司馬懿の真実
魏の陣へと戻って来た夏侯舜は、父の夏侯覇との邂逅について、魏軍総大将の王沈に報告した。
「夏侯覇が、そのような事を....。残念だが、お前の父は完全に蜀に取り込まれてしまったようだな。しかし蜀は思った以上に早く国を纏めているな。今回は直ぐに兵を撤収する。我らも国を纏める事に専念せねばならぬ。長安に居る賈充殿とも、この事を協議せねばならぬ。お前はもう下がって良いぞ。」
本陣から離れた夏侯舜は、自分の麾下の兵達が待機する野営地に戻ると、一人の人物を呼び出した。
夏侯舜に呼ばれてやって来た男は、顔全面を包帯で覆い、片目には眼帯を装着していた。
夏侯舜は、父と交わした会話の全てをその男に語った。
そしてその後、刺すような眼を男に向けた。
「貴方からの進言通りに父と会った結果は、今話した通りだ。さて今度は何故俺にこのような事をさせたのか、それについて貴方の話を聞かせて貰いたい。」
夏侯舜から尋ねられた男は、顔の包帯に一寸手をやった後、口を開いた。
「夏侯覇殿の本音を探る為です。夏侯覇殿という方は裏表の無い人物です。その方が何を語るかを通じて、蜀の現状も透けて見えると思ったのですよ。魏軍大将の王沈殿が、貴方が夏侯覇殿の元に向かう事を許可するのも予想通りでした。」
「それでは父が語った事については、どのように考える? 貴方なら思う事が有るのではないか?」
夏侯舜の言葉に、男は首を傾げて見せた。
「何故、私の意見が聞きたいのです?」
「貴方が、司馬一族最期の生き残りである司馬炎殿だからだ。俺のような武辺者とは違い、貴方は祖父や父から、世の情勢や人の心を読む術をずっと学んで来た筈だ。そもそも貴方が、顔を焼き人相を変えて、俺を尋ねて来た時から不思議だった。俺はずっと司馬と反目し合って来た一族の人間だぞ。それでも敢えてここに来たのは、今回の事と何か関係があるのではないか?」
その言葉を聞いた司馬炎は、噛み殺すように低い笑い声を挙げた。
「流石に今の夏侯一族にあって俊英の誉高い夏侯舜殿だ。その通りですよ。今の蜀の情勢については、夏侯覇殿から話を聞くのが一番。しかも息子の貴方になら、あの方は嘘は言いませんからね。何より一番知りたかったのは、父上が貴方に話された『志』というものだったのです。王沈殿は、そのような事には気も止めず、単に夏侯覇殿が率いた蜀軍の強さにのみ関心があったようですが..」
司馬炎から『志』という言葉が出た途端に、夏侯舜はなぜか全身に緊張が走るのを感じた。
「貴方も『志』という言葉を口にされるのか? 何故? 」
そう問われた司馬炎は、ぐいと顔を挙げた。
「それが、国を安定させ、治める為に最も大切なものだからです。祖父の司馬懿は、曹叡帝を始めとする曹氏の方々を悉く毒殺し、自らも毒杯を煽る前に、私に長い遺書を残しました。そこに書かれていた事こそが『志』だったのです。」
それを聞いた夏侯舜は、思わず声を張り上げた。
「それでは….。司馬懿達が行った事は、反逆ではないと言いたいのか? 司馬懿殿の書き残した『志』とは一体何なのだ?」
司馬炎は、夏侯舜の興奮を宥めるように暫し沈黙した後、ゆっくりと言葉を発した。
「祖父が政の基本と考えていたのは、初代帝の曹操様が抱き続けた『志』でした。祖父にも父にも、皆が言い募るような国を簒奪する意思など無かったのです。しかし帝が代替わりする中で、その志が失われて行っているのではないか...と疑念を抱いていました。特に曹叡様のやり方に接してからは、より疑念を深めるようになっていました。だからこそ曹操様の志を守り続ける為には、自分達一族が一定の力を持ち、発言力を保持しなければならないと考えたのです。」
「それ故に、夏侯一族を始めとする他の一族の力を弱めようとしたと...?」
「そうです。特に夏侯覇殿は、指折りの曹叡様派でしたからね。その上、司馬一族へは常に敵愾心を露わにされていました。祖父と父の眼には、最大の政敵と映ったのです。祖父達は、当面の標的を貴方達、夏侯一族に絞りました。特に頂点にいる夏侯覇殿を除く為に、様様な策を講じたのです。」
「夏侯覇殿が蜀に捕らえられた時、祖父達は、これで一定の成果が得られたと思いました。しかし曹叡様が、夏侯覇殿をあっさり見捨てた事に驚きました。同時に、次は司馬一族にも曹叡様の牙が向かってくると悟ったのです。祖父はこの時、曹叡様を始めとする曹氏の人々の心の中から、初代帝曹操様の志が全くと言って良いほどに失われていると確信しました。」
「初代帝曹操様の志とは、何なのですか?」
「人の和を持って、国を統べる。それが曹操様の志です。人が付いて来ない指導者の政に未来は有りません。人を軽んじる事は、国の崩壊の萌芽なのです。祖父は私を呼び、『曹叡様を唆している者が、帝周辺に居らぬかを密かに調べよ。帝を誤った道に誘う者が居れば、それを除かねばならぬ』と命じました。その時は、曹叡様が首魁とはすぐには確信出来なかった….いえ…そう思いたくなかったのでしょう。」
夏侯舜は、思わず拳を握り締めた。
「ところが、全ては帝である曹叡様ご自身のご意思だったと….。そう司馬懿殿は気付いてしまったのですね。そうだとしても、何故あのような事までせねばならなかったのですか...」
司馬炎は、一度夏侯舜の顔を凝視した後、つと眼を外すと空を見上げた。
「『あのような事』ですか….。祖父があのような行動を決意したのは、蜀と呉から帝を呼び込むという、曹叡様の策謀に気づいた時です。曹叡様は、蜀と呉の帝のみならず周辺の悪臣も共々魏に呼び込もうとされました。魏のみならず世の中全体を混乱に導く愚策を、自分達だけで決めてしまわれた事に、祖父達は絶望したのです。」
「しかし、黄皓や僕陽興、張布達は、司馬懿殿自らが命じて暗殺したではないですか。それで禍いの元は除いたのでは...?」
「違います。曹叡様は、最初からご自身と側近達だけで、その後の政を進めて行く積もりだったのですよ...。劉禅帝や孫休帝など、曹叡様にとっては、早期に二国を潰す為の手駒に過ぎなかったのです。暗殺された側近達についても、邪魔者としていずれ仕末するお考えでした。その時には、これまで魏を支えて来た諸侯達も、全て排斥する考えをお持ちだったのです。お分かりですか? 全ての禍いの元凶は、帝の曹叡様だったのです。」
夏侯舜は、初めて知る真実に震えを覚えた。
「祖父達があのような事をした裏には、曹操様亡き後の皇室に曹操様の志を受け継がせる事が出来なかったという悔悟があったと思います。遺書の最後は、曹操帝への懺悔で結ばれておりました。祖父と父は、亡き曹操帝の志に殉じたのですよ。」
「其処までは判りました….。しかしそれでは、貴方が俺の元に現れた説明にはなっていませんね。司馬懿殿達の思いと、今回貴方の仕掛けた事。何処でどう繋がるのか、それを教えて頂きたい。」
夏侯舜が話題を元に戻した事で、司馬炎は一度ほっと息を吐き、改めて夏侯舜を見遣った。
「夏侯覇殿が、蜀に降ったと聞いたからです。曹叡帝に対して盲信的な従属をされていた夏侯覇殿が、虜囚となった後に、なぜ自死を選ばず蜀の下に付いたのかが解せませんでした。此れは何か有ると思いました。夏侯覇殿ほどの方を変心に導いた何かが...。それを知るには夏侯覇殿に会わねばなりませんが、普通ではそのような事は不可能です。」
「それで俺に近づいたと...。もしや父が俺に会いに来るとでも思っていたのか?」
「まさか……。しかし今回の蜀遠征に当たって、貴方が前線の将の一人に指名された事を聞き、お二人の邂逅の機会を作ることが出来るやも…と思いました。王沈殿も、貴方が申し出れば、夏侯覇殿から蜀の内情について話を聞けるのでは、と気付く筈ですから。」
「それで、俺を訪ねて来たと….? そして父の元に向かうように囁いてきたと言うのか….。まるで父が話す内容についても、予め予想していたような行動だな…..。」
「確信など有りませんでした。しかし胸騒ぎのようなものは有りました。そして、先程の貴方の話を聞いて、やはり...と思いました。夏侯覇殿に、大切な志のことを説いた者が蜀に居る。しかもそれに夏侯覇殿が納得されたと言う事は、蜀では新たな志を確立する何らかの術を見つけていると確信しました。」
夏侯舜は、司馬炎の言動に、またしても只ならないものを感じた。
「何故そのように志と言うものに拘る? しかも魏ではなく、他国である蜀の事に?」
司馬炎は、夏侯舜の傍にずいっとにじり寄ると、顔を覗き込んだ。
「祖父は、二通の遺書を私に残しました。一通は、曹氏を滅ぼすに至った経緯を語ったもの。これに付いては、先程お話しました。もう一通ですが、それは祖父が私に託す最後の使命を記したものでした。『もう一度この世に、志を打ち立てねばならぬ。但しその萌芽は魏で生じるとは限らぬ。恐らく一番可能性が高いのは蜀だ。お前は、其れを確かめねばならぬ』...そう記されていました。」
その司馬炎の言葉に、夏侯舜は震撼した。
「も、もし、蜀にその志の萌芽があった場合は....? その時はどうしろと、司馬懿殿は書き残されたのですか?」
司馬炎は、やや声を顰めながらも、はっきりとした声音で答えた。
「『自分の眼で、その志の真贋を確かめよ。そしてそれが世を安寧に導く正しきものであった時には...』」
夏侯舜は、思わずごくりと生唾を飲んだ。
「そ、その時には...?」
司馬炎は、夏侯舜の緊迫した思いを無視するように、淡々と言葉を繋げた。
「『お前はその志に殉じよ。それが世を正す事に、己の命を賭せ...』」
司馬炎の言葉に、夏侯舜は呆然となった。
「そ、それは…..この後の世を治めるのが、魏ではなく蜀であっても良いという意味ですか? 」
「魏呉蜀の各々初代帝は、皆が志を持っていた...と祖父は断じています。それを達成する方法論が異なっていただけだと。其れに両雄並び立たず...と言います。ならば三帝が並び立つ筈もない。三国はそのような運命で始まった。しかし三国いずれもが志を失った今となっては、今後新しき世を創る志を背負える者は一人だけだろう...そう祖父は言い残しました。」
夏侯覇と夏侯舜との邂逅について、夏侯覇自らより報告を受けた華真は、宙に眼を彷徨わせた。
「そうですか。ご子息の夏侯舜殿が、単騎一人だけで将軍に会いに来られたのですか...。魏が夏侯覇殿に対して、何か戦以外の事柄を仕掛けて来るかもしれないとは思っていましたが....。ただその場合には、懐柔であろうと想像していました。今回の事が、魏軍大将の王沈殿が思い付いた事だとすれば、私は王沈殿を見直さねばなりませんな。」
華真の言葉を、夏侯覇は即座に否定した。
「それは違う。夏侯舜は自ら申し出て、俺に会いに行く許可を貰ったと言っていた。王沈の策略などではないと思う。」
「そうなると夏侯舜殿は、噂以上の俊英と言う事ですね。貴方が嘘偽りなど言われる方ではない事を前提に、蜀の現状について自ら探りを入れに来られた....。そう言う事になります。」
「俺は、何か拙い事を息子に話してしまったのだろうか?」
「そのような事はありません。将軍ご自身の今のお立場について、息子である夏侯舜殿に、忌憚なく心の内を明かすのは、間違いでも何でもありません。」
華真からそう言われて、夏侯覇はほっと胸を撫で下ろした。
「しかし魏は、蜀が予想以上に国を纏めていると気が付いたでしょうな。前線の兵は直ぐに撤退でしょう。この時期に無益な戦が避けられるのは、我々も歓迎です。華鳥殿が、次の帝に相応しいお方を迎えて戻る時間が稼げますからね。」
そう言って安堵の表情を見せた姜維の横で、華真が表情を曇らせた。
「その事ですが、思いの外に時間が掛かるかもしれませんね。陸遜殿と呂蒙殿が、簡単に送り出してくれるかどうか...。それに...。」
「それに...? 何ですか?」
「先程話に出た魏ですが...。夏侯舜殿が夏侯覇将軍の元にやって来たのが、王沈殿の命によるものではではないという点です。夏侯舜殿ご自身の判断ならば、それはそれで良いのですが、そうでない場合、別の事を考えている者がいるやもしれません。その場合、恐らくそれは長安の賈充殿でもないでしょう。」
「それでは誰か別の者が、夏侯舜殿に仕向けたと....?」
姜維の言葉を耳にしながら、珍しく華真が考え込む仕草を見せた。
「判りません...。しかし、もしそのような者がいるとすれば、注意をせねばなりません。魏に居るその者が、我々の計画を知った場合、二つの行動を起こすことが考えられます。一つは我々が迎えようとするお方を、蜀に到着する以前に亡き者にしようとする事。そしてもう一つは...。そのお方を魏が取り込み、我々より先に推戴しようとする事です。それも考えて置くべきだと思います。」
華真の言葉に、すぐさま姜維が手を横に振った。
「二つ目についてですが、それはないでしょう。...我らがお迎えしようとしているお方は、劉備帝と孫尚香様との間に産まれた皇子ですぞ。呉はともかく、血筋の縁の無い魏が、推戴などを考える筈はないではありませんか。」
姜維にそう言われても、華真の眉間の皺は緩まなかった。
「魏で起きた曹氏の死滅事件を聞いた時、私は何とも解せませんでした。司馬懿ほどの人物が、何故あのような事を仕出かしたのか...。以前の私は司馬一族は、国の簒奪を画策している可能性もある思っていましたが、違っていたようです。」
華真の言葉に、夏侯覇が反発した。
「どう違うと?司馬懿は、陰湿な男ですぞ。俺は前々から、あの男がどうしても好きになれなかった。以前に俺をわざと蜀の前線に向けさせたのも司馬懿だろうと、華真殿も言っていたではないか?」
「ですが、あれほど先読みをする司馬懿殿が、一族の滅亡も顧みずに曹叡帝に毒を贈るなど....。もしかすると、司馬懿殿には、司馬一族を滅亡させても守らねばならぬものがあったのやも知れません。」
華真は、遠く宙を見る眼になった。
「劉禅帝が、初代劉備帝の志を継げなかったように、曹叡様も、曹操帝の志を顧みなかったとも考えられます。司馬懿殿は初代曹操帝からの魏の忠臣。司馬懿殿はそんな状況には耐えられなかったのかもしれません。」
すると腕組みをした姜維が、華真の言葉の上に更に推理を積み重ねた。
「司馬懿殿達が曹操帝の志に殉じた結果が、あの曹氏毒殺の真相かもしれぬと言う事ですね。そしてその遺志を継ごうとする者が居るかもしれないと、華真殿は仰りたいのですね?曹氏全てが死に絶えた今、新たに曹操帝の志を継ぐ存在を、その者は探して居ると....。すると華真殿が先程指摘された最初の可能性には合点が行きます。その者は、当然魏の再興を目指しているでしょう。先に蜀で動きがあれば、当然ながら潰しにかかります。このまま華鳥殿と潘誕だけに任せて置くのは危険ではないですか?更に人を送る方が良いのでは?」
すると華真は手を打って、それ以上の議論を打ち切った。
「申し訳ありません。これは単なる私の想像です。万が一その想像が当たっていた場合でも、下手に動けば、それは相手に此方の手の内を知らせる結果になってしまいます。それに…。」
そう言いながら、華真は席を立つと窓辺に向かい、そこから空を見上げた。
その姿には、まるで天に向かって語り掛けているような風情が漂っていた。
「それに私は思うのです。我らがお迎えしようとしているお方が、真に天の意思に沿うならば、天だけでなく人も味方すると。その場合、魏で動く者は敵とは限らないのです。此処は華鳥と潘誕殿に任せましょう。但し魏の動きは、もう少し探らねばなりません。」




