無限の生命の宿木
翌日、華鳥と潘誕は、霊鳥山の中腹にある小屋を出て、蜀に戻る旅に出立した。
二人の横には、見送りに志耀と呂蒙が同道していた。
そして四人から少し離れた後ろを、司馬炎と二人の配下が歩みを進めていた。
「潘誕殿。昨夜に何が話合われたか、聞かないのですか?」
華鳥から問われた潘誕は、何事も気にする様子もなく答えた。
「俺などが知るべき事ではありませんよ。」
「俺は、華鳥様の単なる護衛ですよ。皆様で話合いをされ、何かを決められ、そしてその結果を持って華鳥様が蜀に戻られるなら、俺はまた護衛の任務を果たすだけですよ。」
「貴方らしい言葉ですね。志耀様は、そんな貴方の立ち振る舞い、たいそう褒めておられましたよ。」
こうして一行は、霊鳥山の崖を下る間道を抜けて、山の麓へと辿り着いた。
「向こうの峠まで送りますよ。その後は暫くお別れですね。」
そう言う志耀に向かって、華鳥は深く頭を下げた。
「此処までで十分ですのに...。ところで志耀様。司馬炎殿は本当に納得されておいでなのでしょうか? それだけが気懸りでなりません。」
「昨夜に初めて会い、一晩会話を交わしただけで、全て判り合うのは無理ですよ。司馬炎殿も言われていたでしょう。良く良く考えてみます...とね。」
一行が麓の細い道を谷川に沿って歩む先に、母子らしき二人の姿が見えた。
母親が子供を背負い、重い足取りで歩みを進めていた。
一行が二人に追いつき、挨拶を交わして母子を追い越そうとした時、母親に背負われた子供の顔を覗き込んだ華鳥の表情が変わった。
「失礼ですが....。その子はどうしたのです?唇が真っ白ではないですか。」
問い掛けられた母親は、警戒するように一行に眼を向けた。
怯えた表情の母親に、呂蒙が宥めるように声を掛けた。
「心配せずとも良い。怪しい者ではない。その子、どこか悪いのではないか? こちらの方は医者だ。」
すると母親の眼から、みるみる大粒の涙が溢れた。
「今朝から様子がおかしいのです。ぐったりして眼を開きません....。峠の向うのお医者へ向かうところでした...」
「直ぐに、その子を下ろして。ちょっと診せて下さい。」
華鳥はそう言うと、地面に横たわった子供の瞼に手をやった。
子供は七、八歳ほどと思しき男の子だった。
指で瞼を拡げた華鳥の顔が曇った。
「瞳孔が開きかかっている….。瀕死の状態ではないですか!! 」
そう言った華鳥は、直ぐに子供の着物を脱がせ、身体を改め始めた。
「これは...何ですか...!!」
男の子の上半身は、青痣だらけだった。
華鳥に強い口調で問われた母親は、眼を落とすとおずおずと答えた。
「父親に蹴られたのです....」
男の子の胸から腹部へと手を這わせた華鳥の手が止まった。
「此処だ。内臓の一部が裂けて、出血を起こしてる...。直ぐに手当てしないと…。放っておけば、この子は死ぬ...。」
華鳥の診断に狼狽える母親の横から、志耀が声を発した。
「姉様なら、何とか出来るでしょう? 直ぐに手当てをして下さい‼︎ 」
その声に反応するように、すぐに潘誕が葛籠を背から下ろした。
そして蓋を開けると、中を探り始めた。
「先ずは火を熾すのです。それと谷川から水を汲んで来て‼︎ 」
華鳥の声を受けた司馬炎が、後方にいた二人の従者に眼を向けた。
直ぐに従者の一人が、飛ぶような動きで谷川へと下って行った。
そしてもう一人の従者は道端の枯木を拾い集めると、懐から火打石を取り出した。
「潘誕殿。直ぐに手術道具を出して‼︎ いつも料理に使っている鍋も出して下さい。」
潘誕は言われた道具を取り出すと、従者の一人が谷川から汲んできた水を満たした鍋を火に掛けた。
華鳥が、手術道具を沸騰した湯に放り込んだ。
その様子を見ていた司馬炎が尋ねた。
「それは...もしや身体を切るのですか...? 華佗殿の弟子達から学んだ技ですか?」
頷く華鳥に、司馬炎が竹筒を差し出した。
「強い焼酎です。旅先で傷を負った時の消毒用に、いつも携帯している物ですよ。」
華鳥は子供の腹部を水を絞った布で拭き、竹筒の焼酎をぶちまけると、一堂を振り返った。
「それでは...行きます。皆さんで、この子の両手両足をしっかりと抑え付けて下さい。」
そう言った華鳥は一本の小刀を取り上げると、迷うことなくその刃先を子供の腹部に走らせた。
切創から血が直ぐに流れ出し、その様子を後方で母親が蒼白な表情で見守った。
半刻ほどの後、華鳥が額の汗を拭いながら立ち上がった。
「腹に溜まった血は抜きました。裂けた内臓の傷は縫い合わせましたので、これで出血も止まる筈です。」
傍に立つ志耀が、華鳥の言葉に、ほっとしたように息を吐いた。
「それでは...助かるのですね...」
「化膿さえしなければ...。恐らく大丈夫でしょう。」
後方にいた母親は、それを聞くとへたりと地にしゃがみこんだ。
そして両手を擦り合わせて、華鳥を拝むように頭を下げた。
「やれやれ、良かった。流石に姉様の医術というのは神業ですね。その釣針のような針で、傷を縫うのですね。実際に見たのは初めてですが、魔法のような手捌きでしたね。」
「全くだ。私も話だけは聞いてはいたが...。呪術姫と呼ばれるだけの事はありますな。」
そう頷く司馬炎に、志耀が眼を向けた。
「ところで....。司馬炎殿に、折り入って頼みがあるのですが....」
司馬炎は、訝しげに志耀に眼を向けた。
「頼み? 何ですか、急に?」
「この子と、彼処にいる母親。司馬炎殿が、二人の身の引き受け場所を探してやって頂けませんか? 母親の着物から覗く腕をご覧なさい。母親の方も痣だらけです。父親から、母子揃って虐待を受けているのでしょう。このまま家に戻しても、同じ事が起きるでしょう。司馬炎殿なら、この二人が落ち着く先の当てなど、幾らでもお持ちと思うのですが...」
「それは....。しかし何故、貴方はそこまでの事をしようとされるのです?」
顎に手をやり、志耀の意図を探るように問いかけた司馬炎に、志耀が答えた。
「女子と子供というのは、無限の生命の宿木だからです。」
志耀の言葉に、司馬炎は戸惑ったように聞き返した。
「無限の生命の宿木....? どう言う意味ですか?」
「戦や諍いに明け暮れる男達とは違い、女子は将来を担う子供を産み育てる事に全てを捧げています。それに子供は大きくなれば、次の子を産み育てる。そうして生命は繋がって行くのです。」
志耀の言葉に暫し考え込む様子を見せた司馬炎は、やがて顔を挙げた。
「それで、無限の生命の宿木ですか....。判りました。確かにお引き受けします。この二人は、私が責任を持ってお預かりしますよ。」
それを聞いた志耀は、にっこりと頷くと、今度は傍で跪く母親に向かって言った。
「貴女には、この子を守る責任がある。子供とは、世の未来を拓く宝なのだ。だから決して見殺しにしてはなりませんよ。」
その言葉に、母親は、また地に額を擦り付けた。
そのやりとりを見ていた華鳥が、口を開いた。
「それなら、私からもお願いがあります。先ずはこの子を、呉と魏の国境にある部落へと連れて行って欲しいのです。今回の治療は、応急処置です。未だ危険は完全に回避はされてません。普通の医師では、その対処は難しいでしょう。今申し上げた部落は、華佗殿の弟子達が集まっている場所です。其処なら大丈夫です。」
こうして一行は、程なく峠の頂上に差し掛かった。
子供は、司馬炎の従者の一人の胸に横抱きに抱えられ、その傍には母親がひたと寄り添っていた。
峠から見下ろす道は、峠の麓で二本に分かれ、一本は魏に、そしてもう一本は蜀の方向に向かって繋がっていた。
志耀が振り返り、後ろから来た一行に声をかけた。
「それでは暫しお別れですね。昨夜は皆さんとお会い出来て嬉しかったです。必ずやまた再会しましょう。」
別れ際に、ふと呂蒙が華鳥に語りかけた。
「潘誕殿というお方、真に良き男で御座いますな。」
華鳥は、きょとんとした眼で呂蒙を見つめた。
「仰る通りです。本当に誠実で、腕も立ちます。護衛としては超一流ですね。その上、あれほど料理達者の人には今迄会った事はないですね。」
それを聞いた呂蒙が、小さく笑った。
「それだけですか? 潘誕殿はもっと貴女の近くにいるように、この老人の眼には見えるのですが…」
呂蒙の言葉に華鳥が眼を瞬くと、呂蒙は大きな笑い声を挙げた。
「今は分からなくとも良いのです。いずれは分かりますから……」
峠の下の別れ道で、華鳥と潘誕の二人と別れた司馬炎達は、共に歩む母親の足を気遣いながら歩を進めて行った。
先頭を歩む司馬炎は、従者に抱かれた子供とその脇に付き添う母親を振り返ると、空を見上げて呟いた。
「無限の生命の宿木か....。まさかあのような事を申されるとはな...。祖父上、父上。あの方の世を思う心、民を思う心、どうやら本物のようですよ。」




