旅の終結
華鳥と潘誕は、矢傷が癒えると飛仙の拠点を出立した。
そして五日後には、旅の目的地である霊鳥山の麓に達した。
「この山が、我らが目指すお方が隠れ住む場所ですか? しかし何故、このような場所にその方はおられるのです? 華鳥様は、その方は蜀の建国の父である劉備帝と呉帝の孫権様の妹君の間に産まれた皇子と申されましたよね。そんな高貴な方が何故...? 」
潘誕にそう問われた華鳥が、少し固い表情で潘誕を振り返った。
「呉の王宮から命を狙われるのを防ぐ為に、陸遜様と呂蒙様が、あの山中を隠れの住処と決められたのです。お二人は交代で、孫尚香様と生まれた皇子に付き添い、他のお一人が山麓近くに庵を構えて、そこで建業の情勢を見守っておられたのです。私と兄が最初にその庵を訪ねた時には、呂蒙様がおられました。兄は、そこで初めて呂蒙様が健在でおられた事をを知ったのです。」
「呂蒙様の名は、何度も王平様から聞かされましたよ。武だけでなく、学と智も、共に修得された方だと。しかし、陸遜様も呂蒙様も亡くなったと言われていたのに、実はご健在だったのですね。」
「孫権帝が、妹の尚香様と生まれてくる御子の為に、密かに遣わしたのです。敢えてこのような場所を選ばれたのは、陸遜様と呂蒙様が、王宮の陰湿な動きに気づいたからなのですよ。」
華鳥の言葉に、潘誕が眉根を寄せた。
「陰湿な動きとは、何ですか?」
「孫権帝は、妹君の妊娠を知ると、直ぐに陸遜様と呂蒙様を呼び出しました。そして尚香様の妊娠が周囲に知れる前に尚香様を王宮から連れ出せと、命じられたそうです。しかしその時には、尚香様の妊娠は、皇族周辺には知られてしまっていました。ある日を境に、尚香様の側に仕える侍女達が交代させられ、毎日違う侍女が尚香様の周りを囲むようになったのです。」
そう言った華鳥は、一つ溜息をついた。
「尚香様を取り囲んだ新しい侍女達は、尚香様の周りで聞こえよがしに、繰り返しある唄を囁いたそうです。」
「唄ですと? 何ですか、それは?」
「表向きは童唄ですよ。『かごめ、囲め 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ 』」
その歌詞を聞いた潘誕は、ぽかんとした表情になった。
「何なんです?それは?さっぱり意味が分かりません。」
そう言う潘誕に、華鳥は悲し気な表情を作った。
「恫喝ですよ。貴女のお腹の子を産んではいけない..と言う….」
歌詞の意味を測かねて首を捻る潘誕に向かって、華鳥が恐ろしい話を始めた。
「『かごめ かごめ』と言うのは、『お前はいつも囲まれ、見張られているぞ』と言う意味です。それに続く『籠の中の鳥は いついつ出やる』と言うのは、『そのように見張られている中で、お前はいつその子を産む積もりなのだ』という問い。『鶴と亀』はおめでたい事の象徴です。だから、この場合は、子供を産むという意味です。それが『滑る』と言うのは、つまり『流産』の事ですよ。」
そこまで聞いた潘誕の顔が蒼ざめた。
「それでは....最後の節は....」
「気づかれたようですね。そうです。最後の節は、『お前がその子を産もうするなら、お腹のその子はこの世から居なくなる。その手を下す者が誰かなど、お前には判る筈もあるまい。』と言う意味なのです。」
華鳥の解説を聞いた潘誕は、ぶるっと身震いをした。
「それは....あまりにも酷いではないですか。帝の妹君に対して、何という事だ…..」
怒りを抑えきれない様子の潘誕の肩に、華鳥がそっと手を触れた。
「その事を尚香様から聞かされた陸遜様と呂蒙様は、直ぐに尚香様を宮中から連れ出しました。このままにしておいては危険だと判断されたのです。流石に帝の妹君を殺したりは出来ませんが、自ら中絶をしなければ、事故を装って流産させる積りだと....。しかし都を出た尚香様の行方は、決して宮中の誰にも知られてはならなかった。そこでお二人は、滅多に人が足を踏み入れないこの霊鳥山を選ばれたのです。」
華鳥の言葉を聴きながら、潘誕は改めて目の前に聳える霊長山の山容を見上げた。
山麓の直ぐ上には、見渡す限り切り立った黒い絶壁が立ち並んでいる。
山上付近では、鬱蒼とした木々が陽差しを遮ぎり、頂上は叢雲に覆われていた。
「此れは確かに、普通の人間では踏み込めない...」
霊鳥山を見上げながら暫し佇む潘誕の背中を、華鳥が押した。
「先ずは麓にある庵を尋ねましょう。そこに陸遜様と呂蒙様のどちらかがいらっしゃると思います。」
先頭を進む華鳥は、薮の僅かな隙間を搔きわけるようにして歩みを進めて行った。
やがて薮が切れた前方に、小さな林が姿を現した。
そこで華鳥は上を見上げた。
潘誕がその視線の先を追うと、幾つもの枝をまたぐ樹上に小さな小屋が据えられているのが見えた。
華鳥は、その小屋の真下に歩み寄った。
そして、樹上の小屋から垂れ下がっている綱を引き揺らした。
木を打ち鳴らす乾いた音が響き、それに続いて誰何の声が聞こえた。
「誰だ?」という男の声に対して、華鳥が声を発すると、樹上の小屋の窓が一つ引き上げられ、一人の老人が顔を覗かせた。
そして下に佇む二人の目の前に、足場の杭を何本も打ち込んだ一本の木が降ろされた。
その木の足場を伝って、軽い身のこなしで老人が地面に降り立った。
老人は、華鳥の顔を認めると笑顔を見せた。
「華鳥殿。そろそろ現れる頃ではないかと思っておったよ。」
「呂蒙様、お久しぶりでございます。」
深々と拝礼をする華鳥を見て、呂蒙は日焼けした顔を綻ばせた。
「二年以上になろうかな?久々にこの庵に来るのに、道には迷わなんだか?」
「忘れる筈もありませんよ。此処で一冬を過ごさせて頂いたのですから。」
「うむ...。そちらの御仁が、蜀から随行された方だな?」
呂蒙に見つめられた潘誕は、慌て拝礼をした。
「姜維様と華真様から、華鳥様の護衛を命じられました潘誕と申します。伝説の呂蒙様に実際に拝謁させて頂けるなど....。光栄至極です。」
潘誕にそう言われた呂蒙は、意外そうな顔つきになった。
「ほう...光栄? 儂は蜀の重鎮であった関羽殿を討ち、荊州を奪った人間だぞ。蜀の者達からは、親の仇同然に見做されていると思っていたが..」
それに対して、潘誕は淡淡とした口調で答えた。
「戦場での駆け引きは、武人の習いです。その習いに従った結果、関羽様が敗れた。此れは運命です。」
そう話す潘誕を目の前にした呂蒙は、ほぉっと一つ息を吐いた。
「随分と達観しておるな。かなり学も積んでいると見える。誰から学を習った?」
「王平様です。王平様は、武と学の双方を極められた呂蒙様を、武人の鑑と呼んでおられました。」
「王平殿か。街亭の戦いで、功を焦った総大将の馬謖の指揮に逆らい、蜀軍を全滅から救った将軍だな。確か、学においては諸葛亮孔明殿の弟子ではなかったかな? それならば貴方の言も、大いに頷ける。」
そう言いながら、呂蒙は、もう一度華鳥と潘誕を見回した。
「先程、姜維殿と華真殿の命令と言われたな。やはり華真殿は、今は姜維殿の傍か。そうであろうな。先般の魏との戦での采配...。陸遜殿が人伝に聞いて来たが、あれは姜維殿だけでは無理だ。三国の激変を見た華真殿なら、何れは必ず、この場所に眼を付けると思っていた。しかし華鳥殿が来られたという事は、今の華真殿は姜維殿と共に、蜀の改革に忙殺されている最中という事だな。」
呂蒙の言葉に、華鳥は笑みを返した。
「全てお見通しなのですね。それでは、私が此処を訪ねて来た理由もお判りですね?」
「判っておる積りじゃ。あの方を迎えに来られたのじゃな。今の三国は覇者の時代に戻ろうとしている。そうなれば苦しむのは民。この世に再び正しき志を打ち立てようと、華真殿は考えておるのであろう?」
呂蒙の言葉に華鳥は頷くと、背の包みを解き、中から竹簡を取り出した。
すると呂蒙が、華鳥を制した。
「こんな所では話も出来まい。庵に上がりなさい。此処の小屋では狭いので、彼方の方に...」
呂蒙が指差す先の木々の枝の隙間には、一回り大きな庵が姿を覗かせていた。
「ふうん...。此処では、家は全て樹上に設えてあるのですね。まるで大鳥の巣か、猿群の部落のようですね?」
潘誕の言葉を耳にした呂蒙が、快活に笑った。
「面白い事を言いますな。この方が人目に付きにくいし、熊や狼に襲われる事もないのじゃよ。」
呂蒙に導かれ、樹上の庵に登った三人は、その真ん中にある炉端を囲んで座った。
そして呂蒙は竹簡を解くと、中に眼を通し始めた。
そして暫くすると眼を挙げ、華鳥を見遣った。
「此処に書かれている蜀帝の玉璽とは...?」
華鳥は、風呂敷から小さな箱を差し出した。
「これです。帝の証ですが...劉禅帝は成都の王宮に置き去りにして行きました。嘆かわしい事ですが...」
呂蒙は、玉璽の入った箱に向かって、一度深く拝礼した。
そして箱の中の玉璽を確認すると、改めて目の前の二人を見詰めた。
「華真殿の真意、良く分かった。玉璽まで持参されたという事は、姜維殿も同意されていると言う事じゃな。しかしながら、儂と陸遜殿にも考えがある。それを話す前に、先ずはあのお方の元へと行こう。最後の判断は、あのお方ご自身にお任せしたい。」
呂蒙はそう言うと、その場から立ち上がった。
華鳥と潘誕もそれに続き、庵から地上に降りた三人は、呂蒙を先頭にして歩み始めた。
山麓に切り立つ絶壁に沿って暫く進んだ三人は、やがて狭い隙間のある場所へと差し掛かった。
その場に立った潘誕が、崖の隙間を覗き込んだ。
「なるほど。此処から上へと繋がっているのですな...」
三人は岩肌に手を突きながら上へと登り始めた。
やがて崖上に達した三人は、今度は深い森へと踏み入った。
先を進む呂蒙に向かって、華鳥が声を掛けた。
「尚香様もお元気ですか? 今もあの方と一緒にお暮らしなのでしょう?」
呂蒙は足を止めると、華鳥を振り返った。
「....尚香様は、昨年春に亡くなられた。急な病でな...。街の医師の元に運ぼうとしたのだが、尚香様が首を縦に振らなんだ。皇子の事が万が一にも知られてはならぬと仰って...。最後まで気丈なお方であった。」
「そうだったのですか....それは...何と申して良いか...」
その時潘誕が、身体を強張らせて大声を挙げた。
「何か来る…..」
潘誕の声に、華鳥と呂蒙が身構えたその時。
目の前の藪をかき分け、唸り声と共に巨大な熊が、三人の前に躍り出て来た。
その大熊の胸には一本の矢が突き立ち、手負いの熊は怒り狂った形相で、三人の前に立ちはだかった。
「華鳥様、呂蒙様‼︎ 後ろに下がるのです‼︎ 」
剣を抜いて熊の前に立った潘誕の姿を見て、熊は大きく立ち上がって咆哮を発した。
その時、三人の後方から甲高い声が木霊した。
「そこを動くな‼︎ 前に出るな‼︎」
その声に大熊が振り返った瞬間、空を切り裂く乾いた矢音が周囲に響いた。
矢音の唸りと共に三本の矢が宙を飛んで、熊の両眼と眉間に同時に突き立った。
その瞬間、大熊は棒立ちとなり、軈て口元から舌がだらりと垂れた。
大熊はゆっくりと地に膝を突いて前のめりに倒れると、そのまま動きを止めた。
呆然とその姿を見守る潘誕の前に、藪を搔きわけて一人の男が姿を現した。
「済まぬ。肝を冷やさせてしまったな。」
藪の中から姿を現したのは、鹿革の衣を纏った青年だった。
その青年の姿を眼にした華鳥が、感極まった声を発した。
「志耀様‼︎ 」
潘誕の大きな身体の後ろに華鳥の姿を認めた青年は、驚いたように眼を見開き、その後直ぐに満面の笑顔を作った。
「華鳥の姉様‼︎ また来て頂けたのですね。」
青年は、華鳥に声を掛けた後、背後に呂蒙の姿を認めて頭を掻いた。
「此れは...呂蒙爺も一緒だったか..。 此れは....また叱られるのかな...」
すると呂蒙が青年の前に進み出て、厳しい声を発した。
「若様。いつも言っておりましょう。大きな獣を狩る時には一撃で仕留めよと....。それが、この有様はどうした事です。まだまだ未熟で御座いますな。」
呂蒙の叱責を受けた青年は、小さく身体を縮めた。
「いやぁ、面目ない。矢を放つ瞬間に鳥が飛び立ってな...。それについ気をやってしまった....」
「それが未熟と言うのです。鳥ごときに気の集中を惑わされるなど、以ての外です。」
二人のやりとりを聞いた華鳥が、思わず笑い声を挙げた。
「あはは。志耀様は、相変わらず呂蒙師には頭が上がらないのですね。」
頭を搔く青年の姿を見ながら、潘誕が感歎の声を挙げた。
「し、しかし...。一度に三本の矢を放ち、其れが全て急所を射るなど....。正に神業だ...」
青年は笑いながら、潘誕に眼を向けた。
「今日は、新しい客人がご一緒なのですね。」




