の旦那と言うより、まるでやくざ者の親分みたいじゃないですか。」
華翔にもう一度頭を下げた華真は、顔を上げるとじっと父の顔を見詰めた。
「そのように申されると言うことは、親父殿には何か考えがお有りなのですね。いや….。親父殿であれば、既に何かに手を付けていると拝察しますが….」
それを聞いた華翔がにっと笑った。
「お前が必要な木材、俺がなんとかしてやった。荊州の山に木こりの集団を集めて、切り出しはほぼ終わってる。後は長江の流れに乗せて、市場街の側まで運ぶだけだ。積み出しの手配も済んだんで、わざわざ知らせに来てやったんだよ。」
それを聞いて深く頭を垂れる華真に向かって、華翔が言葉を繋げた。
「もう一つ。木材を運んで来る連中だが….。市場街への運搬と、その後の作業にも使えるように話はつけて置いた。但し、お前が何をしようとしてるか迄は分からなかったからな。だから作業の内容を聞いた上で、報酬は相談してくれと言ってある。分かってるな。これから後の駄賃は、全部お前達持ちだぞ。」
「流石に親父殿です。しかしいつもながら、敢えて難しい事に挑もうとする心意気には、感嘆を禁じえません。」
華真の言葉を聞いて、華翔が肩を揺すった。
「未だ分かってねぇなぁ。見た目で難しい事っていうのは、手をつけて仕舞えば、そっちの方が後で後悔しないって場合が多いんだぜ。それを選ぶか選ばないかは、人それぞれの裁量ってもんだ。それにな…」
そう言うと、華翔は華真の顔を覗き込んだ。
「お前、宰相閣下の軍師なんだろう?」
いきなりそう言われた華真が、眼を瞬いた。
「さぁ、軍師かどうかは….。姜維宰相に、色々と進言はさせて頂いておりますが…..。戦についても、いくつか申し上げた事もありましたね。」
「馬鹿野郎。そう言うのを軍師って言うんだよ。軍師っていうのはな、勝つ為には使えるものは何でも使うもんだ。それが親であってもな。俺は、お前と華鳥が目指そうってものに対しては、何にも言わず助けてやろうって決めたんだ。それが分かっていながら、どうして今回は何にも言って来なかった?」
華翔からそう言われた華真は、俯いた。
「何分急な事でしたので、即座に親父殿のお顔が頭に浮かびませんでした。」
華真の言葉に、華翔が鼻を鳴らした。
「それが甘いって言ってんだよ。お前と華鳥。どうしてもやりたい事があるって言うんで、俺は家を出たお前らの後は追わなかったんだぜ。その後の文を通じて、お前らが何かどえらい事をやらかそうと考えてる事を知った。しかも、それが世の為、人の為って書いてあったのを見た時、俺は震えたね。流石に俺の子供達だと涙が出た。それなのに肝心要の所で、俺に頼って来ないのはどう言う訳だ。例えしくじっても、俺が無くすのは飛仙の身代一つだけだ。しかしお前らが決めた目的の後ろでは、何百万もの人間が待ってるんだぜ。それの為なら、平気で親ぐらいは使いやがれ。」
そう言った華翔は、再び姜維に拝礼した。
「宰相閣下、華真を買い被るのはほどほどにした方が宜しいでしょうな。こいつには、未だ肝心な時に抜けている所がある。」
返答に躊躇する姜維の横で頭を下げたままの華真に、華翔が言った。
「危うく言い忘れる所だった。言葉だけの礼はいらねえよ。そうだな….。華鳥に言っておいてくれ。華鳥の亭主になった男に、俺のかかぁと爺さんが、先日とんでもなく美味いものを馳走になったと聞いた。俺が留守でいない間にな。今度俺がこっちに来る時には、俺が腰を抜かすような料理を出せ…..。そう伝えてくれ。」
そう言うと、華翔は踵を返した。
大股で会議場を出る華翔の後姿に、華真はずっと頭を下げ続けていた。




