蜀改革と猛獲の招来
成都では、姜維が、華真と共に国の立て直しの為の諸政策の打ち合わせを行っていた。
「先ずは、国が潤う為に殖産の整備をせねばなりませんが、此れには、姜維殿が前々から手を付けられていた養蚕が役立ちますね。前の帝や黄皓達に阻まれて停滞していたとは言え、養蚕や機織りの技術は、既に各地でかなり普及していますからね。先ず此れを本格化しては如何ですか?」
以前から強く推していた養蚕が華真の口から出た事で、姜維は破顔した。
「それなのですが、今迄は年貢の為の米作を強要されていた為に、どうしても養蚕は片手間となっていました。此れを専業化し、一気に普及を進めるのはどうでしょうか?」
「妙策です。それと今一つ。成都に上る途中で、多くの沼沢を見ました。あれは蓮田に最適です。蓮の根は食用としても貴重ですが、蓮の大葉は紙の原料としても使えます。製紙をもう一つの柱としては如何ですか?」
次に華真の示した案に、姜維はやや怪訝な顔つきになった。
「紙...ですか? 」
「そうです。紙というものは、単に記録や伝達の為だけに使うものでは有りません。教育の普及や文化の創造に欠かせないものです。未だ王宮の一部でしか使われていませんが、いずれは世の中に広く普及するでしょう。その便利さを一度知れば、誰もが欲しくなるものですので、今後国の財を獲得するには格好ですよ。」
ふむふむと頷いた姜維は、ぽんと手を打った。
「成程。華真殿は、目の付け所が違いますな。」
だが華真の提案は、それだけには留まらなかった。
「養蚕に製紙....。そこで良いものを生み出す技術を磨く事も重要ですが、それを金に換える方法にも工夫が要りますね。今までのように行商に頼るだけでは、効率が悪いですね。」
今度は何だ…と、姜維は興味津津に華真の次の言葉を待った。
「主要な街道沿いの場所をいくつか物色して、市場街を作ってはどうでしょうか。其処で定期的に市を開くのです。これならば、他国からも物品を求める者達が多く集まるでしょう。」
華真の口から次々と出てくる新しい発想に、姜維は感嘆を隠せなかった。
そんな姜維の顔を見て、華真は小さく笑った。
「実は、これは私の考えではないのです。飛仙の父が長年の夢としている事柄です。国を富ませる為に、商いと言うものがもっと大きな役割を果たせる筈だと、父は考え続けていました。その結果として父が考案したのが、今申し上げた定期市なのですよ。」
「流石に、各地で大店を構えるお父上らしいお考えです。当然ご援助も頂けるでしょうし....これは、直ぐに進めましょう。」
華真と話す中で、姜維は次第に胸に熱いものが湧き上がって来るのを感じた。
これらが実現出来れば、蜀は豊かな国となり、民も潤う…..。そう考えて姜維は高揚感に浸った。
そんな姜維に対して、華真が表情を引き締めて向き直った。
「それと、最後に一つ。思い切った改革を、宰相殿にご提案したいのですが...」
まだあるのか….と、姜維は内心呆れていた。
一体この人の頭の中には、どれ程の智慧が詰まっているのだ…..。
だが華真の話は、聞いていてちっとも疲れない。
それどころか聞いているうちに、胸中にどんどん希望が溢れ出てくる。
あぁ、この感覚…。かつて孔明先生から話を伺っている時に覚えた感覚と同じだ。
やはり孔明先生は、この人の中にいるのだ…..。
そんな感慨に浸りながら、姜維は華真に言葉を促した。
「何でしょう?」
「蜀軍のこれからの在り方です。今迄は、軍を率いる者達だけが、常時の戦に従事して、歩兵の多くは農民からの徴兵で賄われておりました。此れは蜀に限らず、どの国でも同じです。しかしこれでは田植えの時期や稲の刈り入れ時期は、調練や戦は出来ない事になります。」
それは分かりきった事柄だ….と姜維は思った。
だからこそ田植えや刈り取りの時期を外して、如何に戦の時を見極めるかが、戦術の要諦の一つとなっているのだ….。
「養蚕や製紙など、殖産の幅が広がれば、今後は更にこの事が問題となりましょう。」
華真の言葉に、姜維は頷く。
それもその通りだが、一体この人は何が言いたいのだ….。
華真は、姜維の顔を凝視し、暫く沈黙した後に言葉を繋げた。
「思い切った兵農分離を行うべきでしょう。戦は軍人のみが行い、農民は自らの生業だけに専従して貰うのです。今後は、徴兵は基本的に廃止すべきと考えます。」
今度こそ、姜維は仰天した。
そんな事は、今まで誰一人として考えた事がなかった。
軍人の数を大幅に増やせと言うのか….。
彼らを雇うための金は、どうやって工面するのだ….。
姜維は、素直にその疑問を口にした。
「そ、それは...大胆な案ですな…..。しかしその為には、軍人の数を大幅に増やさねばなりませぬが….。必要な俸禄も当然増加しますし….」
華真は、姜維の反応を予め予想していたように即答した。
「だからこそ、それを賄う為にも殖産の振興が必要なのです。国を富ませる事が...。しかし国が潤えば、その富を狙う他国の脅威も増加する。その脅威から国を護る為には、強い防衛力が必要です。殖産と軍事の重要性は、一体の関係にあるのです。本来は、戦など無いに越した事は有りません。しかし世を安定させ、民を安んじるには、どちらも考えねばなりません。その為の提案なのですよ。」
「しかし..新たな兵達は、何処で調達したら良いのですか?」
その疑問に対しても、華真はいとも簡単に答えを返した。
「以前に諸葛亮孔明が、南方遠征を行ってその地域を平定し、今は孟獲殿が其処を預かっておいでですね。彼の地は人口が多く、勇猛な気質の者も多い。此処が最適と思います。」
姜維は、改めて驚嘆した。
何という事だ!!。
この人の言っていることは単なる思いつきなどではない。
この人には、全てが視えているのだ。
姜維は、華真の提案に同意した。
「分かりました。しかし先ずは孟獲殿に相談せねばなりませんな。早速使者を出し、孟獲殿に成都に来て頂くようにしましょう。」
そして約千の軍勢を引き連れ、孟獲が成都へと入城して来た。
王宮の一室で出迎えた姜維と華真に向かって、孟獲は吠えるように言った。
「先ずは言いたい事がある。劉禅帝が魏に逃げ出すとは、何と言う失態だ‼︎ 姜維殿、貴方は一体何をしていたのだ‼︎ それで宰相の任が務まるのか? 諸葛亮孔明殿であれば、このような醜態、決して起こさなかったものを...。」
熱り立つ孟獲に、姜維は椅子から立ち上がると、深々と頭を下げた。
「お怒りはごもっともです。返す言葉もありません。しかしし今の我々は、今後の蜀をどのように立て直すかに尽力せねばなりませぬ。それ故に、孟獲殿にも是非お力添えをお願いしたいのです。」
「そのような事を言われても、俺には解せぬ事だらけだ。先ず貴方が、先日各地に立てた高札。あれは何だ? 『新しき帝が、もうじき成都に入城される』とは...。未だに何の音沙汰もないではないか。」
猛獲の指摘に、姜維はもう一度頭を下げた。
「それは、そのお方が今は蜀にはおられないからです。今、迎えを遣わしている最中。それ故に暫くは時を要するかと...」
「そのお方とは、どなたの事だ? 劉永様も劉理様も、劉禅帝と共に魏に下ったそうだが、そのどちらかの方か? だとすれば未だご存命なのか?」
先を急ぐ猛獲を、姜維は手を挙げて制した。
「それについては、今は申し上げられませぬ。暫くご猶予を...」
「今度は、だんまりか..。俺には話せぬと言うのだな。」
猛獲はふんと鼻で笑うと、椅子に座ったまま膝に右肘を下ろした。
「まぁ、今は聞かずとも良い。所詮俺は、辺境を預かるだけの身に過ぎんからな。しかし今一つ。新帝を迎えても居らぬのに、今まで無かったような新策を次々と打ちだそうとするのは、どう言う訳だ? そうした事は、新しき帝の名の下で発布するのが筋であろう。」
其処で、華真が初めて口を開いた。
「それについては、私がご説明を...」
すると孟獲は、華真に鋭い眼を向けて睨みつけた。
「お前は何者だ?何故、此処に居るのだ? 俺はお前のような者は知らぬぞ。」
猛獲の鋭い眼光に晒されても、華真には何ら臆する気配もなく、ゆったりとした仕草で拝礼した。
「ごもっともで御座います。ご挨拶が遅れました。飛仙亮華真と申します。ごく最近、姜維宰相殿の近くに召し抱えられました。」
華真の言葉を聞いた猛獲の口調が、さらに刺々(とげとげ)しくなった。
「近頃、宰相殿が常に側から手放さぬ新参者が居ると聞いた。それがお前か? 今回、宰相殿が文で寄越した内容は、全てお前が吹き込んだものか。」
猛獲の言葉に再度拝礼した華真を見て、猛獲の激昂は次に姜維に向けられた。
「宰相殿は、何を考えておるのだ。このような詐欺師に惑わされるとは...」
猛獲の言葉を聞いた姜維が、眉を上げて立ち上がった。
「お待ち下さい。いかに孟獲殿でも、それは言葉が過ぎますぞ‼︎ 」
席を立って睨み合う二人に向かって、華真がゆったりとした口調で話しかけた。
「お二人共、落ち着いて腰を下ろして下さい。成程。孟獲殿の言われる事は尤もですね。私のような見ず知らずの男が、いきなり自分達の舞台へと足を踏み入れて来たのですから...」
そう言いながら、華真の眼には挑発するような光が宿っていた。
「以前に、諸葛亮孔明が南方の貴方の土地に踏み込んで来た時も、今と同じお気持ちだったのでしょう? 訳の分からぬ奴が、いきなり自分達の土地にやって来たと、そう思われたのでしょうね。」
猛獲は華真の言葉の意味を図りかねたように、目を瞬かせた。
「お前。いきなり何を言い出すのだ?」
「貴方は、正直な方です。初めて会った人間の言葉など聞けぬ。信用に足りるかどうかを、ご自身が納得出来ねば、話などしたくない。そう言いたいのでしょう?」
華真の言葉にはっきりと挑発の色を感じ取った猛獲は、威嚇を込めた視線を華真に返した。
「その通りだ‼︎ 当然ではないか‼︎ 」
「嘗ての貴方はそう考えて、自分の地にやって来た諸葛亮孔明に戦いを挑んだ。そして七度戦い、七度とも敗れた。そして貴方は蜀に帰属した。そうでしたね?」
過去の事実を突然目の前に突きつけられた猛獲は、思わず絶句し息を呑んだ。
そしてその後、漸く言葉を絞り出した。
「そ、そうだ....。しかし、俺は蜀ではなく、孔明殿に帰属したのだ。鬼神のように強く、それでありながら彼の地の民を思う心根を持つ孔明殿だからこそ、従う気になったのだ。」
猛獲の返答を予想していたように、華真は今度こそはっきりと挑発を表に出した。
「ならば、以前と状況は一緒ですね。孟獲殿。私と勝負してみませんか?」
華真から挑発を受けた猛獲の心中は混乱していた。
俺に送られて来た文の内容は、協力を求める嘆願だった筈だ。
それなのに、いざ顔を合わせた途端に、このように挑発してくるとは……..。
一体何を考えているのだ?
「何を勝負すると言うのだ? 訳の分からぬ事を...」
すると華真は、猛獲の眼を見据えて、にっと笑った。
「今回、貴方は千の兵を率いて来ておられます。それを率いる貴方と、同じく千の兵を率いる私とで、模擬合戦を致しましょう。勝負は七度。七度とも私が勝った時には、私の提案する策に耳を傾けて頂く。それで如何でしょうか?私の申し上げている意味はお分かりですね。あの七縦七擒を、私はもう一度貴方に求めているのです。まさかお逃げになる事はありますまいな?」




