司馬炎の覚悟
「何ですと‼︎ 蜀の切札というのは、あの孫夫人と劉備帝との間に産まれた皇子だっだとは....。貴方は、直接その皇子に会ったと言われたが、何故そのような真似をしたのです?」
司馬炎から、志耀との出会いについて聞かされた夏侯舜は、思わず声を張り上げた。
「その理由は、以前にお話した通りです。私は、あの方が世を救う宿命と資格を持って生まれた人物なのかどうかを、どうしても自身のこの眼で確かめたかったのですよ。」
司馬炎の眼に、既にある決意が宿っているのを察した夏侯舜は、思わず咽喉を鳴らした。
「それで...。実際に会って見て、どのように思ったのです?」
「真に人の上に立ち、世を安寧に導く資質の持主と確信しました。それと、私が此処に戻って来た理由ですが...。」
正面から自分を見据える司馬炎の眼光に、夏侯舜はたじろいだ。
「貴方様の覚悟を確認する為に、此処に戻りました。先日お問い掛けしましたね。父上の夏侯覇殿から言われた『志』についてどう思われ、今後どうされるお積りなのかという事を...。その時の貴方様は、はっきりとした答えを示されなかった。」
夏侯舜は押し黙ったまま、司馬炎の次の言葉を待った。
「私の心は、既に決まっております。祖父の司馬懿の予見は当たっていた。新しき希望の灯は蜀にあった。しかもそれは蜀のみならず、呉までをも跨いでいた。私は、この灯を絶やさず大きくする事に、今後の私の全てを賭けます。貴方様はどうされます? 共に手を携えて進んで下さるなら、前に申し上げた通りに、貴方様が魏の混乱を収める事に、私が手を貸しましょう。」
そう言われた夏侯舜は困惑した表情を見せた。
「何故、俺なのだ? 魏の有力者達は、他にも数多く居るではないか? それなのに既に力を失いつつある夏侯一族の俺に、何故貴方は肩入れしようとするのだ?」
「それは、貴方様が、真剣に志というものについて考えておいでだからですよ。」
それを聞いた夏侯舜の顔に、動揺の色が拡がった。
「何故そのような事が判る? 前に一度、この事を問われた時には、俺は返事をして居らぬぞ。考えてみる...としか言っておらぬではないか。」
司馬炎は、にやりと笑った。
「過日に私と話をした後の貴方様の行動を、ずっと見ていたからです。貴方様は、私との話の後、頻繁に配下の兵達の元に赴き、彼等と話をされていますね。貴方様が彼等に先ず問うたのは、『お前達は何のために戦うのだ?』という事でしたね。」
「いや...それは...」
「お父上に言われた事が、気になって仕方なかったのでしょう? 特に『志なき軍など烏合の集だ』という言葉が...」
自分の行動が全て見透かされているのを感じて、夏侯舜は再び押し黙った。
「兵達と話をする中で、貴方様は、お父上に言われた事が事実であると確信した筈です。兵達は、皆迷っていたでしょう? 現在魏軍の頂点にいる賈充殿や王沈殿は、只只戦えと繰り返すのみで、何故戦うのかの意味など、決して示そうとはされていませんからね。此れは、あの方々に限った事ではありません。曹操帝が亡くなられてから、魏ではそれを語る者が居なくなっているのです。」
夏侯舜が黙ったままなのを見て、司馬炎は話の鉾先を変えた。
「あの蜀という国が、軍の規模では魏に遥かに劣るにも関わらず、何故あのようにしぶといのか...。それを考えてみた事がありますか?」
唐突にそう聞かれた夏侯舜は、眼を瞬かせた。
「そ、それは....あの諸葛亮孔明の智謀ゆえであろう?だから孔明亡き今こそが、蜀を屈服させる機会だと、皆が思ったのだ。」
夏侯舜の言葉に、司馬炎は頷いた。
「私も以前は、そう思っていました。しかし今では其れだけではないと確信しています。蜀の兵には志があるのです。」
「今の蜀を支えている者を考えてみて下さい。宰相の姜維も、夏侯覇将軍も、元は魏の人間ですよ。彼等を裏切りとか変心とかと言って、非難するのは簡単です。しかし何故、彼等は変心したのでしょうか?それを良く良く考えた時、それは魏には『志』が無くなっていたからだと、思い当たりました。志とは、人が生きる為の糧なのです。特に己の命を張って戦う武者は、志が無ければ戦えません。」
夏侯舜は、大きな嘆息を漏らした。
「父と同じ事を言うのだな。しかし同じ志を、多くの者が共に抱くなどというのは至難の技だ。」
「だからこそ、志を説く者が必要なのです。上に立つ者というのは、人に志を説いて希望を与える者です。だからこそ頂点に立つ帝という存在は特別なのです。諸葛亮孔明も姜維も、自ら覇権を目指すのではなく、真の帝を求めるのは、それが分かっているからではないでしょうか?」
そう言った司馬炎は、夏侯舜をもう一度見た。
「それともう一つ。今後あの方を三国を纏める新帝に奉ろうとする時には、魏にも一枚噛んで貰わねばなりません。つまり呉蜀魏が一致協力するという事です。魏でこれが出来るのは、諸侯の中では貴方様しかいないのです。貴方様は、夏侯覇将軍の息子。そして蜀の前帝の劉禅様の妃だった方の御母上は、夏侯覇将軍の従姉妹です。お分かりですか?人同士だけでなく、国同士が手を携える時にも、血の繋がりというのは大きな力となるのです。」




