司馬炎の妨害
魏軍を率いる総大将の王沈は焦っていた。
「夏侯舜の軍は、未だ追いついて来ぬのか? 自分達を統率する夏侯舜は先行して出発していると、確かに知らせたのであろうな?」
「それは確かです。私自身が副将に会って、直に知らせました。」
側に控える自軍の副将の言葉に、王沈は更に苛立った。
「ならば、何故来ぬのだ? あの軍は総勢ニ千。今回の作戦に反対した夏侯舜を投獄した事が、その部下達に知られるのは何より拙い。だからこそあの軍は長安より引き離さねば危険だと判断して、出兵を命じたのに...
王沈の苛立ちを間近にした副将は、返す言葉が見つからずに沈黙した。
「しかも、あやつらには兵站の輸送も命じておるのだぞ。前線に立たせる事は危険と見たから、後方で兵站を命じたのだ。奴らが運ぶ食糧が来なくては、何かあれば途中で干上がってしまうではないか。」
そこでようやく、副将が王沈の苛立ちを鎮めるように声を発した。
「夏侯舜の軍が、急ぎ出動準備に取り掛かるところ迄は、見届けております。兵站の運び出しに手間取っているのでは有りますまいか?」
其処に、行軍の先頭から一人の兵が駆けつけて来た。
「王沈様。大変です。あれをご覧下さい。」
兵が指さす前方には、空に立ち昇る黒い煙が見えた。
「何だ、あれは?」
「この先の街道脇の草原と林が燃えております。野火が発生したと思われます。風によって火の勢いが強まっております。我等の居る場所は風下です。火が収まるまで、一旦兵を引かねば危険です。」
兵からの報告を受けて、王沈の苛立ちはさらに募った。
「ええい...このような時に何という事だ。やむを得ない。一旦五里ほど下がり、谷間の間道を行くしかあるまい。全軍を反転させろ。元の道を戻るのだ。」
こうして魏軍は、已む無く元の道を戻る事になった。
街道から峡谷の間道に道が分かれる地点まで、兵達は一日をかけて引き返した。
そして一列縦隊となって、谷を下に見る間道を進み始めた。
しかし五里ほど進んだ地点で、行軍の動きが止まった。
「どうした? 何故前に進まぬのだ?」
隊列の中央にいた王沈が、また苛立った声を発した。
「この先の道が、崖崩れの為に塞がっております。道を塞ぐ岩を取り除く作業を行います故、暫くお待ち下さい。」
道を開ける作業は、思いの外に難航し、遂には日が暮れた。
魏軍は、峡谷の細道で立ち往生したまま野宿を強いられる事になった。
兵達は道端に座り込み、腰に付けた携帯の干し肉を齧りながら夜を過ごした。
「なぁ、携帯食糧は、もう残り僅かだぞ。このままで、この先は大丈夫なのか?」
一人の兵が不安そうに呟く横で、別の兵が言った。
「食糧を運んで来る部隊が、後ろから来るって言う話だ。それ迄の辛抱だ。」
しかし翌日になっても、後続して来る筈の夏侯舜の部隊は、いっこうに姿を見せなかった。
「此れは変だ。後方に斥候を出せ。夏侯舜の軍が何をしてるかを、確認に行かせるのだ。」
峡谷の間道を抜け、漸く街道に戻った魏軍が左右を林に囲まれた地点に達した時に、事件が起きた。
軍靴の響きが林道に木霊する中、突然に隊列の後方付近で悲鳴が上がった。
その悲鳴に気付いた王沈が後ろを振り返ったその時.....。
街道の左右を囲む樹林が、一斉に轟音を響かせて揺れ、折れた木々が魏軍の頭上から降りかかって来た。
数十人の兵が大木の下敷きとなってもがく姿が、王沈の眼に映った。
「此れは、どうした事だ!! 」
下敷きとなった兵達の救出に向かった一人の兵が叫んだ。
「何れの木にも切れ目が入れられている。 」
それを聞いた王沈が歯軋りをした。
「おのれ、我等の行軍を、妨害しようとする輩がおるな。」
その時、前方から一人の兵が王沈の元に駆け付けて来た。
「林の出口で、木々が積み上げられて道を塞いでおります。しかも、その先の道ではずっと先まで鉄ビシが撒かれていました。靴によっては、怪我をする者が出ます。暫くの間は、街道は避けた方が宜しいかと…。」
その報告に、遂に王沈の癇癪が弾けた。
「何者の仕業なのだ? すると、あの野火も崖崩れも、人為的な物だな。そうか....。蜀が我等の進軍に気付き、先発隊を送って来たのだな。此処で我軍の行軍を遅らせ、蜀本隊の到着までの時間稼ぎをする積りなのだな。そう思う通りにはさせぬ。横の草原を抜けるのだ。周囲には充分に注意を払え‼︎ 」
そして魏軍は、林の出口から右側に広がる草原に踏み込んだ。
全軍が草原に踏み入り前進を始めた時、軍の前方で大きな声が上がった。
「向こう側から、何かが来るぞ‼︎」
前方の草叢辺りで地響きが轟き、軈てその正体が姿を現した。
「あ、あれは...猪の群れではないか!! しかも数は無数!! それに…..頭に松明が括られている!! 遮二無二こちら目掛けて突っ込んで来るぞ!! 」
「避けろ‼︎ 猪共をやり過ごすのだ‼︎ 」
その叫び声を聞いた魏軍兵達は一斉に左右に散り、猪群の進路を開けた。
ところが、目の前の進路が林で塞がれているのを眼にした猪達は、各々が勝って気儘な方向に向かって突進を始めた。
先頭の何頭かが、頭に括られた松明の熱さに怒り狂って暴走した。
すると後にいた猪達もそれに続き、魏軍兵達に向かって凄まじい勢いで突っ込んで来た。
荒れ狂う猪達に、兵達が武器を構えて必死に応戦した。
漸く猪達が去った後、草原のあちこちには傷つき地に這う多く兵達の姿があった。
「何という事だ….」
其処から離れた場所で副将と共に立ち尽くす王沈の側に、馬に騎乗した二人の兵が駆け寄った。
そのうちの一人は、王沈に命じられて、後方に向けて斥候に出された兵だった。
「王沈様、夏侯舜殿の軍は、此方には向かってはおりません。長安に留まっているとの事です」
「な、何だと!! どう言う事だ…」
その時、もう一人の兵が報告の声を挙げた。
「私は、長安より、此処まで駆けて参りました。途中でこの斥候の者と出会ったのです。長安は、既に夏侯舜殿以下、多くの将軍達の軍勢によって占拠されております。長安に残った我が軍勢は、多くが投降しております。賈充殿は、騎馬隊と共に長安から脱出され、此方に向かっておられます。」
「そ、其れは一体どう言う事なのだ….」
報告を聞いた副将が声を詰まらせると、王沈がいきなり二人の兵に向かって剣を奮った。
血煙を挙げ、地に倒れる二人の兵を見て、副将が絶句した。
「お、王沈様。な、何をされるのです!! 」
王沈は、剣の血を拭いながら副将に向き直った。
「これは反乱だぞ。夏侯舜が、他の将軍達を扇動して我等に刃を向けたのだ。夏侯舜軍だけでなく、他の将軍の軍も一緒に挙兵したとなると、反乱軍の数は二万を越えておる筈だ。」
そう言った王沈は、副将を睨みつけた。
「この事、我等の兵達に知られてはならぬ。知られれば、逃亡する者が続出する。こうなれば、我等が為すべき事は只一つ。此方に向かっている賈充殿の軍と共に、一刻も早くあの市場街を攻略する事だ。彼処にある食糧さえ手に入れば、兵糧の少ない長安の兵達には十分に対抗出来る。我等が生き延びる道は、それしかないのだ。夏侯舜が、自分を罠に嵌めた我等を許す筈がない。その事は、お前も判っておろう。」
王沈の言葉を受けた副将は言葉を呑み、軈ておずおずと問いかけた。
「し、しかし...囚われる前の夏侯舜が言っていたように、奴らが呉か蜀に食糧の供出を求めた場合はどうなるのです?」
そんな副将に対して、王沈は吐き捨てるような言葉を浴びせた。
「そのような申し出、呉も蜀も受ける筈がなかろう。長安で反乱が起こったとなれば、その機会に乗じて魏に攻め入ろうとするのが当然ではないか。それが解っておりながら反乱を起こすなど...。夏侯舜も他の将軍共も、先の事など露ほども考えて居らぬのだ。」




