華真と華鳥
姜維は一つ嘆息をすると、自らを励ますように前を向いた。
「ここで泣き言を言っても始まらんな。しかし黄皓という奴。僅かな期間で、帝だけでなく、宮中の文官達を悉く篭絡させるとは...。甘く見すぎていたな。このままでは不味い。ぼやぼやしてはおられんな...。...ところで王平。顔色が優れんな...何処か悪いのではないのか?」
姜維の問いに対して、王平はぐっと下腹を抑えた。
「数日前から、下腹が痛むんですよ。でも大丈夫です。薬も飲んでますから...。」
王平はそう言いながらも、顔を蹙めた。
二人が、姜維の屋敷に着いた時、門番に立つ兵が二人の姿を認めて駆け寄って来た。
「姜維様、来客が来てます。何でも御約束だとか...」
門番の言葉に、姜維は首を捻った。
「来客...? はて...今日は、そんな予定はない筈だが...。名前は確認したか?」
「いえ...。でも諸葛亮孔明様の所縁の者だと言っていました...。それと、客は二人です。若い男と女。何方も気品のある雰囲気で...。女の方は、飛び切りの美人ですよ。」
姜維は、門番の言葉に首を傾げながら、王平と共に客間に入った。
客間では、若い男女が背筋を伸ばした端麗な姿勢で、座脚に腰を下ろしていた。
二人共、庶民の着る麻服ではなく、絹の正装を纏い、手には扇子まで携えていた。
男は、涼やかな切れ長の両眼に知性溢れる光を湛えた青年で、女の方は、門番の言う通り、大きな瞳を輝かせた絶世の美女だった。
二人の男女は、姜維と王平を認めて立ち上がると、丁寧に拝礼した。
「何処のお方かな? 孔明先生の所縁という事だが...?」
そう尋ねる姜維に向かって、いきなり青年の声が飛んだ。
「宰相殿。宮中に行かれていたのでしょう? 無駄足だったようですね。今の宮中に宰相殿の言葉に耳を貸す者など、一人としていなかったでしょうね。」
今日の拝謁の状況を、初見の相手からいきなり的確に言い当てられたことで、姜維の頭に血が上った。
「いきなり、不躾な物言いですな。これでも私は蜀の宰相を拝命している身。その私に対して、あまりに無礼ではないか。見たところ、それなりの身分の方々らしいが、先ずは名前を名乗られるのが礼儀でしょう。」
むっとした顔付きを見せた姜維に向かって、男はすぐに頭を下げた。
「これは失礼致しました。私は、飛仙亮華真と申します。此方は、私の妹の華鳥です。」
青年の口調と洗練された仕草を見て、姜維も言葉を改めた。
「それで...貴方達は、孔明先生とはどのようなご関係ですか? 」
姜維の問いに対して、華真と名乗る青年は信じられないような事柄を口にした。
「私は、諸葛亮孔明の生まれ変わりです。孔明の意志によって、私達は、貴方様を助けに参ったのですよ。」
その言葉に、一瞬息を呑んで絶句した姜維の横から、王平が怒鳴った。
「何を戯けた事を...。孔明先生が亡くなったのは、五年前だぞ。その時には、もうお前は生まれているだろうに。それを生まれ変わりなどと...。」
王平の顔は真っ赤に染まり、怒り心頭に達している様子が窺えた。
そんな姜維と王平の二人の様子を確かめるように見た華真が、もう一度口を開いた。
「お二人には、俄かには信じがたい事でしょうね。王平殿の言われる事は正しい。そうですな。正しく言えば、生まれ変わりというより、孔明の魂が私に宿ったのです。病で肉体を失った孔明の魂が、次の身体として私を選んだのですよ。」
華真の言葉を聞いた王平が、益益顔を充血させた。
「ええい、訳の分からぬ事を...。貴様ら、俺たちをからかいに来たのか!」
「ふふ...王平殿は相変わらずですね。普段は冷静なのに、理解し難い出来事を前にすると、混乱して激昂する。いつぞや孔明が、貴方に新兵器の弩弓を初めて見せた時もそうでしたね。弓矢がこんなに遠くまで届く筈がない...と言って。」
華真の言葉を聞いた王平が、動揺するように後ずさった。
「な、何故、そんな事を知ってるんだ?」
「言ったでしょう。私は孔明の魂を宿しているのです。孔明が貴方と話した事や、一緒に行なった事なら、何でも知っていますよ。」
華真の言葉に、暫く立ち尽くしていた姜維と王平だったが、軈て姜維がつと立ち上がると、客間の奥にある戸棚に歩み寄った。
そして中から文箱を取り出し、暫く中を探すように改めると、やがて一巻の竹簡を手に取り、再び華真に歩み寄った。
「これが何か、貴方に解りますか?」
その竹簡を一瞥した華真は、思わず破顔した。
「あっはぁ‼︎ これは...私が...、いえ孔明が貴方に一番最初に出した課題ですね。このようなもの、後生大事に持っておられたのですね。」
それを聞いた姜維の顔が、驚愕で歪んだ。
「そ、それでは....その課題の解は...? それがお判りですか?」
「勿論ですよ。貴方は、これを解くのに三日を要しましたね。それでも正解に辿り着いたのを見て、私は貴方の才を確信したのです。」
そう言うと、華真はある軍略を、淀みなく語り始めた。
それを聞く姜維の顔色が、最初は蒼ざめ、次第に紅潮して行った。
そして遂には両眼から涙を溢れさせながら、華真の足元にひれ伏した。
「孔明先生なのですね? いや、真に孔明先生に間違いない。お久しゅう御座いました。私はどれほど先生にお会いしたかった事か...。先生を失って、どれほど辛かった事か....」
跪く姜維の肩に手を添えた華真は、立ち上がるように促した。
そして、改めて姜維と王平に向き合うと、穏やかな口調で、不思議な物語を語り始めた。
姜維殿、王平殿。
私は、孔明の魂を宿してはおりますが、孔明そのものではありません。
私と華鳥は、長安の商家に生まれた兄妹です。
幸い家はそれなりの資産に恵まれておりましたので、二人共幼い頃から、様々な書に親しんだり、学問を学んだり出来る環境で育ちました。
それ故に、これまでの三国の歴史についても、多くの情報を持てる立場にあったのです。
そうした情報を通じて、私は二人の軍師に魅せられました。
諸葛亮孔明と司馬懿仲達です。
これほど先を見透せる者が二人、同じ世に存在している事に、感動を禁じ得ませんでした。
商人生まれの身ながら、この二人の持つ天下を導く才に憧れたのです。
五年前の事です。ある夜、寝所で横になっていた私は、胸元にただならぬ気配を感じて、眼を覚ましました。
何かにのしかかられているような気配に思わず声を挙げると、突然胸元の空間に、白く輝く光の珠が現れたのです。
その光の珠は、最初は掌に掬い取れるほどの大きさでした。
しかし見詰めているうちに、それは大きさを増し、私の視界一杯に膨らんで行きました。
やがて珠の表面に人の顔が浮き出して来ました。
それは長い髪を簪できっちりと結い上げた壮年の男性の顔でした。
彫刻のように整った容貌と、驚くほどに澄んだ瞳の持ち主でした。
その人は、真っ直ぐ私と視線を合わせてきました。
私は、いきなり眼の前に現れた光の人物に茫然としましたが、不思議に恐怖は感じませんでした。
その人は、私の眼に恐怖の色がない事を確認した後、一度軽く頷くと私に向かって語り始めました。
『華真よ。私は蜀の国の人間で、諸葛亮孔明と言うものだ。お前のような者をずっと探し求め、西からずっと、此処まで彷徨って来た。今、天下は、再び混沌へと戻っている。この世を鎮める者が必要だ。お前なら、世を鎮める手助けが出来るだろう....』
諸葛亮孔明という名を聞いて、私は自分の心臓の鼓動が高まるのをはっきりと感じました。
あぁ、この人が、あの孔明なのか…。
ただ、孔明と名乗る人物から私に向かって発せられた言葉の意味が良く理解出来ず、返す言葉も見つからないまま、暫く逡巡していました。
孔明と名乗る人物は、一旦言葉を閉ざしたまま、じっと私の反応を窺っている様子です。
そこで、私は思い切って尋ねました。
「貴方が、あの有名な孔明先生なのですか? ご高名は良く存じています。それだけでなく、私の憧れでもあります。しかし、貴方はつい最近亡くなったと聞き及んでおりますが、何故私の前に姿を見せられたのですか?。それと先ほどの言葉は、どういう意味なのでしょうか?」
私の問いに、光の人物の表情が和み、薄っすらと微笑むのが分かりました。
『そうか? 私を知っていたか?そうでなくてはならぬな。何故なら、お前は此の世に光を与える為に生まれてきた者だからだ。人は己の欲だけで動いてはならぬ。衝動のみで生きてはならぬ。その為には、人の人たる道を説く仁者がおらねばならぬ。ただ、それはお前自身ではない。しかしお前は、その仁者を支える事ができる。それがお前が生まれた意味だ。私は、お前にそれを成し遂げる力を与えよう。これから、お前は私と一体となり、その使命を果たすのだ。』
その声と共に光の珠は霧に変わり、私の口元から、私の体内へするりと入り込んで来たのです。
私はあまりの不思議さに、暫し茫然としておりましたが、ふと気付くと寝所の入口に人影が見えました。
それは妹の華鳥でした。
光の霧を体内に宿したばかりの私に向かって、華鳥は言いました。
「その人...さっき私の所にも来た。私が眼を覚ますと、『兄の寝所へ行け。そして兄の変化を見届けよ』と告げたのよ。」
「今のは、夢ではなかったという事か...。しかし何故、あの人はお前の所にも現れたのだろうか?」
「その人に言われたわ。兄さんを助けろって...。これから兄さんと一緒に、世の為に尽くせって...。」