姜維の敗北
翌日、姜維は昼食を終えると、正装に着替えて宮中へと参内した。
正殿内で畏まり、帝に向かって拝礼した姜維に向かって、劉禅は冷やかな目を向けた。
「何をしに戻って参った? 前線で何か変化があったのか?」
それに対して、姜維は頭を下げたままの姿勢で答えた。
「現在のところ、魏軍が直ぐに動く気配は有りません。しかし斥候からの報告で、魏軍の陣への兵糧の輸送量が、最近目立って増えているとの事です。」
姜維の言上に、劉禅は眉をぴくりと上げた。
「それでは、いずれ魏が攻めかかって来るというのか? それを察知しながら、何故今、成都に戻って来たのだ? こういう時こそ、前線に留まり戦況を見極めるのが、御主の役割であろう?」
やはり、このような御言葉を発するのか…と思いながら、姜維は、出来るだけ語気を抑えながら、言葉を発した。
「恐れながら...。我が軍への食糧の補給が、ひと月程前から滞っております。何度も問い合わせの使者を出しましたが、ご返事を頂けないので、本日は直接お尋ねに参上した次第に御座います。」
姜維の問いに、劉禅は背後に控える黄皓を振り返った。
劉禅の促すような視線を受けて、黄皓は悠然と劉禅の傍に進み出た。
「昨年の稲の実りが思わしくなかった事は、丞相のお耳にも届いて御座いましょう? 今は兵站を増やす余裕は有りません。」
黄皓の言葉に、姜維は顔を挙げた。
「作物の実りが天候によって左右されるのは致し方無き事。だからこそ一昨年来、財政改善の為の養蚕普及を進言申し上げて来た筈。金があれば、他国から食料も買えます。」
姜維は、稲作だけに頼る蜀の財政改革の為、養蚕と機織りの振興を前々から提案していた。
良い絹を生み出し、それを他国に売る事で財政の改善を図ろうとしたのだ。
姜維の言葉に、黄皓は冷たい声音で答えた。
「その事なら、帝もご参加頂いた協議の結果、不採用となっています。商いなどに手を染めるのは、卑しき事。国を支えるのは農業であり、副業などに拘ってはならぬ...と言う事です。」
黄皓にそう断言された姜維は、思わず言葉を荒げた。
「何と...‼︎ 宰相である私に一言の相談もなく、そのような愚かな事、決めてしまわれたのですか。」
姜維の強い語調に、黄皓は眉を上げた。
「そのよう言われても、姜維殿はずっと前線におられ、成都での評定など出て来られる事はなかったではないですか?何よりも、この決定は帝の御意志でもあるのです。姜維殿は、それを愚かと申されるのか。」
帝の決定となれば、流石に正面から非難は出来ない。
「いや...それは...」
言葉に詰まる姜維に、黄皓は勝ち誇ったように言葉を継いだ。
「とにかく、今は兵站を増やす事は出来ませぬ。食糧が必要なら、前線の兵達皆で、駐屯地の荒地を開墾し、そこから調達を図れば宜しいかと...。民への増税はまかりならぬというのは、先帝からの基本であり、姜維殿も常々(つねづね)申されていた事。それならば、兵達自ら汗を流すのが正道で御座いましょう。」
その横で頷く劉禅を目にした姜維は、それ以上の言葉を止めた。
此処まで帝は、黄皓の手の内に落ちていたのか…..。その事実を噛み締めながら、姜維は額を床に擦り付けた。
ここは、勝ち目はない。
こうして姜維は、なす術もなく、その場を退出するしかなかった。
歯軋りをしながら、宮中から出てきた姜維を、大手門で迎えたのは王平だった。
「丞相。どうでした? 兵站は増やして貰えるのですか?」
首を横に振る姜維に、王平は怒気を含んだ声音を発した。
「黄皓ですな。あやつの専横ぶりは、最近は目に余ります。先程あやつの屋敷の側を通り掛かったのですが、海山の様々な物産が、門より大量に屋敷内に運び込まれておりました。これはなんだ? と、番人に問い掛けたら....」
先を促す姜維の顔色を見ながら、王平は言葉を繋げた。
「今晩、宮中の文官達を大勢呼び寄せて、盛大な宴会を催すそうです。作物が不作の時は、上に立つものが率先して質素倹約に励むべきなのに...」
王平の報告を聞いた姜維は、天を仰いだ。
「私の責任だ...。あのような愚か者を、ずっと帝の側に置いたままにしてしまうなど....」
その言葉に、王平は思わず姜維の肩に手を掛けた。
「宰相殿の責任では有りません。姜維殿はずっと前線で、我々(われわれ)と共に苦労をされて来たではありませんか。そんな事を仰らないで下さい。」