夏侯舜の捕縛
蜀の成都では、潘誕と華鳥が、郊外の林で散策の歩みを進めていた。
「華鳥様、お疲れではありませんか? 今日は随分と遠出をしましたから...」
言葉をかけて来た潘誕を、華鳥が睨んだ。
「いい加減に私への華鳥様と言う物言いはお止め下さい。貴方様は、私の御主人様なのですよ。可笑しいではありませぬか。」
華鳥に睨まれた潘誕は、頭を掻いた。
「いや、そうは言われても...。俺自身が、今も夢の中にいるようです。ましてや周囲の者は、未だに半信半疑です。あの華鳥様のような方が、俺みたいな男の妻になる筈はないと….。そう皆が言ってます。姜維様と華真様が、また何ぞ新しき策を講じているのでは...と言うのが専らの評判ですよ。」
それを聞いた華鳥が、小さく嘆息した。
「まぁ、そのような事が...。それでは、そのような噂は早く消さねばなりませんね。」
「噂を消すって.....どうやって....?」
潘誕の言葉に、華鳥は顔を挙げた。
「決まっているでは有りませぬか。私が、一日も早く貴方様の子を授かる事ですよ。」
それを聞いた潘誕は、思わず華鳥を懐に抱き寄せた。
「俺、頑張ります。今晩も、明晩も....」
潘誕に力強く宣言されて、華鳥は頬を赤らめた。
「そのように明け透けに言われては、私の方が照れてしまうではありませんか。でも今日の今から、様付けで私を呼ぶのはおやめください。私は、貴方様の妻の華鳥です。」
そう言いながら、華鳥はふっと潘誕を見上げた。
「そう言えば、貴方様の次の任務は、あの市場街の守備隊指揮ではなかったですか…..?」
「その通りですよ。何か気になる事でもありますか?」
「いえ……もしかするとですが…..。私の父が、その頃に市場街を訪れるやもしれません。」
そう言いながら、華鳥は心配気な視線を潘誕に向けた。
「それは….大問題ではありませんか!!。お義父上にお会いする可能性があるのですね。お会いした時、気をつければならない事を教えて下さい。」
興奮に声が上擦る潘誕に向けて、華鳥は首を振って溜息をついた。
「事前に貴方様に何をお伝えしても無駄です。前もって何か準備などしても、通用する人じゃないんです。とにかく変人ですから……」
王宮の茶房では、姜維が華真と王平と共に、卓を囲んで茶を啜っていた。
「王平殿。最近の潘誕殿の様子は如何です? ちゃんと家には帰っていますか?」
華真の問いを受けた王平は、苦笑いした。
「ちゃんと帰るも何も....。調練が終わり日が暮れると、何時も一番最初に兵舎を出て、飛ぶような足取りで帰って行きますよ。あいつには、南方から来た新兵達を預けているんですが....。調練はきっちりやりますが、夜の酒付き合いは、俺の役割です。」
「仲が良いのは結構な事です。華鳥は料理の腕はからきしですが、裁縫などは中々ですからね。最も本人は、これは手術の為の手技の訓練だと嘯いていますが…。何れにしても、出戻られては困りますから...。」
すると、それまで二人の話に耳を傾けていた姜維が顔を挙げた。
「そう言えば、最近王宮の女官達の眼の色が違う事に、華真殿は気がついてますか?」
「ほぅ。何かあったのですか?」
すると姜維は、揶揄うような目付きになった。
「華鳥殿が、潘誕に嫁いでからですよ。華真殿も華鳥殿も、身分になど拘らないと判って、華真殿の事が急に気になり出したようです。」
そんな姜維の視線を受けた華真が、首を捻った。
「私も華鳥も、商家の出ですよ。儒家の教えでは、士農工商の一番下です。身分に拘る立場ではないでしょう。」
「貴方は、何事もなさ気にそう言いますが、今や華真殿が蜀の重鎮である事は、誰もが知ってます。しかも絶世の美男だ。年頃の女官達が、もしかしたら玉の輿と夢見るのも仕方ないでしょう。我等が飲んでいるこの茶ですが、若い女官達が準備してくれたものです。お陰で我等も相伴に預かれます。」
姜維にそう指摘された華真は、初めて気が付いたという表情になった。
「それは有難い事です。しかし、私自身はまだ妻帯などする気など全くありませんが....。ならば、余り気を持たせるような言動は慎まねばなりませんね。
全く何も気付いていなかった様子の華真に、姜維と王平は呆れた表情を見せた。
「本当は、華真殿が誰か一人を早く決めて仕舞えば、他の者は諦めるでしょうに...。まことに罪なお方ですな。」
そう言う王平の言葉を聞きながら、姜維は思う。
この人は、女人の事など、全く興味の外なのだな……。
そう思いながら、姜維はその場を収めた。
「まぁ人を揶揄うのは、この辺りにして...。ところで、一番気になる呉の情勢はどうなっておるでしょうな。志耀様はどうされているか?」
姜維の言葉に、王平がほわんとした口調で口を挟んだ。
「華真殿は、直ぐに呉は志耀様の下で治まる...と言われてましたよね。もうそろそろ朗報が届くのではないですか….」
そんな王平を見て、華真は穏やかに笑う。
「呉も詰まらぬ諍いをしている時ではないのです。皆がそれを判りながら、先に進めない状態なのですよ。出るべき方が出てくれば、直ぐに纏まるでしょう。王平殿の言われる通り、近いうちに志耀様より知らせが届くでしょうね。」
そう言った後、華真は少し声音を強めた。
「それよりも魏の方が心配です。孫家という柱石のある呉とは異なり、魏は、今や群雄割拠ですからね。」
「そうですな。夏侯舜殿に司馬炎殿が付いたと言っても、夏侯一族の力はかなり墜ちてますからね。今の魏は、そう簡単には治りますまい。」
姜維の言葉に、華真が眉間の皺を深くした
「もう一つ心配があります。今年の作物の不作です。特に夏の降雨が少なかったのが、中華でも北方に位置する魏の地域。放っておけば、大飢饉で農民の一揆が頻発します。そうなると、無理にでも呉蜀へ攻め入って来る危険があります。」
長安の近郊にある隠れ屋敷に住む司馬炎の元に、遂に待望の知らせが届いた。
呉に忍ばせていた配下の一人が、走りに走り息も絶え絶えになりながら屋敷に駆け込んだのは、未だ暗闇が勝る明け方の頃だった。
「そうか‼︎ 志耀様が、呉の新帝となられたか‼︎ 此れで新しき世の曙が訪れるぞ‼︎ 」
そう叫んで拳を握る司馬炎の元に、別の間諜が走り寄った。
「長安の王宮に、不穏な動きがあります。」
それを聞いた司馬炎は、急ぎ馬を走らせて夏侯舜の館へと駆け付けた。
司馬炎の前に姿を見せた夏侯舜は、参内の正装を身に付けていた。
「王宮の周囲に、軍が集結しているとの報告を受けました。何があったのです?」
司馬炎の顔を見た夏侯舜は、苦苦し気に口を開いた。
「賈充殿と王沈殿が、出兵の布告を出した。その行先ですが....何処だと思いますか?あろう事か、荊州と蜀の境にある市場街です。あの二人は、その市場街を侵略しようと言うのですよ。」
夏侯舜の言葉を聞いて、司馬炎の顔に緊張が走った。
「それは....掠奪ではありませんか。市場街というのは、商いの為の施設で、戦のためのものではありません。飢饉で魏の米倉が底を尽く恐れがあるとは言え、山賊のような真似をしようとしているのですか? それと、貴方様のその格好はどうしたのです?」
「至急に王宮に行き、このような馬鹿な真似は中止するように説得する。このままでは、魏は盗賊の類に成り下がる。」
そう言った夏侯舜は、司馬炎をその場に残して足早に去って行った。
、
司馬炎は、側に控える供の者を振り返った。
「これは拙い。夏侯舜殿の気持は判るが、事が此処まで至ってしまっていれば、賈充と王沈が今更引き返す事などあり得ぬ。夏侯舜殿は、直ぐに拘束され、投獄されるだろう。更に言えば、これは夏侯舜殿に仕掛けられた罠の可能性もある。お前は直ぐに屋敷に立ち返り、仲間達を集めよ。五人ほどは夏侯舜殿の救出に。そして足の早い者を成都と建業への急使として向かわせよ。残りは私と共に荊州に向かう準備をするのだ。」
王宮に向かった夏侯舜は、直ぐに賈充と王沈の所に赴いた。
「何という事をされるお積りなのです。正々堂々と軍同士の戦を構えるのならまだしも、商人達の集まる市場街を襲おうなどとは...。これでは夜盗と同じではありませぬか。魏の誇りは、何処に行ってしまったのですか?」
そう言って詰め寄る夏侯舜に、賈充と王沈は顔を蹙めた。
「何をしに来たかと思えば…。お前、そのような戯事を言うのか。」
王沈は、夏侯舜を睨みつけると、吐き捨てるように怒鳴った。
「我が軍の米倉がどのような状態にあるか、お前には判っておるまい。飢饉によって、今秋の徴税の米は例年の半分も集まるまい。このままでは冬の間に、米倉が底を尽くのは必定。それが判っているから、調達に行くのだ。」
夏侯舜は、呆れた表情になった。
「それならば外交を持って、蜀か呉に、米の供出を求めれば良いではありませぬか。それもせずに、このような真似をされるなど、愚かとしか言いようがありませぬ。」
王沈の顔が、怒りでみるみる歪んだ。
「愚か者は、お前の方だ。何故魏が、呉や蜀に頭を下げねばならんのだ。それこそが国の沽券に関わるではないか。あの市場街には、我軍がゆうに一年は喰いつなげるだけの糧食が集まっているのだ。それを指を咥えて見逃すなど、それこそがあり得ぬのだ。」
大声を張り上げる王沈の横で、賈充もその通りとばかりに頷いた。
夏侯舜は、目の前の二人を睨みつけた。
「お二人は、軍だけでなく魏の国を導く責任があるのですぞ。国を導く立場の者が、自ら掠奪に手を染めるなど以ての外です。そのような事で、部下や民が付いて来る筈は有りませぬ。貴方達の言葉には、国を正しく導く志が見えませぬ。」
王沈と賈充が夏侯舜を睨み返し、警護兵に向かって合図をした。
「何を綺麗事を言っておる‼︎ 一介の将軍の風情に、そのような事を言われる筋合いはない。既に没落した一族の男が我等に意見をするなど、それこそが以ての外だ。」
合図と共に、警護兵達が夏侯舜を取り囲んだ。
「此奴を捕縛せよ‼︎ 地下の牢獄に押し込めておけ‼︎」
両腕を背後に締め上げられた夏侯舜は、その場から警護兵達によって連れ出され、そのまま王宮地下にある牢獄に連行された。
「お前達‼︎ このような理不尽な命令に従うのか‼︎ 魏軍の誇りは何処に行ったのだ。」
声を張り上げる夏侯舜を抑え込みながら、兵の一人が小さく答えた。
「将軍の仰る事は尤もとは思います。しかし今の我等は命令に逆らう事は出来ぬのです。お許し下さい。」
その声と共に、夏侯舜は牢の中へと押しやられ、鍵が架けられた。
「若殿。どうしますか? 今から急使を送っても、成都に着くまで十日以上は掛かります。それから蜀が救援の兵を仕立てても、魏軍より先に市場街に到着する事は不可能ですぞ。」
その時司馬炎は、出立の準備を急いでいた。
報告を受けた司馬炎は、即座に指令を放った。
「鐘風。お前は五人ほどを率いて先行しろ。長安からあの市場街に達するには、長江を渡らねばならぬ。その道筋を先回りして、大河を渡す橋の全てを焼き落とすのだ‼︎ 」
鐘風と呼ばれた男は、司馬炎からの命令に頷くと、更に尋ねた。
「それで....。若殿は、今から何をされるお積りですか?」
「魏軍の行軍の道筋のあちこちに罠を張る。軍の進行を止める事は出来ぬが、時間は稼げる。その間に蜀軍と、救出した夏侯舜殿が動いてくれる事を祈るばかりだ。お前達は、先に市場街に入り、其処で防衛の支援に付け。」
司馬炎の言葉を受けた鐘風は、一礼すると風のように姿を消した。
長安王宮の地下牢に投獄された夏侯舜は、夜の闇の中で石畳の床に端座して宙を見据えていた。
「迂闊だった。あの賈充や王沈に国を司る為の志など無い事には、既に気付いておりながら...。しかしまさか此のような愚行に及ぶとは...」
切歯扼腕する夏侯舜がふと気付くと、牢の外に蹲る黒い影が見えた。
「何者だ‼︎」
闇の中、黒尽くめの男が顔を挙げた。
「お静かに。大声を挙げてはなりませぬ。」
その男は、牢の鍵に手を掛けると、懐から細い針のような物を取り出した。
そしてそれを鍵穴に差し込み指先を細かく動かすと、軈て錠が開く小さな音が闇に響いた。
牢の扉を開けた男は、入口に顔を覗かせた夏侯舜に囁いた。
「司馬の若殿の命によって、貴方様の救出に参りました。直ぐにここから逃れるのです。」
夏侯舜は、直ぐに立ち上がると牢を出て、黒装束の男の後に従った。
地下牢の出口では、同じ黒装束の四名が夏侯舜達を待ち受けていた。
男達の側には、数人の見張りの兵が床に崩れ落ちていた。
床に倒れた兵達を見た夏侯舜が、顔を硬らせた。
「殺したのか?」
「痺れ薬で眠っているだけです。この先の通路でも何人か倒れてますが、皆同じです。殺生はしておりませんのでご安心下さい。」
「お主達は、司馬炎殿の配下と言ったな?鮮やかなものだ。しかし、これから何処に行くのだ?」
そう尋ねた夏侯舜に、先頭の黒装束が答えた。
「夏侯舜殿の軍が集まっている陣営です。賈充達が招集を出しています。貴方様は既に先行したとの偽りの情報が、兵達には知らされています。賈充達は、貴方様の軍をこのまま荊州に出兵させる気です。」
「それは、一体どういう事なのだ?...」
「今回の招集を受けたのは、賈充と王沈の麾下以外では、貴方様の兵達だけです。他の将軍達には、何も知らされてはおりません。」
そう告げられた夏侯舜が、首を捻った。
「何故だ? 俺の兵達だけが....」
「貴方様は嵌められたのですよ。今回の出兵に最も強硬に反対するのは貴方様だと、賈充も王沈も判っていたのです。だから貴方様だけを王宮におびき出したのです。そして貴方様を拘束した上で、偽りの情報で兵達を荊州に向かわせるように仕組んだのです。今回の謀略が失敗した場合は、貴方様を殺して責任の全てを貴方様に被せる積りなのです。」
「何という卑怯者共だ!! それで、司馬炎殿はどうされているのだ? 」
「手勢を率いて、王沈が指揮する軍勢に先駆けて、荊州に向かわれております。彼等の進軍を妨害して、時間を稼ぐ為に。蜀へは既に急使が出立しました。貴方様は、麾下の兵達の元に行き、兵達を率いて長安に残る賈充を討ち果たすようにと....。此れが若殿からの伝言です。」
それを聞いた夏侯舜は、大きく頷いた。
「さすがに司馬炎殿だ。僅か短時間で、彼奴らの謀略を見抜き、既に行動に移っているとは...」
感嘆の声を発する夏侯舜の耳元に、黒装束が口を寄せた。
「それともう一つ伝言が...。『呉は、既に治った』と...。」
それを聞いた夏侯舜は、思わず拳を握った。
「分かった。時が来たと言うのだな。」
馬を疾駆させた夏侯舜は、自分の麾下の軍勢が集まる宿営へと駆け込んだ。
夏侯舜の姿を見た副将が眼を瞠った。
「将軍...? 何故、此処におられるのです?」




