月下の出会い
月が煌煌と下界に光を照らしていた。
普段は空を叢雲に覆われて、夜ともなれば漆黒の闇が支配する霊鳥山の山中でも、今宵ばかりは月の光が樹木の間まで溢れていた。
そんな山の中腹にある小屋では、五人の人物が囲炉裏に車座となって、鍋を囲んでいた。
「いやぁ、しかしこの料理は美味い。私は今まで何を食べていたのだ....そう思わずにはいられない。呂蒙爺、そうは思わないか?」
場の中心に座る志耀が感に堪えない声音を発する横で、呂蒙がそれに頷いた。
「誠にそうですな。しかし若様。儂や陸遜殿が何時も作る食い物が不味いのではありませんぞ。この料理が美味過ぎるのです。このような味、建業の一流どころの料理屋でもお目にかかる事は出来ますまい。」
目の前の囲炉裏の大鍋からは、何とも言えない良い香りが立ち上り、側には焼いた肉を盛った大皿が並べられていた。
志耀からの賞賛を受けた潘誕は、照れたようにぼりぼりと頭を掻いた。
「熊の肉には独特の臭みがあり、しかも硬いのです。その臭みを香辛料を使う事で抜き、硬い繊維を切断して山菜と共に煮込む事で、このような口触りとなります。木の皮に包んで炭火で焼いた此方の肉もどうですか?」
潘誕が差し出した大皿から、志耀は箸を使って熊の肉を豪快に掬った。
直ぐにそれを口に運んだ志耀の顔が、更に綻んだ。
「此れも実に美味い‼︎ 木の香りが肉と混じり合って、何とも言えない味だ。」
黙々と箸を伸ばす志耀を観て、潘誕は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「しかし志耀様は、実に美味そうに食事をされますなぁ。料理の作り甲斐があると言うものです。」
「本当に美味いのだから...。しかし華鳥の姉様は、旅の途上で、こんな美味い物ばかりを口にして来たのですか?」
そう尋ねながらも、志耀の箸は動きは止まらない。
志耀の問いを受けた華鳥は、からからと笑った。
そして隣に座る潘誕を見遣ると、しみじみとした声音を発した。
「宿坊の食事の味わいに物足りない時は、何時も潘誕殿にねだって、色んなものを作って頂きました。お陰で贅沢な旅をさせて貰いました。」
そんな華鳥を見ながら、志耀が拗ねたように言った。
「羨ましい限りだ。私も、此処にいる陸遜や呂蒙爺が、時々一緒に旅に連れ出してくれるが、旅先でこんな美味にお目にかかった事はない。」
それを聞いた華鳥が、興味深げに尋ねた。
「旅もされていたのですね?」
そこに陸遜が口を挟んだ。
「山奥にいるだけでは見聞が広まりませんからな。時には狩った熊皮や鹿皮を背負い、それを街で金に換える事をして来ました。その金を使って若様と共に国内のあちこちを見て回っていたのですよ。」
「建業にも足を運ばれた事は?」
「それも何度かある。しかし若様は繁華街などには、あまり興味は無い様子でしたな。むしろ街裏での物産の運搬や、田舎での人々の暮らしぶりに関心を示されていました。そう言えば、医療所にも行きたがられましたな。」
「医療所...?」
怪訝な顔付きの華鳥に、志耀が頷いた。
「姉様に習った医療と言うものが、どの程度普及してるか見たかったのだが、あのような技は何処もやっていなかった。」
それを聞いた華鳥が、片手を振った。
「それはそうでしょう。私が形ばかりながらもお教えした医療と言うのは、未だ禁断の技ですからね。」
「しかし医術と言うのは、人の命を救う為にあるのだ。姉様の技術を使えば助けられるのに....と思う場面に何度も出くわした。本来は、ああした技はもっと普及していなければならないのに...。」
志耀の言葉に、華鳥は笑みを見せた。
「一朝一夕には行かないですね。その他には、どのような事が気に掛かったのですか?」
「農村の貧困ですね。華真の兄様が教えてくれた収穫を増やす工夫をしている所など、ほんの一部だった。あれでは天候が少しでも不順となれば、飢えに苦しむ者が多く出るのは当然だ。」
それを聞いた潘誕が、感心したように顔を挙げた。
「流石です。命や貧困の救済を、一番に気にかけておられるとは...」
その言葉に志耀が眼を挙げて、自らに言い聞かせるように答えを返した。
「民を思え...と言うのは、陸遜や呂蒙爺に何時も言われている事だから...」
その時、会話を打ち切るように呂蒙が膝を乗り出した。
「それでは、そろそろ大切な話を始めますかな。華鳥殿と潘誕殿が、此処にやって来た理由について....。此れは華鳥殿から話して頂くとして....。その後、儂と陸遜殿の考えをお話しします。その上で今後どうされるべきかは、若様ご自身で御判断願いたく存じます。」
呂蒙の言葉に、一同は姿勢を正し、志耀が真剣な表情で華鳥に向き直った。
華鳥が、志耀に向かって口を開こうとしたその時、潘誕がそれを制した。
「お待ち下さい。小屋の外に何者かがいます。」
その声に、陸遜が直ぐに立ち上がり、小屋の扉を引き開けた。
月明かりの中、小屋の外に三人の覆面の男の姿が浮かび上がった。
「お主達、何者だ? このような山奥まで、何の用があって来たのだ?」
そう問いかける陸遜の前に出て剣に手をかけた潘誕を、横から呂蒙が制した。
「潘誕殿。剣を収められよ。この者達には殺気は感じられぬ。さて....普通なら、お主達は華鳥殿達の後を付け回した結果、此処までたどり着いたと言うのが当然の推測だが...。そうだとしても、此処で殺気を放たぬのはどうした事かな? 害意は無いと言う事か? しかも我らにわざと気配を明かしたというのは、どのような意図か....?。」
呂蒙の問いかけに、三人の真ん中にいた人物が、小屋の入り口の内に進み出た。
「流石に呂蒙殿ですね。しかし貴方様が、生きておられたとは驚きです....。仰る通りです。我々は、此処におられる華鳥殿と潘誕殿の後を密かに尾行して、此処まで辿り着きました。麓の庵で、貴方様がご存命と知った時には驚きました。しかも、この山中で陸遜殿にまでお目にかかれるとは思いませんでした。」
そう言った男は覆面を取ると、火傷に引き攣れた顔を一堂に晒した。
「見苦しき面相は、平にご容赦をくださいませ。司馬炎と申す者で御座います。名を聞けばお判りでしょうが、魏の司馬懿は祖父、司馬昭は父で御座います。」
司馬炎の言葉に、呂蒙と陸遜が腰を浮かした。
「何と...‼︎ 司馬の一族の生き残りが、未だこの世におられたか。しかも司馬炎殿と言えば、あの司馬懿殿の叡智を全て継ぐと言われる俊英ではないか...」
そう言った呂蒙に向かって、司馬炎は頭を下げた。
「未だ生き恥を晒して居りまする。祖父と父の志を継ぐ為に...。此処に来たのはその為で御座います。」
すると、それまで横で様子を伺っていた潘誕が口を開いた。
「なんか良く判りませんが、先ず中に入って頂いたらどうでしょう? 蜀と呉と魏。各々の国の事情に精通した方々が、こうして一堂に会するなど滅多に有りませんよ。それに司馬炎様も、腹が減っておられるでしょう? 先ずは、腹ごしらえをされたらどうですか?」
その言葉に志耀が笑い声を挙げた。
「もっともだな。さて司馬炎殿、どうされますか?」
司馬炎は囲炉裏の大鍋に眼を向けると、そこから漂う香りに鼻をひくつかせた。
「実は朝から何も食ってなかったので…。外に漂う鍋の香りに、腹の虫を抑えるのに苦労していました。」
「それなら俺は、此処の席は外して 外で司馬炎様の従者達と一緒に飯の続きにします。何か込み入った話になりそうだし....」
そう言った潘誕は、囲炉裏の側の肉皿を一つ手にすると、外に出て行った。
司馬炎は囲炉裏脇へと歩み寄って胡座をかくと、出された椀に鍋の料理を掬い始めた。
小屋の外に出た潘誕は、外に佇む司馬炎の従者二人に、皿の肉を差し出した。
「お前ら、運が良いぞ。実はこれで手持ちの香辛料はお終いだ。それでも最後に、飛び切りの味に仕上がってるぞ。」
司馬炎の従者二人は、直ぐにその肉に食らい付いた。
「美味い‼︎ この半月というもの、お前らの後を付けて、美味そうな匂いの近くに毎度潜んでは、ずっと匂いに耐えていた。やっと実物にありつけたぞ。」
潘誕は、二人の従者を改めて見回した。
「何だと...。もしやお前ら、ずっと俺達の近くに居たのか?」
「我等は、気配を隠す術を身につけている。相手に気付かれるような真似はしない。しかしお前の料理の匂いに耐えるのは、地獄のようであった。」
「お前らは、司馬炎様の配下なんだろう? 司馬炎様もずっと一緒だったのか?」
「司馬炎様が我等と合流されたのは七日前だ。それは、お前達があの商家から出立する少し前からだよ。」
熊の肉を頬張りながら、潘誕は二人に問い掛けた。
「しかし、司馬懿様も司馬昭様も自害され、一族は滅んだと言われていたのに...。それでもお前達は、ずっと司馬炎様に従っていたのか?」
すると二人の従者は、視線を熊肉の皿から潘誕に移した。
そして二人の内の一人が、ぐいと胸を張った。
「あの方は特別だ。我等は間諜とも忍びとも呼ばれ、身分は下人だ。それでも司馬の大殿であった司馬懿様は、亡くなる前に我等に多額の金銭を下さった。若殿の司馬炎様は、幼き頃よりずっと我らと共に修行にまで付き合って下さったのだ。」
「それじゃぁその司馬炎様が、もしあの呉の若君の味方に付くと言ったら、お前らはどうする? 俺の直感だが、そうなってもおかしくない気もするのだが...」
「若殿がそうされると決めるなら、我等は黙ってそれに従う。我等にとって、若殿の司馬炎様は絶対だ。」
その声音には、己の主人に対する絶対の信頼と忠誠が籠っていた。
「ふうん。お前ら、あの人に命を張ると言うのだな。確かに尋常ではない気配を持ったお人である事は、俺でも分かる。」




