張昭の息子
「それで...建業に着いたら、先ずは何処に行けば良いだろうか?」
志耀の問いに対して、呂蒙は全ては考え済みとばかりに自信の表情を見せた。
「若様は、私と一緒に、大司書の張休殿を訪ねましょう。陸遜殿には、大史享殿の所へと赴いて貰います。」
呂蒙の言葉を聞いた志耀は、すぐに合点が行った表情になった。
「ほう...張休殿と言うと、建国の知恵袋と言われたあの張昭殿の子息だな。大史享殿は、今は水軍の大提督だ。成程、いきなり急所を突くのか...」
「さすがご明察です。時間がありませぬからな。」
建業に入った志耀は、呂蒙と共に街の中心を通り過ぎ、官僚の邸宅が建ち並ぶ住宅地へと歩を進めた。
「以前こちらに来た時に比べて、随分と街の活気が無くなっているな。店先に並ぶ品々の数もめっきり減っていたな….」
顔を曇らせる志耀を、呂蒙が振り返った。
「それは国境が物騒になっており、物産を運び難くなっているからです。盗賊に荷を奪われれば、全てを失う。そんな危険を冒したくない商人が増えているのです。」
「華鳥の姉様達も、呉に入る際には、二度も山賊に襲われたと言っていたな。このままでは国は寂れる一方だな。此れは呂蒙爺の言う通り、時間がないな。一刻も早く国の政を立て直し、治安も取り戻さねばならぬな。」
やがて二人は、古びた塀に囲まれた一軒の屋敷に辿り着いた。
呂蒙が厚い樫の門を叩くと、程なく閂を開ける音が響き、門の内側から門番らしき男が顔を覗かせた。
「主人の張休殿にお目にかかりたい。取次を願いたい。」
門番の男は、不審そうな表情で、目の前に立つ二人を眺めた。
「旦那様は、事前の約束の無い方とはお会いにはなりません。貴方達は何方です?」
「ふむ、やはりそう来たか。それならば、此れを張休殿にお見せして貰えぬか?」
そう言うと呂蒙は、懐から墨文字を書き付けた一片の竹札を取り出し、それを門番に差し出した。
門番は怪訝な顔付きで、札を受け取ると、屋敷の中に姿を消した。
二人が暫く門の前で佇んでいると、やがて屋敷の中から廊下を駆ける足音が響いて来た。
そして再び門が開くと、顎髭を蓄えた小肥りの男が顔を見せた。
男は、門の外に立つ呂蒙の顔を見ると、驚愕の表情を浮かべた。
「矢張り、呂蒙様でしたか‼︎ 生きておられたのですね。先程の竹文を観た時はまさかと思いましたが、間違いなく呂蒙師の筆跡であったので...。しかし驚きました。」
「張休。久し振りであったの。いや、今や大司書まで出世した貴方を、呼び捨てには出来ませぬな。失礼しました。」
張休は、未だに信じられないという表情のまま、呂蒙を見詰めている。
「それにしても、『士、別れて三日なれば、即ち刮目して相待つべし。久しきならば、更にさもあらん』とは...。また直に此の言葉に出逢おうとは、夢にも思いませんでした」
呂蒙は、口元ににっと笑みを浮かべた
「最後の下りは、貴方の事です。昔はどうしようもない悪童であったが…..」
呂蒙にそう言われた張休の表情が、師匠の前に立つ弟子の顔になった。
「まことに...。 父の張昭から呂蒙師の元に預けられた時の私は、札付きの不良でしたからね。貴方様には、随分と叱られました。」
そう言いながら改めて呂蒙に向かって頭を下げる張休に、呂蒙が眼を細めた。
「それが、今や呉の文官の頂点にいる。人とは、大きく変わるものですな。」
すると張休が気がついたように、慌てた声を挙げた。
「こんな所では話も出来ません。さぁ中にお入り下さい。そちらのお連れの方もご一緒にどうぞ。」
呂蒙の手を取らんばかりに、屋敷の中へと迎え入れる張休の後ろから、志耀も屋敷へと入った。
呂蒙と志耀は、すぐに応接の部屋に案内された。
座卓に腰を下ろした二人を見て、早速張休が呂蒙に問いかけた。
「呂蒙師は病死されたと言われていたのに...。あれは誤りだったのですね。今迄、何処で何をされていたのです?」
「話せば長くなるがな。ところで先ずは、張休殿にお尋 ねしたい事がある。昔の事になるが、孫権帝の妹君である尚香様を、蜀の劉備帝に嫁がせ、その後直ぐに呉へと連れ戻したのは、父上の張昭殿の策でしたな?」
呂蒙の突然の問いに張休は不意を突かれ、眼を瞬かせた。
「その通りです。しかし呉に戻られた尚香様のご様子を眼にして、父は後悔をしておりました。如何に国の為とは言え、人の心を弄んでしまったと...。孫権帝からも、その事で不興を買い、父はその後、帝の側から遠ざけられました。何故そのような事、お聞きになるのです?」
張休の言葉を受けた呂蒙は、遠い過去を見る眼になった。
「張昭殿の後悔は、儂も耳にしておる。此処に伺ったのは、その父上の後悔を、息子の貴方に晴らして貰いたいからです。」
呂蒙の言葉に、張休は首を傾げた。
「私が父の後悔を晴らす...? それは、どういう事ですか?」
「今からお話します。その前に今一つ。いきなり訪れ、質問ばかりで申し訳ないが、大切な事なのでな....。今の張休殿は大司書の立場におられるが、此れは言うまでもなく、国の政や歴史を正しく資料に残し後世に伝える司書省の長。中でも皇室の歴史は最も重要なもの。それ故に次の帝を決める際には、重要な発言権を持っておいでですな。」
呂蒙の指摘を受けた張休は、首を縦に振った。
「それは...仰る通りですが...」
「それでは...孫休帝が魏へと逃げた後、未だ決まっておらぬ次の帝だが、何か目処は立っておるのですかな?」
そう呂蒙に問われた張休の表情に苦渋が走った。
「それが...本来ならば孫家の中から、次帝を擁立したいのは、誰もが同じなのですが...。此処だけの話ですが、これぞと衆目が一致する方が居ないのです。困り果てておるのが現状です。」
苦しげな表情のまま、張休は言葉を続ける。
「孫権帝の皇子は、既に亡くなっているか、残っていても凡庸な方々ばかり。本来なら孫権帝の兄君である故孫策帝の血筋に皇統を戻すところなのですが、孫策帝には御子がおられない。そうなると残るは孫権帝の孫の男子なのですが、何れも庶子で母系に問題があります。これでは、周囲の者が帝に祭り上げようとしても、皆が納得とは参りません。早く国の混乱を収めたいと、皆が焦っておるのですが...」
呂蒙は、困惑顔の張休をじっと見据えた。
「それでは、先程の話に出て来た孫尚香様に御子がおられた場合はどうなります? しかもそれが男子で、立派に成長されているとすれば...。」
呂蒙の言葉に、張休は愕然とした顔になった。
そして暫し口を閉ざした後、思い当たったように、呂蒙の隣に座る志耀に眼を向けた。
「まさか、この方が....。しかももしや、父君と言うのは……。あの劉備帝...」
張休の視線を受けた志耀は、直ぐに立ち上がると張休に拝礼した。
「仰る通りです。初めてお目に掛かります。志耀と申します。父は劉備、母は孫尚香で御座います。」
張休は、慌てて立ち上がると拝礼を返し、感に堪えない声を発した。
「貴方様が...あの...。これは…。まことにご立派になられて...。」
眼を瞠る張休に向かって、志耀はもう一度拝礼した。
「此処に居る呂蒙と、そしてもう一人陸遜が、母と共に私を育て教育を施してくれました。母は昨年に病没しましたが...。」
張休は、感慨深い顔付きで、改めて志耀の顔を見た。
「左様ですか。尚香様は、勉学優秀の上に、並みの武者など足元にも及ばぬほどに武芸を会得された方だとか…。かねてより父からそう聞かされておりました。しかも呂蒙師に加えて、あの陸遜様もご一緒だったとは..」
そんな張休の様子を横で確認していた呂蒙が、そこで言葉を発した。
「孫権帝は、劉備帝と尚香様の皇子に、呉と蜀を繋ぐ未来を託された。儂と陸遜は、孫権帝の下命によって、尚香様をお連れして建業を去ったのじゃ。」
張休は、もう一度志耀の顔と呂蒙の顔に眼を貼り付けて、ようやく二人の訪問の意図を察した顔になった。
「そして立派に成長された志耀様と共に、混乱の最中の建業に再び戻られたというのですね? それは、志耀様を新たな帝に...と言う意図なのですか?それに私が手を貸せと...」
張休の言葉に対して頷く呂蒙に、張休は暫くの間押し黙った。
「確かに尚香様の皇子であれば、母方には問題があろう筈もありませんしかし父君が劉備帝となれば....。あの方は、同盟国とは言え多くの者が敵と看做す蜀の建国の祖ですよ...」
「そう言うと思っておった。しかしな...。孫権帝がこのような配慮をされたのは、呉と蜀を何れ一つに纏める事を視野に入れておられたからじゃ。もう一つ、重要な事実を教えよう。蜀ではもうその事に気付き、志耀様を新帝に迎える準備を整えておる。」
呂蒙にそう言われた張休の顔に、驚愕が走った。
「そ、そのような事、俄かには信じられませぬ。何かその事を示す証でもあるのですか?」
すると呂蒙は携えた包みを解き、中から木箱を取り出すと、張休の手元に押しやった。
「中を改められよ。此れは、蜀の宰相である姜維殿が、志耀様に贈ったものじゃ。」
木箱の蓋を取った張休の顔に、再度の驚愕が広がった。
「こ、此れは...蜀帝の玉璽ではありませんか!! これまで記録に残る劉備帝からの書簡に押印されたものと全く同じ...。確かに蜀帝の証で御座います。」
玉璽に向かって頭を下げた張休に、呂蒙が厳かに声を発した。
「判ったようじゃな。それでは張休殿。この蜀の動きに対して、呉はどうする? このまま乗り遅れても良いのか?。」
翌日、呉王宮の大書院には、呉の主だった延臣達が集められていた。
「急に何事だ? 次帝を決める重要な集まりを行うと言って、張休殿からの急使が昨日、我家に飛んで来たが...」
騒めく延臣達の前に、軈て張休が姿を現した。
張休の後に続く二人の人物のうちの一人の顔を見た老臣が、驚き叫んだ。
「こ、此れは....。あの方は、呂蒙様ではないか!! 故孫権帝に最も信頼されながらも、既に病没された筈の呂蒙様が、何故ここに...」
その声を耳にした呉臣一同の中に、大きな騒めきが渦巻いた。
その騒めきを、張休が制した。
「静まられよ。確かに此処に居られるのは呂蒙様だ。故孫権帝からの下命を拝して、今迄姿を消されていた。そして危急の時にある今の呉の為に戻って来られた。我等が次に帝と仰ぐべきお方とご一緒にだ‼︎ 」
集まる一同の眼が、一斉に張休と呂蒙の横に立つ志耀に注がれた。
志耀は、集まった一同の顔を見回した後、深く拝礼した。
その横で、張休が厳かな声で志耀を紹介した。
「志耀様で御座います。御母は、あの孫尚香様。そして御父は、蜀建国の祖である劉備帝です。」
大騒ぎとなった大書院の一同を再び静めた張休は、淡淡と今迄の経緯を一同に向かって語り始めた。
「...と言うのが、呂蒙様と陸遜様が、尚香様と共に姿を消された経緯。そして本日、志耀様が呂蒙様と共に姿を現された。故孫権帝は、呉と蜀を結ぶ架橋を準備されていた。志耀様は、孫権帝の御遺志を果たす為に、此処に来て下されたのだ。」
張休の話に、集まった者達は静まり返り、互いに顔を見合わせた。
軈て、最初に呂蒙を認めた老臣が、感慨深げに口を開いた。
「深謀遠慮とは、正にこの事ですな。故孫権帝は、此処まで先を見通されていたのですな....」
すると横から、書史省の一人が口を挟んだ。
「その蜀帝の玉璽というのは、紛れもなく本物なのですか?」
書史の問いに、張休は鼻を鳴らした。
「お主も書史の一人なら、劉備帝からの書簡は何度も見ておろう。己の眼で、その真贋を確かめて見れば良かろう。」
その書史は、差し出された玉璽を改めた後、深々と拝礼した。
その書史の姿を確認すると、張休は再び声を発した。
「嘗て王宮が志耀様の命を狙った昔とは、もはや時代が違う。私は、故孫権帝の御遺志を拝受して、志耀様を帝と仰ぐべきと考えるが、御一同は如何お考えでしょうか?」
其処で、延臣の一人が声を挙げた。
「そのお方が、まことにに尚香様と劉備帝の皇子である証はありますか? しかも孫権帝がそのような御遺志を持たれていたと言うのも、単なる想像やも知れぬ。」
その臣下の問いに、呂蒙が首を傾げながら口を開いた。
「相も変わらず、呉王宮の方々は疑ぐり深いですな。宜しいでしょう。其処にいる翔鶴。前に来なさい。お主は故孫権帝の傍に、ずっと仕えていたな? お主に確認して貰いたい物がある。」
翔鶴と呼ばれた男は、呂蒙の手招きに応じて、おずおずと前へと進み出た。
呂蒙は、傍の志耀を促した。
「若様。それでは、例の品をこの者にお示し下さい。」
志耀は、首の後ろに手を回すと、紐に玉石を通した首飾りを外し、上衣の外に取り出した。
志耀の掌からその首飾りを受け取った翔鶴は、それを見るなり棒立ちとなった。
そして、両眼から大粒の涙を溢れさせた。
「此れは、孫権帝が肌身離さず身に付けておられた首飾りです。しかもこの品は、兄君の孫策帝から、帝継承の証として贈られたものと、常常孫権帝からお聞きしておりました。」
その言葉を確認した志耀が、初めて口を開いた。
「この首飾りは、私の母が、臨終の床で私に託した物です。『亡き兄上の孫権帝から預かった物です。自分の志を伝える品と言われて...。生まれた子が男子で、しかも立派に成長したその時には、此れをその子に託すようにと言われました。今がその時です』。母上は、そう申されました。」
志耀の言葉を受けた場の一堂は、再び静まり返った。
そしてその後、一斉に志耀に向かって深く拝礼した。




