華真と華鳥の足跡
長安にある夏侯舜の館の一室では、夏侯舜が司馬炎と向き合っていた。
「暫く顔を見せなかったですが....。何処で何をされていたのです?」
「蜀と呉の今の情勢、特に蜀について探っておりました。祖父と父が、生前に多くの間諜を組織して、それを私に残してくれていましたからね。彼らを使って色々調べて来ました。」
火傷で轢きつれ片目に眼帯をした司馬炎の顔を、夏侯舜が覗き込んだ。
「未だに司馬の一族に仕える者達が、そのように多く残っていたのですか?」
意外そうな顔の夏侯舜に向けて、司馬炎はふっと笑いを返した。
「祖父は、死ぬ直前に全財産を処分して、その全てを一族に仕えた者達に分け与えていました。一族が没落した後に離反した者も出ましたが、祖父の遺志を継ぐ者も多く残ってくれました。表立って日の目を見なかった間諜などを司った一族がそうだったのです。」
「成程。それで何か分かったのですか?」
そう問いかけた夏侯舜の心中を探るように、司馬炎が隻眼を細めた。
「多くの事が....。蜀では思っていた以上に再編が進んでいます。新しい産業や軍政改革にも手を付け始めてる様子です。それを主導している人物ですが...」
それを聞いた夏侯舜が、ぴくりと眉を上げた。
「宰相の姜維ではないのですか?」
「勿論、姜維はその中心に居ます。しかしその他に、姜維の側で影のように付き添う人物がおりました。」
司馬炎の言葉に興味を誘われたように、夏侯舜が首を揺らした。
「それは何者ですか?」
「飛仙亮華真という男と、その妹の華鳥。二人は、元は長安にあった飛仙と言う大商家の出身である事まで突き止めました。」
飛仙の名には、夏侯舜も聞き覚えがあった。
「飛仙と言えば、この国でも指折りの豪商ではありませんか。魏の王宮にも頻繁に出入りしていた筈。それが何故か、過日突然に長安の店を畳んで、他の地方に移って行ったと聞きましたが...」
「それは、逃げたのです。お父上の夏侯覇殿が捕らえられた蜀との戦の折に、何処からともなく大量の兵糧が、蜀へと運ばれましたな。あれは飛仙の手によるものです。祖父の司馬懿の命令で、私が兵糧の出元を調べたところ、飛仙が浮かびました。証拠固めの調査に乗り出している間に、まんまと逃げられてしまいましたが...。華真と華鳥は、飛仙の長男と長女です。」
飛仙の行動には引っかかりを覚えながらも、話に出てきた二人が商人の出と聞いて、夏侯舜の興味は忽ち消え失せた。
なぜその二人が、姜維の側にいるのかは知らぬが、所詮商人は、商人。
商家の息子と娘など、それほど気にする事もあるまい…. 。
そう思いながら夏侯舜は司馬炎の顔を見た。
「ほぅ。飛仙は、蜀に付いたのですか。兵糧の為に、蜀はその二人を抱き込んだと言う事なのですね。しかし、商人は所詮は商人。その事が明らかになってしまった以上、今後はそうそう派手な動きは出来ないのではないですか?」
そんな夏侯舜の様子を察して、司馬炎が嗜めるように言った。
「この二人を侮ってはなりませんよ。先程の貴方も、飛仙が大きな力を持つ豪商であると言っていたではないですか。それとこの二人、唯の商人出と思うのは間違いです。どちらも、なんというか….人間離れした者達なのです。」
司馬炎にそう言われて、夏侯舜は怪訝な顔になった。
「人間離れ……? どういう意味ですか?」
「どういう経緯で、二人が姜維の元に居るに至ったか…..それは未だ不明です。この二人、五年前に長安にあった飛仙の実家から二人揃って忽然と姿を消しています。そしてその足跡が、各地に残されていました。」
「ふうん。そのようなもの。よく探し当てましたな…..」
「二人は、揃っての美男と美女。それが派手な行動をしながら共に動いていたとなれば、探し当てるのは簡単でした。」
夏侯舜は、その言葉に首を傾げた。
「派手とは、どのように...?」
「この二人は、三国のあちこちで、民達から神のように崇められているのです。先ず兄の華真の方ですが、実りの少ない貧村を次々と訪れては、様々な知識や技術を教えて回っています。新たな農機具を工夫し、新しい作付け方法を、行く先々で教えています。天を読むとも言われていて、豪雨や氾濫、台風の襲来を、数日前には的確に言い当てたそうです。その結果、其処彼処で華真は豊穣の神の化身と呼ばれるようになりました。」
司馬炎の言葉に、夏侯舜は信じられないという顔を見せた。
「妹の華鳥の方ですが、呪術姫とも命招菩薩とも呼ばれていました。その名が各地で噂されるようになったのは三年ほど前からです。治る筈がないとされた病人や怪我人を、魔術のような手法で回復させたと、各地で伝えられています。」
そこまで司馬炎の話を聞いていた夏侯舜が、ぼそりと声を発した。
「妙な話ですね。商家で育った人間が、何故そのような人間離れした技を奮えるのです? 他の誰かの話が入り混じっているのではありませんか?」
夏侯舜の指摘に対して、司馬炎は首を横に振った。
「私も、最初に報告を聞いた時はそう思いました。しかし各地で二人の人相書を見せて確認したところ、誰もが口を揃えてこの御仁達に間違いないと証言しました。」
夏侯舜の表情に、それまでとは違う興味の色が宿った。
「人相書...?何故そんなものがあるのです?」
「我らの諜報網を侮ってはなりませんよ。蜀に忍ばせた間諜達の手にかかれば、姜維の傍に居る者の人相書など、簡単に手に入れられますよ。」
夏侯舜は、頭が混乱して来るのを感じた。
「ちょっと待って下さい。人相書と一致したからと言って、商家の出である連中に、何故そんな神がかった事が出来るのです? そのような事柄、商家では習えるた筈もないでしょうに。何故そんな事が? あり得ぬではありませんか。」
夏侯舜の混乱を察したように、司馬炎は一旦話を止めた。
そして夏侯舜が落ち着きを取り戻すのを見計らうと、再び口を開いた。
「妹の華鳥については、その手掛かりがありました。あの二人が魏の山奥を旅している時に、華佗という医師の弟子達が集まる部落に、長く逗留していた事が分かりました。華佗は、亡き曹操帝の主治医を務めた人物です。とてつもない名医だったと伝えられています。死人をも生き返らせると言われていました...。だがある時、曹操帝の怒りに触れ、処刑されたと伝えられております。」
二人が魏に潜んでいたと聞かされた夏侯舜は、自分の記憶を探った。
華佗という名前、何処かで聞いた事があるような…。
「華佗が処刑された理由は諸説あり、真実は良く分かっておりません。しかしその弟子達が、華佗の医術を引き継ぐ為に、人里離れた山奥に篭り、修練を繰り返しているのは事実です。その医術とは、時には患者の身体を切って、治療を施すそうです。」
夏侯舜は、思わず司馬炎の顔を見直した。
「身体を切る...? そんな事をすれば、患者は益益弱り、場合によっては死んでしまうではありませんか。」
「普通なら、そう考えますね。しかし弟子達の手で、身体を切る治療を受けた患者が何人も命を永らえている事は、その部落の周辺の者なら誰もが知っています。人の耳には憚られるので、外部には秘密とされてますが...。華鳥は、彼らからその医術を学んだようです。」
夏侯舜が押し黙り、考えを巡らすように腕組みをした。
そして謎解きに挑む生徒のような表情になった。
「それでは、華真の方については? その人並み外れた農業技術や天文の知識は何処から? もしかすると、文献にあったのでは...。飛仙の主人が無類の書籍の収集家であった事は、俺ですら知っています。」
「私もそう思い、あらゆる文書を調べさせました。確かに天文については、多くの文献がありました。しかし華真の教えた農耕の技術や知識は、どんな文書にも記載はありませんでした。只調べる中で、その技術が唯一普及している地域がありました。」
夏侯舜が、ようやく光明を見出した顔つきになった。
「それは何処です?」
「蜀の中北部一帯の地域です。此処には、華真が教えた耕作技術や農耕器具が、ほぼそのままの形で普及していました。」
やっと謎が解けたとばかりに、夏侯舜が膝を乗り出した。
「それなら、話は簡単ではありませんか。先ず華真と華鳥は、旅の最初の場所を蜀に定めた。そして華真は、そこにあった農耕の技を会得して、それをその後に立ち寄った別の地域で伝授した。これなら何もおかしくはありません。」
ところが司馬炎は、生徒に間違いを指摘する教師のような表情で、夏侯舜の言葉を否定した。
「普通は、そう思いますよね。ところが、旅の順序が逆なのです。二人が最初に旅で巡ったのは魏の南部。そこから呉に下り、呉の全て巡った上で、蜀に達したのは一年前なのですよ。」
「言われてる事の意味が、良く判りませんが...」
そう言いながら思わず頭を掻いた夏侯舜に、司馬炎が厳かな声で告げた。
「分かりませんか? 華真の伝説が最初に生まれた魏の農村にあの二人がいた時には、華真は蜀の農耕技術など、それまで一度も眼にしてはいなかったという事です。」
そう言われた夏侯舜は、ぽかんとした表情で司馬炎を見返した。
「この事実が示す事は、只一つ。華真は、蜀にある新しい農耕技術を最初から知っていた...。そう言うことです。それでは、蜀の地にこの新技術を広めたのが誰か? 貴方はそれをご存知ですか?」
そう言われても、夏侯舜にはそのような知識はなかった。
「いや...俺は戦と武術以外の知識には疎いのだ....。そう問われてもさっぱり判らぬ...」
「蜀において農耕改革を推進し、飛躍的な発展の礎を築いた人物。それは、あの諸葛亮孔明です。」
それを聞いた夏侯舜の頭の中で、再び推理の糸が繋がった。
「あの孔明ですか....。すると華真は、生前の孔明と交友があったと言うことですね?...。そうででなければ、孔明の著した農業書を読み、技術を学んだとか...」
夏侯舜の言葉に、司馬炎は首を振った。
「いや...どう調べても、生前の孔明と飛仙を結ぶ接点は出て来ません。それに、孔明が遺したそのような農業書も、蜀王宮の書庫には見当たりませんでした。そもそも農耕技術は、実際に作物と向き合わねば会得出来ません。机上の学問では駄目なのです。」
夏侯舜も、即座にそれはそうだろうと悟った。
「では、商家で育った者が、どうやってそのような土いじりなどに親しんだと言うのです? 変ではないですか?」
「そうです、変なのです。それだけでは無い。夏侯覇殿が捕らえられた戦や、呉の水軍を蜀領内に導いた際に駆使された術策。あれらは到底姜維一人で考え出せるものではない。私は、あの策を提案して姜維に実行させたのは、華真であると思っています。」
そう言われた夏侯舜は、司馬炎の言葉を即座に否定した。
「それはあり得ぬ。如何に兵法書を熟読し、それに精通したとしても、実際の戦場での経験が無い者が、あのような軍略を生み出せる筈が無い。しかも商人の出自の者になど….。それこそ逆立ちしても無理です。兵法も机上の学問では無いのですぞ。」
夏侯舜の言葉に頷きながらも、司馬炎の確信がある様子は微塵も崩れなかった。
「私は、夏侯覇殿が捕らえられた戦の一部始終を、少し離れた丘の上から見ておりました。その時の蜀軍を率いた馬超は、確かに名将ではありますが、あの時の戦い方は、私が知る馬超の戦い方とは違っていました。」
自分の父が敗北した戦いについて語る司馬炎の言葉に、夏侯舜は真剣に耳を傾けた。
「あの陣は、諸葛亮孔明が生み出したとされる迷宮鉄鎖の陣。馬超が本来得意とする戦のあり方とは、およそかけ離れた陣形でした。それともう一つ。つい最近、成都で大規模な軍事調練が試合形式で行われました。その様子を密かに偵察した間者からの報告では、軍を指揮したのは、一人は孟獲。そして相手の軍の指揮官が華真でした。試合は、夜明けから七度に渡って行われ、全てが華真軍の勝利。孟獲軍は相手本陣に迫る事すら出来なかったそうです。」
夏侯舜は、そのような話は一概には信じられぬ…と感じた。
兵の数に相当に大きな隔たりがない限り、一方的に七度も続けて勝利するなどまず有り得ない。
余程のぼんくらが一方の指揮をとっていたなら、それもあり得るかもしれないが、相手の指揮官は猛獲だと言う。
伝え聞く限り、今の猛獲がそれ程劣った将軍とは思えない。
夏侯舜の思考を無視するように、司馬炎の話は続く。
「しかも、前半戦に華真の軍が見せた陣立ては、どのような兵法書にも無いものだったそうです。その陣に翻弄された孟獲の軍は昼前には疲労困憊の状態となり、その後は自滅同然だったとか...。こんな陣略を易易と創り上げるなど。私の知る限りでは、それが出来るのは諸葛亮孔明だけです。」
繰り返し孔明の名を聞かされた夏侯舜は、些かうんざりした気持ちになった。
「また孔明ですか...。どうなっているのです?孔明は死んだ筈ではなかったのですか?」
「孔明が、この世に転生でもせぬ限りあり得ぬ事。考えられる事は一つです。諸葛亮孔明は、死んだのではなく、未だ生きている。華真を傀儡として使い、裏で操っているとも考えられます。」
この人は、何故これほどに孔明に拘るのだ….と夏侯舜は思った。
死んだ筈の人間が実は生きているなどと言われても….。
訳が分からぬ。
「し、しかし…そうだとすれば、何故このような回りくどい事をするのです。華真と華鳥は、五年間も各地を旅してから、蜀に現れたと言ったではないですか。何故そのような事を..? もし孔明が生きているなら、堂々と表舞台に立てば良いではないですか。傀儡を立てる必要など、何処にあるのです?」
夏侯舜からそのように聞かれても、司馬炎は真剣な表情を崩さなかった。
「判りません。しかし孔明という男の考えは、常人では測り知る事は出来ない。必ず何かが裏にある。更に突っ込んだ探索をやっている最中です。先ずは姜維と華真の行動を監視させています。孔明がまだ生きているなら、定期的に華真と接触して、その後に華真が新たな行動を起こしている筈です。それと気になる事が、他にも一つ。ニケ月ほど前から、華鳥が姿を消しています。その行方に、今の蜀が考えている事を解き明かす鍵があると睨んでいます。」
司馬炎が何かを掴んでいると感じた夏侯舜は、誘いの言葉を発した。
「貴方がそう言うからには、既に何かを頭に描いているのでしょう?」
夏侯舜からの誘いの言葉に、司馬炎は小さく笑いを漏らした。
「劉禅帝が蜀を去った直後に、姜維が蜀の各地に立てた高札。『新しき帝が、成都に入城する』という内容は、一見すると混乱を収める為の方便にも聞こえますが、そうでは無いでしょう。夏侯覇殿も、貴方に対して『今は新帝は居ないが、その方を探し出せる希望がある』と口にしています。これが鍵ですね。」
司馬炎の言葉を受けた夏侯舜は、目まぐるしく思考を回転させた。
「蜀が新たに推戴しようとする新帝を探し、その者を蜀に迎える密命を受けて華鳥は姿を消した...。そう言うのですね? となれば、貴方は、既に配下の者達に華鳥の行方を追わせている筈だ。直ぐに捕らえるのではなく、蜀が新帝と目している人物の元まで尾行しろ...。そう指示しているのでしょう? 蜀が...もしかして裏にいる孔明が、その人物を探し当てた時、貴方はどうする積りなのです?」
そう聞いて来た夏侯舜に、司馬炎は凄みを含んだ笑みを見せた。
「流石に夏侯舜殿ですな。そこまで推察されたのなら、私はお答えはします。その代わり貴方様の胸の内も、私にお聞かせ願いたい。もし私がその人物を探し当てた時には、貴方はどうなさいますか? 貴方も私と同じく『志』という言葉が気に掛かっておいででしょう。この言葉、貴方は父上から聞かされ、私は祖父から聞かされた。貴方もずっと父上の言葉の意味を考えておいででしょう。ならば貴方がこの先どのように動こうとされるかに、これまで貴方が考え抜いて来た結果が示されるのですからね。」




