狼群の頭領
呉を目指す旅に出立してから二ケ月余。
華鳥と潘誕は、驚異的な速さで呉領に近づいていた。
蜀に戻る帰路が冬になれば、積雪で歩みが妨げられる。
だからこそ秋が深まりゆく前には、往路でここまで到達しようと事前に打ち合わせていた通りの旅程を熟す事が出来た。
「華鳥様。あの山を越えれば、いよいよ呉の領内に入ります。ようやく此処までたどり着きましたな。但しあの山には山賊が多く出没すると、昨夜宿泊した宿坊の主人が言っておりました。油断は禁物ですね。」
「そうですね。ここからが難関でしょう。そうなると、この後は街道を真っ直ぐ行くより、山道を辿った方が人目に付きにくいかもしれませんね。」
「仰る通りですね。多少歩くには難儀ですが、それが宜しいかと...。」
こうして華鳥と潘誕は、街道を逸れて山道へと踏み入った。
足元の悪い山道を、軽い身のこなしで進む華鳥の姿に、潘誕は眼を瞠った
あの華奢な足腰で、よくあれ程に悠然と進めるものだ…..。
華鳥は、殆ど道とは見えない獣道まで正確に察知して歩を進めていた。
潘誕も山道にはいささか自信はあったが、流石にこのような真似は出来ない。
何度も後ろから進路を指示される中で、潘誕は途中から諦めて、歩みの前を華鳥に譲った。
「何故道が分かるんです?」
「貴重な薬草を手にいれる為には、山の奥の奥や、時には切り立った崖にまで赴かなくてはなりませんでしたからね。そうした事を繰り返しているうちに、自然に身に付いたのです。」
「そうでした。華鳥様は、お医者様でしたね。しかしこんな山道をこれほど軽々と進めるとは...。まるで子鹿のようです。」
「あはは..。食べる姿を見て狼と言い、歩く姿を見ては子鹿ですか...。私は、色んな獣に姿を変えられるようですね。」
「いえ...。いつも佇んでいらっしゃる華鳥様は、まるで天女ですよ。」
「まぁ、お上手ですね。お世辞を言っても、何にも出ませんよ。」
そう言いながら華鳥は、ふと足元の獣道に眼をやると、其処に何かを見つけて微笑んだ。
そして周囲を見渡した後、親指と人差し指で輪を作ると、それを唇に当てて甲高い指笛を鳴らした。
「今の合図は何ですか?」
「私の知り合いが、この近くに来ています。ですから私達が此処にいる事を知らせたのです。」
「知り合い?それは誰です?」
「ふふ...今に分かりますよ。」
半刻あまり山道を進んだ二人は、やがて山の中腹の草原に達した。
「此処で一休みしましょう。呉領に入ったら、何処かで街道に出るようにしましょうか。」
額の汗を拭いながら潘誕が、華鳥に声を掛けた。
「そうですね。呉に入った後、最初にある大きな町に辿り着ければ、そこに兄からの情報を受ける場所があります。今日中にそこまでたどり着きたいですね...。」
そこで華鳥は、表情を変えて言葉を止めた。
同時に潘誕も、周囲に異変の空気を察知して身構えた。
「何かが迫ってくる。此れは人の気配。しかも大勢....此奴はおそらく山賊共ですな。四方を囲んで、輪を縮めて来てる...。大人しく前に行かせてくれる雰囲気ではないですね。」
そう言いながら、潘誕は葛籠の横に括り付けた袋を解くと、中から剣を取り出した。
「俺が前方の連中に仕掛けている間に、華鳥様は、とにかく前へと駆けて下さい。」
「いえ...、それでは囲みを突破する事は出来ませんね。それよりも気付かぬ振りをして、このまま連中を引き寄せるのです。」
「引き寄せる....?。一体何をされる積りなのですか?」
やがて二人の正面に、見るからに悪人面の三人の男が姿を現した。
真ん中にいた髭面の男が、二人を見てにんまりと笑った。
「街道を避ければ安全などとは、考えが甘いぜ。さて先ずは大人しく背中の荷を下に降ろせ。」
男の声と共に、草叢をかき分けて更に十人余りの山賊達が姿を現し、華鳥と潘誕の周りを取り囲んだ。
「荷を渡せば、何もせず通してくれるのですか?」
華鳥の問いかけに、髭面の男は鼻で笑った。
「そんな訳ないだろう。お前のような上玉をこのまま見逃すなど....。こんな良い女は久し振りに見た。」
首魁らしき髭面は、華鳥を正面から舐め回すように見ると、舌なめずりをした。
剣を構えた潘誕が、華鳥を庇うように、ひたと寄り添った。
そんな潘誕の姿を見た山賊達は、せせら笑うように前に進み出た。
「おい色男。その女を守ろうとする意気込みはご立派だが、多勢に無勢という言葉を知らんのか? お前一人で、俺達全員を相手に出来ると思うのか? さっさと剣を下に置け。大人しく女と荷を渡せば、お前の命は助けてやらんでもないぞ。」
首魁の言葉にいきり立つ潘誕の横で、華鳥が髪を搔き上げながら、にんまりと笑った。
「ふふ...人数だけが全てでは有りませんよ。私達を甘く見ないで下さい。」
それを聞いた首魁は、呆れたような声を発した。
「お前、血迷ったのか? 自分が今、どんな立場に居るか判らんのか?」
「自分達の立場が判っていないのは、貴方達の方です。振り向いて、周囲を見渡して御覧なさい。分かりませんか? 自分達の側に何がいるかが。」
華鳥の言葉に、後方へと目を配った山賊達の表情が引き攣った。
「な、何だ此れは。いつの間に....」
山賊達の後方には、無数の狼の群れが、じりじりと迫ってくる姿があった。
山賊達と目があった瞬間、狼達は一斉に牙を剥き、威嚇の唸り声を挙げた。
狼達の威嚇を前にした山賊達の足が竦んだ。
山賊達は、華鳥と潘誕を置き去りにして、一目散に山の麓に向かって駆け出した。
それ見た狼の群れの一部が一斉に跳躍し、逃げる山賊達の背後から襲いかかった。
山賊達は悲鳴を挙げ、剣を振り回しながら狼達に応戦した。
しかし狼達の素早い攻撃に晒されて、忽ち数人が押し倒された。
その時、華鳥が指を唇に当てて、甲高い指笛を鳴らした。
指笛につられた狼達の視線が一斉に華鳥に集まり、ぴたりと攻撃が止んだ。
その隙を逃すまいとばかり、山賊達は半ば這うように坂下へと逃げ去っていった。
山賊達の姿が見えなくなると、狼達は今度は草原に佇む華鳥と潘誕に対峙した。
狼群の中から、ひときわ大きな白い狼が前に進み出て、二人の側に近づいて来た。
それを見た潘誕が剣を構えて、鯉口を切った。
そして華鳥を背後に押しやろうとした時、華鳥が優しい声を発した。
「露糢、久し振りね。皆元気にしていた?」
白い狼は、甘えるような唸り声を挙げると、頭を下げて二人の側に歩み寄って来た。
そして華鳥の前に立つと、腰に顔を擦り付けた。
白い狼の首筋を優しく撫でる華鳥の姿を、潘誕は唖然として眺めた。
「この仔達が、先程言った知り合いですよ。獣道でこの仔達の糞を見つけたので、笛を鳴らしたのです。この白い仔が、群れを率いる頭領です。私が露糢と名付けました。」
「なんと...狼が知り合いとは...。」
華鳥に習って、露糢の顔に手を差し伸べた潘誕に、露糢の側にいた狼達が一斉に威嚇の唸り声を挙げた。
それに露糢が睨みつけるような視線を向けた途端、狼達は唸り声を止めて後ろに下がった。
露糢の首筋をさすりながら、潘誕は感嘆の声を挙げた。
「狼が人に懐くなんて...。こんなの初めてです。どうやってこの狼達と知り合ったのですか?」
「露糢が、熊と闘って傷つき倒れていた所に、薬草を探しに山に入っていた私が通りかかったのです。ほら...これがその時の傷です。」
華鳥が露糢の腹に手を当て、毛を搔き上げると、其処には大きな傷の縫い痕があった。
「華鳥様は、この狼の命の恩人という訳ですか...。それでこのように...。いやはや、俺は華鳥様を、狼と言ったり、子鹿と言ったりしましたが、やはり狼ですな。しかも狼の女王様だ。」
「あら...。天女とも言って下さったではないですか? でも貴方は豪胆な方ですね。初めて会った露糢に平気で手を伸ばすなんて...。だから露糢も、貴方が敵意を持ってない事が直ぐに分かったのですよ。」




