父子邂逅
華鳥と潘誕が、呉を目指す旅に出てから一月が過ぎた時、蜀と魏の国境に久々の緊張が走った。
魏の軍勢約二万が、国境の直ぐ近くに集結して、侵攻の構えを見せたのである。
「何故、今このような動きをするのだ? 魏とて国が混乱の最中なのに...」
訳が分からぬと首を捻る姜維と王平に対して、華真が口を開いた。
「今の魏で覇権を争っているのは、夏侯一族以外の軍属達です。まだ合従連衡の状態ですが…。その中で賈充と王沈が手を組んで、抜け出しを図っています。此度の動きは、恐らく彼らの意図でしょうね。」
未だ合点が行かない表情の姜維と王平を見て、華真は言葉を続けた。
「軍属がその威厳を示す手段と言えば、何と言っても自分の持つ軍の力を見せつける事です。賈充と王沈は、蜀に多少なりとも勝利する事で、他の軍属達に己の力を見せつけたいのでしょう。本格的な戦にまで行くとは思えませぬが、多少の小競り合いは仕掛けてくるでしょうね。今の蜀がどの程度まで国を纏めているかを探る為にも...」
華真の説明を受けて、漸く納得したように姜維が頷いた。
「成程。そういう事ですか。それであれば、最初の仕掛けを跳ね返せば、直ぐに兵を引くと言うことですね。」
すると、それまで黙って華真達の話に耳を傾けていた一人の将軍が立ち上がると、前に進み出て来た。
「要となるその最初の戦、俺に任せて頂きたい。」
姜維は、立ち上がった将軍の顔を見て意外そうな顔になった。
「夏侯覇殿...。何故、貴方が...? 相手は、魏の軍なのですよ。」
「だからこそ、此処で志願した。俺が魏の軍勢を打ち払って見せれば、蜀の諸侯達も俺を仲間と認めてくれるかもしれない...そう思ってな。姜維宰相殿も、元は俺と同じ立場だったから、俺の気持ちは分かって頂けると思うが...?」
夏侯覇の言葉に、姜維は納得の表情を浮かべた。
すると華真が、夏侯覇の前に歩み出た。
「将軍からの申し出に対して、宰相殿の許可は出た様子ですね。それでは夏侯覇将軍。私が一つ策を提案したいのですが、聞く耳を持って頂けますか?」
夏侯覇は唇の端を上げると、自身も華真に向き合った。
「以前に俺を完膚無きまでに叩きのめし、捕らえたのは貴方の策であろう? 今の俺は、自分が完敗した相手の言葉を無視するほど傲慢ではない。馬超殿にもたっぷりと説教されたしな....」
華真が語る策にじっと耳を傾けてた夏侯覇は、やがて大きく頷いた。
そして勢いよく立ち上がり、大股でその場から退出した。
その様子をずっと注視していた姜維が、満足そうな表情で華真に話しかけた。
「夏侯覇殿も、これで真の猛将となったのではないですか? 以前は蛮勇のみが目立つお方だったが...」
「宰相殿の仰る通りです。しかし、夏侯覇殿が蜀に付いた事は、魏も既に察知しております。此処であの方が出て来る事も、ある程度の想定はしておりましょう。それを分かった上で夏侯覇殿は志願された。言葉は悪いですが、これは見ものですね。」
出陣した夏侯覇は、魏の軍が集結している草原を見下ろす丘陵の上に、約千の騎馬を率いて布陣した。
「成程。華真殿が言われた通り、戦線は前に張り出してはいるが、腰が引けているな。最前線と後詰めの兵達の間隔が開き過ぎている。何かあれば一目散に退散という意図が見え透いているな。そうならば、先ずは掻き回してみるか…..。」
そう一人ごちた夏侯覇は、騎馬隊に鋒矢の陣形を命じると、すぐさま先頭に立って駆け出した。
大将旗を先頭に、蜀の騎馬隊が迫って来るのを目にした魏軍は、直ぐに鶴翼の体制を取り、陣の中央を開けて、夏侯覇達を内側に包み込む構えに転じた。
それを見た夏侯覇は、してやったりとばかりに手綱を強く握り締めると、周囲の騎兵達に向けて大声で怒鳴った。
「よし、注文通りだ‼︎ 怯むことなく俺に続け。あの鶴翼は見た目よりも底が薄い。いつでも退却出来るように、後詰めの軍勢を遥か後ろに下げた見かけ倒しだ。真ん中を一気に突っ切り、直ぐに反転して右翼を崩すぞ‼︎」
己の数倍を越える魏軍の真ん中に、蜀の騎馬隊がいきなり飛び込んで来るとは思っていなかった魏兵達は、夏侯覇達の動きに思わず立ち竦んだ。
鶴翼の左右の翼の位置にいた魏兵達は、鏃形の隊形で突っ込んで来た夏侯覇達を包み込む暇もなく、呆然と動きを止めたままだった。
その隙を突いた蜀の騎馬隊は、難なく魏軍鶴翼の底辺にまで自軍を押し込んだ。
そして魏兵達を蹴散らすと、ぽっかりと空いた魏陣の中央へと抜け出した。
そして直後に一気に反転すると、鳶が獲物に襲い掛かるような素早さと獰猛さで、今度は魏軍の右翼へと襲いかかった。
夏侯覇達の勢いに押された魏軍は、一気に陣形が乱れ、兵達は散り散りとなった。
右翼を崩して、最初の場所まで駆け戻った蜀騎馬隊が再び反転し、今度は左翼を襲う構えを見せると、魏軍兵達は逃げ出すように後退して行った。
その様子を目にした夏侯覇は、其処で攻撃を止めた。
「攻撃中止だ。もう相手は戦意を喪失している。このまま後退するだろう。」
正に電光石火の攻撃だった。
駆け戻って来た蜀軍の騎馬隊には、殆ど被害は出ていなかった。
「華真殿の策が、まんまと的中したな。しかしこの魏の無様さはどうした事だ。天下無双と言われた勇猛さは、何処に行ってしまったのだ...」
魏軍を鮮やかに撃退したにも関わらず、夏侯覇の顔に笑顔は無かった。
その時、後退する魏軍の中から、騎馬に乗った将校が只一騎、蜀軍に歩みを向けて来るのが見えた。
魏の将校が蜀軍前線との距離を縮め、その姿が大きくなった時、蜀軍の一番前で弓矢を構える兵達を夏侯覇が制した。
そして夏侯覇自身が一人馬で進み出た。
夏侯覇は、蜀魏の軍勢が向かい合う草原の中央で、歩み寄る魏軍将校と対峙した。
最初に声を発したのは魏の将校だった。
「やはり、父上でしたか....」
夏侯覇は、単身馬を進めて出て来た息子に呆れたような視線を向けた。
「夏侯舜、何をしに出て来た? 停戦でも申し入れに来たのか?」
批判を帯びた口調の夏侯覇に、息子も同じく非難を交えた視線を返した。
「騎馬隊の先頭を駆ける大将旗を見た時、直ぐに父上と分かりました。私は、父上と話をしに来たのです。何故父上が、蜀軍の先頭になど居るのです? 魏で随一の猛将と言われた父上が、何故...?」
夏侯舜の問いかけに対して、夏侯覇は不機嫌そうに顔を顰めると、吐き捨てるように答えた。
「今の魏は、俺が嘗て仕えた魏ではない。帝の血筋も既に絶え、覇者同士が争う国に成り下がった。」
夏侯舜は自分が乗る馬を、夏侯覇の側まで近付けた。
「だからこそ、今の魏には父上のような方が必要なのです。魏は嘗ての魏ではないと、父上は仰いましたが、それは蜀とて同じでは有りませぬか? 帝は魏へと逃げ出し、無様な死を遂げております。今の蜀に何が有ると言うのですか?」
其れを聞いた夏侯覇は、今度は諭すような視線を息子へと向けた。
「その通りだ。魏にも蜀にも、帝は既に居ない。しかし俺たちが考えねばならぬ事は、建国の志がどうなっているかという事だ。」
思いがけない父の言葉に、夏侯舜は戸惑ったように眼を瞬いた。
「建国の志? いったい何の事ですか?」
「お前は、何の為に戦っているかを考えるべきだ。余程の異常者でない限り、人を殺すのが好きな人間など居ない。其れでは、何故だ? 出世の為か? 主君の為と言うなら、今のお前に戦いを命ずる者は、お前が命を賭けるに値する人格者か? 嘗ての三国の礎が崩壊した今、残された者達は皆、その事を真剣に考えなくてはならないのだ。」
夏侯舜は、再び眼を瞬かせて、不思議そうな表情になった。
そして自分の前に立つ人物が、本当に自分の父なのかを確認するように、もう一度夏侯覇を凝視した。
「人の上に立つ者というのは、人が命を賭ける事柄に意味を与えなくてはならぬ。其れが我欲から出たものなら、その者には上に立つ資格はない。其れは弱肉強食の覇者の論理だ。覇者は、世に安寧を齎らす事は出来ぬ。必ず別の覇者が現れ、その者に滅ぼされるからだ。そのような営みに命を張るのは愚だ。特に俺達のような武者達こそが、その事を考えねばならぬ。」
父の言葉を前にした夏侯舜の顔に、意外そうな表情が浮かんだ。
「父上は、今までも常にそのように考え、戦に臨んで来たと仰るのですか?」
「残念だが其れは違う。嘗ての俺は戦が目の前にあったから戦った。戦の意味など考えた事は無かった。だから蜀に捕らえられた時には、死ぬ事しか頭に無かった。だが、そんな俺に戦う事の意味を教えてくれた者が居た。武人が戦うのは、正しい志を達成する為に、その志に殉じると言う事をだ。」
夏侯覇の口調は、自分自身に言い聞かせるような雰囲気を帯びていた。
「だから今、俺は此処に居る。信じるに足る志に殉じる為に....」
夏侯舜は、目の前にいる父が、全く別の人物に置き換わっているような感覚に囚われた。
「それでは父上は、蜀には正しき志を持つ、真の新しき帝が居ると仰るのですか?」
夏侯覇は、その問いには首を横に振った。
「今の蜀にそのような方は居ない。だが、その方を探し出せる希望はある...と、俺は教えられた。俺は、その希望に賭ける事にしたのだ。」
「父上がそのような事を仰るとは....。私には未だ合点が行きませぬ。」
すると夏侯覇の声音に、謝罪を請うような色が混じった。
「そうであろうな。今までの俺は、お前にこのような事、一度も言ってやる事は出来なかった。だから、今の俺を理解しろと、お前に言う積りはない。その資格もない。只一つだけお前に伝える事がある。初代帝の曹操様が嘗て抱いた志が、今の魏には残って居るかどうかを、お前自身の眼で確かめる事が大切だという事だ。もしそれに気付く事が出来れば、お前は生きる意味に向き合う事が出来る。」
初めてそんな父の言葉に接した夏侯舜は、益益混乱した。
「もしお前が其れに向き合う事が出来たなら、その志をお前の麾下の兵達に伝えよ。戦う意味を知った兵は強くなる。調練だけで、兵は強くはならぬ。先程俺が打ち破った魏兵達が、其れを証明している。志無き軍団など、只の烏合の衆だ。」
そう言った夏侯覇は、これで終わりだと言うように背を向けて、蜀陣に向けて馬を促した。
夏侯舜は、未だ納得のいかない表情でそれを見送りながら、父の背中に向けて最後の声を掛けた。
「父上の言葉、良く考えまする。しかしそれは、今の父上を認める事ではありませぬ。何れ父上とは、戦場でまた合間見えるやもしれません。」




