飛仙の拠点
番頭の老人は、直ぐに潘誕を玄関に招き入れると、側にいた小僧に命じた。
「お前はお医者の所に行って、直ぐに来て欲しいと伝えなさい。その前に、大旦那様と奥様にお知らせを。華鳥お嬢様が大変だと....」
あたふたと多くの奉公人達が玄関口に姿を見せた。
彼らが華鳥を奥へ運びこむのを、潘誕は呆然と見守った。
「お嬢様だって...? そう言えば華鳥様の実家は、大きな商家と言っていたが...、此処がそうだったのか?」
やがて、直ぐに小僧に案内された医師が駆けつけ、華鳥と潘誕は手当を受けた。
「見事な応急処置でしたなぁ。此れが良かったですね。直ぐに毒消しを飲んだのも正解でしたな。」
寝台で横たわる華鳥を見ながら、潘誕は医師に尋ねた。
「俺も同じように矢を受けたのに...。何故、華鳥様だけがこのように...?」
「身体の大きさが違うからです。お嬢様の体格は、貴方の半分ほどですからね。だから毒の力が薬を上回ったのでしょう。でももう大丈夫です。しかし二、三日は毒が残るでしょうから、気をつけて下さい。」
医師の手当を受けた潘誕は、その後奥の部屋へと案内された。
座敷には気品がある老人と婦人が並んで座っていた。
部屋に潘誕が入って来ると、二人は顔を挙げ、そして丁寧に頭を下げた。
「貴方が、華鳥を救って下さったのですね。貴方も傷を負って居られるようですが、大丈夫なのですか?」
婦人が気遣うような視線を向けながら、潘誕に声を掛けて来た。
「俺は平気です。それに俺は、此処に華鳥様を運んで来ただけで...。手当の手順は全て、華鳥様がご自身で指示されたのです。」
「そうは言っても、あの山道を華鳥と荷物を背負って歩いて来られたのでしょう? 大変な事であったと思います。貴方が華鳥の護衛の潘誕様ですね?」
「俺の名前をご存知なのですか?」
「七日程前に、華真からの文と荷物を携えた使いがやって来ました。華鳥と貴方様が此処に立ち寄ると告げて....。」
それを聞いた潘誕は、得心した顔になった。
「やはり 此処は華真様と華鳥様の御実家でしたか...。華鳥様が、華真様からの連絡を受ける場所があると仰ってましたが、此処だったのですね。」
すると今度は、婦人の傍らに座る老人が口を開いた。
「私は、華真と華鳥の祖父です。そして、此処に居るのが二人の母親。生憎と、現当主である父親は、所用で留守にしておりますが….。私どもは、数ヶ月前までは長安に居たのですが、身辺が慌ただしくなった為に、急遽こちらに移って来たのですよ。」
それを聞いた潘誕の眉が小さく上がった。
「それは、もしや蜀に兵糧を運んだ事を、嗅ぎつけられた為ですか?」
その問いに、祖父と名乗った老人は穏やかな笑みを見せた。
「その通りです。魏の宮中には、状況を読む事に聡い者がいたようで、我々を怪しむ様子が見えて来たので、厄介が起こる前に直ぐに長安を引き払ったのです。飛仙という店の名は、貴方様も耳にされた事がおありでしょう。我らは、中華全域で商いを行う為、各地に店を構えています。此処はその一つなのです。いずれにせよ、貴方が真っ直ぐに此処に辿り付けたのは幸運でしたな。傷が癒える迄は此処で養生されると良い。」
そう言いながら華鳥の祖父と名乗った老人は、潘誕に向けて手招きをすると、部屋の外に誘った。
潘誕は、怪訝な顔つきで老人の後に従った。
老人は庭に降りて、庭の奥にある池の側に設えた東屋に潘誕を導いた。
東家の中に設置された座卓を潘誕に勧めた華鳥の祖父は、潘誕が腰を下ろすのを確認した後、和かに語り掛けた。
「華鳥の護衛という方とは、どのようなお人かと思っておりましたが、貴方のような方で本当に良かった。これからも、華真と華鳥の事、宜しくお願い致します。」
そう言われて頭を下げられた潘誕は、突然の事に慌てた。
「何を仰るのです。俺は華真様と華鳥様の下で、お仕えしている身なんです。祖父上様から、そのように頭を下げて頂く立場にはありません。」
老人は潘誕の顔をまじまじと見遣った後に、再び微笑した。
「貴方は、真に実直なお方だ。言葉にも態度にも、一切の媚びも裏表も感じられない。そんな貴方が二人の傍にいて下さるなら、私達は安心していられます。」
返答に窮して押し黙る潘誕に向かって、老人はまるで独り言を呟くように語り始めた。
華鳥は、小さな頃よりとんでもないお転婆でしてな。
いつも近所の男童達を従えて野山を駆け回り、まるで何処かの城の大将のようだと囁かれていました。
負けず嫌いで、男童と喧嘩をしても負けたくないと言って、女だてらに武芸道場にもずっと通い続ける有様でした。
そんな華鳥が、なぜか唯一頭が上がらなかったのが、兄の華真でした。
華真の方は、武芸事には全く興味を示さず、所謂本の虫でした。
しかし商家の跡取りですから、それで何の問題も有りませんでした。
華鳥は武芸道場から戻ると、真っ直ぐに華真の部屋を訪れ、様々な学問の話を聞くのが日課となっていました。
その頃の私達は、華真が跡目を継いでも、華鳥が婿を取っても、飛仙の将来は安泰と高を括っていました。
そんなある日、唐突に二人が揃って、私と両親に対して『旅に出たい』、と申し出て来たのです。
更には華真も華鳥も、今後は飛仙の家業に関わる事は無い、と言い出したのです。
勿論、そのような事、おいそれと認める訳には行きません。
すると二人は、家族には何も告げずに、黙って家を飛び出したのです。
それに気付いた私達は、絶望のどん底に突き落とされました。
月日が経つ中で、二人から定期的に連絡の文が届くようになりました。
最初のうちは、自分達が息災である事だけの知らせでしたが、便りが重なってゆく中で、文に記される内容が大きく変化して行ったのです。
国の政とか、民の安寧といった言葉が、文に頻繁に記されるようになりました。
その変化を受けて、最初に態度を変えたのが、私の息子であり、二人の父である飛仙の現当主でした。
当主は、今後は華真と華鳥の行動には一切の干渉をしないと宣言しました。
それだけなく、もし二人が飛仙に支援を請うてきた時には、それが自分達の生活への援助ではなく、二人が目指すものの為であれば、何も問わず支援すると決めたのです。
現当主である私の息子も、華真と同じく本の虫でした。
あの二人の便りの中に、強く共感する何かを見つけたのでしょう。
当主が決めた事であれば、隠居の私が口を挟む道理はありません。
過日に華真から依頼があった時、飛仙が直ぐに蜀に食糧を送ったのも、全ては当主の決断です。
飛仙は、今後共あの二人が目指すものの為ならば、どのような支援も惜しまないでしょう。
しかし華真と華鳥の二人が、どんどんと危険な道に足を踏み入れている様子には、日々心を痛めていたのです。
潘誕殿は、蜀の軍の中でも一二を争う武芸の達人と聞きました。
どうか降り掛かる厄災からあの二人を守る守護神となって下さい。
翌日になっても、華鳥の熱は中々下がらなかった。
心配そうな表情で枕元にやって来た潘誕に、華鳥が声をかけた。
「体内の毒が消えるのに時間がかかって居るようですね。しかし貴方は頑健ですね。毒など微塵も受け付けなかったようですね。」
「華鳥様の処置が良かったのです。それに引き換え、俺の処置が下手糞だった為に、華鳥様はこのような事に....」
頭を垂れる潘誕に、華鳥は笑い掛けた。
「何を言うのです。貴方は私を此処まで運んで来て下さったではありませんか。」
その時、部屋の扉が開けられ、女中が食膳を捧げて入って来た。
匙を手に、食膳の粥をひとくち啜った華鳥は顔を蹙めた。
「味が感じられない。まだ味覚がおかしいようですね。それとも、旅先で貴方が作る極上の味に慣れてしまったからかしら...。」
それを聞いた潘誕は、ちょっと考える仕草をした後、立ち上がった。
「少しの間、出掛けて来ます。夕刻迄にはに戻ってきますから....」
飛仙の店を出た潘誕は、昨日やって来た道を戻り始めた。
脚の傷はまだ痛むが、歩行するだけなら支障はない。
歩みを進めながら、潘誕は昨日駆け込んだ飛仙の事を思った。
「飛仙なら、そりゃ俺だけじゃなく誰だって知っている。魏が発祥だが、今では蜀や呉だけでなく、遥か西域にまで商いを拡げている大店だ。華真様と華鳥様が、大きな商家の出とは聞いていたが、まさか飛仙だったとは….。お二人共に気品が備わっているのも道理だな….。そんな大店が呉の領内に構える店ならば、魏といえども簡単に手は出せないだろうな。」
そう考えを巡らしながら、潘誕は二つ目の峠に差し掛かった。
「確か、此処だったな…。」
そう呟きながら、潘誕は街道脇の藪に分け入った。
昨日この峠まで来た時、藪の奥に強い獣の気配を感じた。
しかもかなり大型の奴だ。
華鳥を背負っていた潘誕は、その獣と鉢合わせしないようにと念じながら、気配を殺して此処を通り過ぎた。
「だが、今日は違う。是非お前さんの面と対面したくて、わざわざ戻って来たんだよ。」
そう独り言を口にしながら藪を掻き分けた潘誕の直ぐ近くで、大きく藪が揺れた。
そして、薮の中から突然飛び出して来た獣の姿を見た潘誕の顔に、不敵な笑みが拡がった。
夕刻となり、飛仙の屋敷では、華鳥の元に女中が夕餉の膳を運んで来た。
椀から漂う香りに、華鳥は寝台から身を乗り出した。
「何とも言えぬ良い香り....」
華鳥の声に、女中が答えた。
「潘誕様が作ったのです。昼の間ずっと出掛けておられたのですが、大きな猪を背にして戻って来られました。そして直ぐに、料理場でご自身で調理を始められたのです。薬草の粉のようなものを沢山使っていました。」
すると部屋の外から声が掛かり、潘誕が入って来た。
「前に、野戦料理の猪をご馳走するって約束してましたね。今日は猪を狩って来たんで、其奴を料理しました。今の華鳥様には、いきなり炒飯は無理なんで、炒飯を猪肉と一緒に乳で煮込んで柔らかくしてあります。」
華鳥は、椀の中身をひとさじ掬って、それを口に含むとゆっくりと眼を閉じた。
「美味しい...。舌が喜んで居るのが良く判る....。」
其処に、華鳥の祖父が姿を見せた。
「いやはや、潘誕殿は、蜀軍でも一二を争う武芸の達人と聞いておりましたが、料理の腕も一流で御座いますな。台所は大騒ぎになっております。皆がこんな美味いものは初めて食したと言って...。料理の香りが店の外にまで漂い、それを嗅ぎつけた街の者達も押し掛けております。振る舞い椀を配ったところ、大変な評判になっておりますぞ。」
翌日、潘誕は華鳥に呼ばれ、書斎へと向かった。
書庫には、膨大な数の書籍が壁の棚に分類されて保管してあった。
置かれていたのは主として竹書だったが、石版や羊皮に記録された資料もあった。
「此れは凄い。古の春秋時代の博士達の文献が勢揃いではないですか....。此れは孫武の兵法書ですね。」
細い竹片を糸で繋げた分厚い書籍の一つを手にして、それに見入る潘誕を、華鳥は興味深げに眺めた。
「やはり貴方は、単に武芸だけのお人では有りませんね。王平様に余程仕込まれたのでしょうね?」
そう言われた潘誕は、視線を書籍に落としたまま答えた。
「主に習ったのは兵法です。最初にこの孫武を習いました。『百戦百勝は善の善なるものに非ず』というこの部分に、先ず衝撃を受けました。」
「儒家なんかも習ったの?」
「まぁ一通りは....。でもあれはあんまり好きじゃないです。身分差別的な所に抵抗を感じてしまって...」
「そうね。私も儒学は嫌いです。儒家では商いや女性を蔑視するから...。私が好きなのは墨家の博愛思想ですね。兄の華真は、此処にある書籍は全て読破して、陰陽に一番興味を持ってました。それから天文をずっと研究していたようです。」
「此れを全部読んだのですか...。流石に、姜維宰相が一目置く方ですね。華鳥様も、色々な学問に精通されて居るのですね。」
「父が学問好きで….。商家の跡取りでしたが、書籍の収集が趣味でした。此処の蔵書は、全部父が集めたものです。父は今、商いの為に遠方に出掛けておりますが...。そうそう、貴方を此処に呼んだのは、こんな話をする為ではありませんでした。兄の華真から文と荷物が届いているので、それを貴方にも見て頂く為です。」
そう言って華鳥は、竹簡と風呂敷包みを、机上に並べた。




