恩讐を超えるもの
「何だと‼︎ 華鳥殿と潘誕が、帰国の途につき、蜀に向かっているだと‼︎」
王平にそう告げられた姜維は、思わず席を立って叫んだ。
手に竹簡を携えた王平が、姜維にそれを差し出した。
「はい。呉の飛仙の店に駐在していた早足の者が、飛仙に立ち寄った華鳥殿よりこの竹簡を託されたとの事です。華鳥殿と潘誕は、恐らくあと一月程で成都に到着すると思われます。」
それを聞いた姜維は、急かすように尋ねた。
「それで...求めるお方はご一緒なのか?」
「それが...。華鳥殿達とは同道されてはおられぬ、との事。そうであれば呉に留まっておられる様子です...」
「どう言う事だ? あのお方が蜀に来られるのを拒否されたという事か?」
狼狽える姜維に向かって、側に立つ華真が声を掛けた。
「慌てる事もないでしょう。拒否されたのなら、説得の為に未だ滞在している筈ではないですか。その辺りの経緯は、早足が持ち帰った文に書いて御座いましょう。」
「そうだったな..」
姜維は、直ぐに王平から渡された竹簡を解いた。
「こ、これは....。志耀様は、暫く呉に留まり、先ずは陸遜殿、呂蒙殿と共に呉を纏めるお積り...と記してある...。し、しかも、その際の話し合いには、魏の司馬炎も同席したと...。司馬炎と言えば、死んだ司馬懿殿の孫ではないか...。未だに生きていたのか…。しかし生きていたとしても、何故呉での我等の話し合いなどに顔を出して来るのだ...」
姜維の慌てた口ぶりに、華真はちょっと考える表情を見せた後、口を開いた。
「呉を纏める事を先に....というのは、陸遜殿と呂蒙殿が、それを主張されたのでしょうね。この点については予想の範囲でしたが....。しかし、司馬炎殿とは...。此れで合点が行きました。一連の魏の動きの陰にいたのは、司馬炎殿だったのですね。以前に夏侯舜殿を夏侯覇将軍の元に差し向けたのも....。しかもこの文では、司馬炎殿に敬称が付けられている...まるで同志のように.....」
姜維から手渡された竹簡に眼をやりながらそう言った華真に向かって、王平が口を尖らせた。
「同志? それはどういう意味ですか? 魏は、長年に渡って我等の宿敵ですぞ‼︎ それが何故‼︎」
「同志という言葉。『志を同じくする』と書きます。...此れで司馬炎殿が、何故夏侯舜殿に近付いたかの理由も判りました。」
姜維が、興味深げな表情で華真を見た。
「その理由とは何でしょう?」
「司馬炎殿は、噂に違わぬ俊才ですな。志耀様が、今後の世を創る志を真に持っておられるか、自分の眼で確かめたかったのでしょう。」
「しかし、志耀様は、魏とは何の血筋の繋がりもないではありませんか。そんな魏の司馬炎が、何故我々の同志になどなれるのです?」
反発する王平に、華真が宙を見上げてぽつんと呟いた。
「やはり司馬懿殿と司馬昭殿は、曹操帝の志に殉じたのですね。そしてその志の復活を、司馬炎殿に託したのでしょう。祖父達の遺志を継いだ司馬炎殿は、世を安んじる為の先頭に立てる人物を、我等が見つけ出している事に気が付いたのでしょうね。」
すると姜維が、ようやく気付いた様子で膝を打った。
「成程‼︎ その志を志耀様が継いで行けるかどうか、自身の眼で確かめたいが為に、司馬炎殿は呉に赴いたのですな。そして志耀様に会った...。その結果を見届けた華鳥殿が、こうした文を寄越したのですね。」
その言葉に、華真は大きく頷いた。
「そうなると、司馬炎殿が夏侯舜殿に接近した事には、もう一つの意味がありますね。」
華真の言葉に、姜維は少し考える仕草を見せた後、合点した顔になった。
二人の様子を見た王平が、慌てたように声を掛けた。
「ま、待って下さい。お二人だけで納得されても、私には何が何やらさっぱり判りませぬ。判りやすく説明してくれませぬか。」
そう言う王平に、姜維が眼を向けた。
「そうだな。では先ず司馬懿殿が死を顧みず、あのような行動を起こした経緯については、過日に華真殿が説明して下さっている。この点については良いな?」
王平が頷くのを見て、姜維は再び口を開いた。
「おそらく司馬炎殿は、この先を見据えて、国同志の恩讐を超える道を探っていたのだ。」
王平は、相変わらず何を言われているのか理解出来ない、という顔付きのままだ。
そんな王平に、姜維は言葉を繋げた。
「司馬炎殿は、この世の未来を託す人物が現れた時には、その人物を支えよと司馬懿殿から言い遺されたのであろうな。そかも魏だけには拘るなと...。王平。お前は、魏が蜀に寄り添う事に疑念を持つかもしれない。しかし、良く良く考えてみれば、私も元は魏の将校だ。夏侯覇殿も、魏の将軍だった。だが人が何に命を張るかの意味を考えたからこそ、今の我等は此処にいる。しかも夏侯舜殿も、蜀には極めて近い処にいるのだ。」
そこまで聞いても、未だ王平の表情に理解の色は浮かばない。
「確かに、志耀様と魏の間には血の繋がりはない。しかし、蜀と魏の夏侯一族には、実は強い血の繋がりがある。王平。前の帝である劉禅帝の妃様の事を覚えておるか? 嫁がれて直ぐに亡くなってしまわれたが...」
そこで王平は、漸く思い当たったように顔を上げた。
「その方は、建国の英雄である張飛将軍の娘御....。そして....妃様の御母上は....」
「気が付いたか...。張飛将軍の奥方は、夏侯覇将軍の従姉妹だ。つまり、夏侯一族と蜀とは、敵国同志ながら、血においては繋がっておるのだ。」




